〈五節供とは〉
 古く宮中では、節目の日に「節会セチエ」と云う宴が開かれていました。その節会を基に
出来たのが「五節供」です。
 現在では年中行事として桃の節句や端午の節供などが行われていますが、そこにはそ
れぞれにこめられた謂れや想いがあります。
 「節供」と云う言葉は、神様へのお供え物の意味から「節供」と書きますが、現在で
は「節句」と書くことが多くなりました。
 
△人日ジンジツの節供 − 七草の祝い − 一月七日
 「人日の節供」は、お正月の七草粥とてよく知られていますが、古く中国では正月七
日に人を占うところから、人日の節供と呼ぶようになりました。
 わが国には、元々この日に若菜を神様にお供えし、それを戴いて豊作を祈る風習があ
りました。それに、中国での「人日」に七草のお吸物を戴いて無病を祈ると云う風習が
重なって、七草粥を戴くようになりました。
 七草粥には、寒い季節を乗り越えて芽を出す若菜の力強さを分けて貰いたい、との想
いがこめられています。
 因みに「春の七草」とは、セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ
(カブ)、スズシロ(ダイコン)を云います。
 
△上巳ジョウシの節供 − 雛祭り − 三月三日
 現在の雛祭りは普通、桃の花や蓬餅ヨモギモチをお供えして女の子の成長と健康をお祝い
します。
 昔、中国では三月始めの巳ミの日を上巳と云い、この日に川で禊ミソギをする風習があり
ました。
 わが国では、田植えの前に田の神様を迎えるために、人の形に紙を切り抜いた「人形
ヒトガタ」で身体を撫でて穢ケガレを落とし、海や川に流すと云う祓ハラえの行事でした。この
人形が次第に豪華になり、雛祭りが行われるようになりました。
 平安時代の宮中や貴族の間では、三月三日に川や池のほとりに座り、上流から流れて
くる盃が目の前を通り過ぎないうちに歌を詠み、盃をとって、お酒を飲む節会が行われ
ていました。これを「曲水の宴」と云いました。
 因みに雛人形は、嫁入り道具の一つとして娘に持たせる習わしがあります。これは、
嫁入りの道中の災いを雛人形に代わって貰うためです。
 紙で作った人形から、現在のように豪華なものになっても、人の代わりとしての「人
形ヒトガタ」の意味が失われずに伝えられてきました。
 
△端午タンゴの節供 − 子供の日 − 五月五日
 五月五日は、鯉のぼりを揚げたり兜を飾って男の子の成長と健康をお祝いします。
 「端午」は月初めの午の日を指し、以前は五月に限ってはいませんでしたが、次第に
五月五日を端午の節句と呼ぶようになりました。
 元々は苗を植える役目の早乙女が、体を清めて田の神様を祭る行事でした。魔除けの
ためにお供えする菖蒲ショウブの花と、尚武ショウブとをかけて武者人形を飾るなど、この日
が段々に男の子の節供として広まってゆきました。
 
△七夕シチセキの節供 − 七夕祭り − 七月七日
 七夕タナバタは、彦星ヒコボシと織姫オリヒメが年に一度だけ、天の川に橋を架けて逢うことを
許された日、と云う星祭の言い伝えで親しまれています。
 古くは、食物の生長を神様に感謝する収穫祭と、お盆に祖先の御霊ミタマをお迎えする前
に、棚機女タナバタツメと呼ばれる娘が御霊の衣服を織り棚に供え、村の穢ケガレを祓う行事で
した。それに、中国から星祭と乞巧奠キコウデンの風習が導入されて、笹竹に願い事を書い
た短冊を結び付けて祈る行事へと、変化してきました。
 七夕の次の日に笹竹を川や海に流す「七夕流し」は、心身の穢を流すと云う意味がこ
められています。
 因みに、「乞巧」は技能や芸能の上達を願う意、「奠」は祭を意味します。
 わが国では宮中の節会が初まりで、そこから民間でも織物が上手な織姫星を祀り、手
芸や裁縫の上達を願う行事として行われるようになりました。
 
△重陽チョウヨウの節供 − 菊祭り − 九月九日
 九月九日は、縁起の良い陽数(奇数)の最大値である「九」が重なることから、「重
陽」と呼ばれます。ほかに「菊の宴」とも云い、長寿の花として大切にされてきた菊の
花をお供えします。
 宮中では菊の花弁ハナビラを浮かべた菊酒を戴く節会が開かれ、民間でも「被せ綿キセワタ」
と云って前夜に菊に綿を被カブせ、九日の朝に露で湿ったその綿で身体を拭いて長寿を願
う行事が行われました。
 現在では、家庭でこのような特別な行事をしているところは少なくなりましたが、こ
の時期になると、各地で菊祭りや菊花展が開かれています。
 
△節供と花
 上巳の節句と桃、端午の節句と菖蒲、重陽の節句と菊、と云うように節供と季節の花
には深い関わりがあります。
 花にはその季節の神様が宿ると考えられ、菖蒲湯に浸かったり、桃酒や菊酒を飲むな
どの風習は、花に宿った神様のお力を戴きたい、と云う願いがこめられているのです。
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