尾去沢鉱山発見伝説
 
              参考:尾去沢下タ沢会相馬茂夫記「下タ沢会によせて」
 
 日本開闢以来金銀銅なかりしかば、呉国(支那江蘇省)より交易せし品斗り用ひてあ
りしを、白鳳元年(650)対馬の国より初めて白銀を献じて、之を以て銀銭を鋳て用ひし
かども、日本国へ廻す所至って不足にて不融通に付、和銅元年(708)武州の国司より銅
掘候趣、訴出十万斤を献ず。是を以て銅銭を鋳させ融通をなす銭を和同開宝と号す。是
銅銭の初まりなり、依って日本国中へ命令を下して、銅のある所あらば訴へ出べき旨国
々へ触示し給ふ。此時国司より国中を穿鑿ありしに、大森山の麓に当りて空中に唐獅子
の形の物顕れ出、供人と覚しき人々梵天を以て獅子の後に候す。彼の梵天を投げ付給ふ
に、人々思ひけるは、国主より御沙汰の銅と申すもの此の処にやあらんかと、其梵天の
立し所を掘て見しに、白(金偏+白)沢山に有て、是を吹立しに銅になりしを国主にさ
し上げ、国守より天子に献ぜし也。依而、此鋪を梵天鋪と号し、今に此鋪ありしと当院
三代目の慈顕院書伝ありし趣、愚僧幼少の頃曾祖父慈顕院折々昔に語って知らせし也。
家督の後、此書付を尋ねしに見へず、尾去村火事の節焼失せしにや。
 
  天平二十年(748)尾去村の清吉と申し者、或夜の夢に唐獅子の形の人、供人に梵天
を持せ所は、大森の後ろ三四森にて、此清吉にゆびさして曰く、此向ふの沢に宝あり、
掘穿てよと夢覚めて明る日、其処に行きて所々掘穿ちて見るに、石中に黄色にして光る
ものあり、我家へ持帰りて粉にして後、火にくべて焼て見るに、解けて光り輝き美しき
事限りなし。人に問へ共曽て知る者なし。或時髪の長き白髪の翁語って曰く、我は天地
間に何事も知らぬ物なしと、清吉彼の品を出して、是は何と申す品なるやと、尋問へし
かば、翁つくつく見て曰く、是れは金と申すもの也。未だ日本には不生、此宝は七宝の
長にして諸物万物の王なり、価の高き事比し可き物なし。最早此品我国へも出し也、あ
ゝ時至れ時至れりと。我は金山彦と言ふ者なりと言ひ残し、金色の光を放ちて水晶山に
飛去れり。
 
 是より清吉彼の金を取りし所へ毎日行きて掘りし所、金色の大石斗り数多掘出せり。
是を吹きて国主に献じければ、国主より天子へ献ぜし所、叡感不斜、奥州の黄金日本一
の名物也と、宣旨あって国主並清吉へ厚く恩賞を賜りけり。是往古の長坂の始り也と三
代目の慈顕院書伝ありし趣き、曾祖父慈顕院愚僧幼少の頃折々昔語りて知らせし也。
 
 愚僧扨考るに、これ二ケ条は、我国金銀の初りにて、大昔の事なるべし、和銅天平の
頃より、文明年中凡七百七八十年の間、此山時至らずして打絶ありしものと見へたり。
文明十三年(1481)に至て土中より金銀銅鉛の世界へ出べき時節来って、前書の縁記の
通り斯く示現ありしものなり。
 
 慶長十七年十八年(1612・1613)日本国中疫病流行して、人の死する事大半に及べり。
此時御奉行渡辺善太夫殿より御沙汰にて、先祖慈顕院御獅子大権現は、疫病除魔除の御
神なりとて、三七日疫病退散悪魔降伏の祈祷仕る可き旨御沙汰にて、御堂に籠り山内一
統参詣仕る可旨仰出、祈祷致し御守を遣しさせ候処、山内には一人も疫病を煩し者なか
りしが程嬉しき事は、出生以来なかりしと、先祖咄なるよし、曾祖父慈顕院愚僧幼少の
頃度々咄せしなり。
 
 延享元年(1744)日本国中ころり風と申す悪病流行して、諸人多く死す。国守公より
施薬を下され、医師衆を国中へ御廻しなされ候。此時も、古例を以て三七日祈祷して守
りを与へしに、山内には一人も死亡の者なく、曾て風を引し者なきよし言伝え有候。
 
 慶長十七年(1612)四月二十三日御山師南部重右衛門殿より(御帯刀屋敷の主にして
十六年大坂の戦に参加致し、留守中の方より)御太刀一腰御紋付の瓶子一対御奉納相成
候。
 此品御拝殿取毀の節、当方にて御預り申上置候処、尾去村大火事の節焼失仕候旨、祖
父三光院申伝の趣、親慈顕院申伝候。
 
 獅子大権現の縁記、古代より数多所々より相出、当院より相出申候趣相認候へ共、聞
誤りの偽書も沢山相出、疑心の輩有是候に付、此度古事よりの記録誠拾穿鑿の上、正御
伝記偏述致置もの也。
        当院二十五代権大僧都
    寛政十一年(1799)四月  慈顕院実秉 敬白
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