06 森林の思考・砂漠の思考〈農耕以前〉
 
             参考:日本放送出版協会発行「森林の思考・砂漠の思考」
 
[東西の差を生ぜしめたもの]
 
〈農耕以前〉
 
△氷河期と狩人
 最後の氷河期であるヴュルム氷期が始まったのは,今から七万年程前です。ネアンデ
ルタール人からホモ サピエンスが進化したのは,極ゴク概略で10万年程前ですから,最
後の氷期は,ほぼ完全にホモ サピエンスの時代であったと云ってよい。その発生の場所
は,極めて広い意味でヨーロッパ,アジア,アフリカ三大陸の接する部分で,其処から,
ホモ サピエンスは世界各地に向かって拡がって行っています。拡大の初期の頃は,ホモ
 サピエンスは,ほぼ均一な形質を保ったまま,ヨーロッパ,アジア,アフリカの広範な
部分に拡がって行きましたが,ヴュルム氷期を経過するうちに,オーストラロイド,ネ
グロイド,ユーロポイド,モンゴロイド,アメリカインディアン,ポリネシアンの六人
種が形成されて来ました。
 
 氷河時代におけるこれらの人々は,何れも狩猟採集民でした。採集の占める割合が,
処によっては大きかったかも知れませんが,狩猟を知らなかったものはものはいなかっ
たでしょう。動物を捕獲するために道具を使い始めたのは,ネアンデルタールの前のピ
テカントロプス,またその前のラーマピテクスまで遡り,時代にして数百万年も前にな
ります。
 氷河時代の人間を取り巻く自然環境については,前掲のように,一言で云いますと,
砂漠のない時代でした。尤もこれは北半球で砂漠が殆ど無かったのであって,南半球で
は,反対に砂漠の拡大した時代でありましたが,氷河時代の南半球は未だ,若干のオー
ストラロイドとネグロイドが生活するだけで,人類の主力の居た空間は,森林と草原で
した。ユーラシア大陸に広く拡がったツンドラも,草原の一種と見なしてよいでしょう。
 
 砂漠がなくなったのは,前掲のように赤道西風が北上し,高緯度からは寒帯前線(梅
雨前線がその一部をなしている)が南下して,雨の降らない処は殆どなくなり,併せて,
氷河期の気温低下のために,蒸発が少なくなって乾燥化が阻害されたためです。
 人類の主な居住地であるユーラシア大陸とアフリカ北半は,このように,砂漠がなく
なり,人間は,等しく森林と草原で動物を追う生活をしていました。その人間の思考は
呪術的なものであり,呪術の方法の地域差はあったかも知れませんが,根本的な意味に
おける,東と西との違いは未だ生まれていなかったと考えることが出来ます。
 
△呪術の世界
 この頃は未だ,何故東と西の差が生じ得ないかと云うことを知るためには,呪術の世
界と云うものを見ておく必要がありましょう。
 呪術とは呪マジナいのことで,それをすれば,ある一定のことが起こると考えて行動す
ることです。反対に,何かをしなかったから,こういうことが起こってしまったと云う
意識を持つことも,同じです。この「何か」の,因果関係が完全に明白な事実でありま
すと,それは科学的な態度ですが,冷静に考えて直接の因果関係があるかないか分から
ないことまで含んでいるとしますと,それは呪術の思考です。
 
 ところで,因果関係の明らかにされた事実と云うものは少ないとされます。科学が因
果関係を必ずしも明らかにしていないとしますと,一見,科学的な行動も呪術に過ぎな
い場合もあります。少なくとも科学と呪術との間は,必ずしも明瞭ではありません。例
えば,近代医学において,有効と決断して施した療法において,「あることをなせば,
その病気は治る」としても,全く無意味な結果になりますと,結果的にも現象的にも呪
術と変わりはありません。ですが此処では科学の中の非科学性を論ずるのが目的ではな
く,呪術の世界と云うものが,決して昔のことではなく,われわれ自身も無意識のうち
に,とっぷりと浸かっていると云うことを示したいのです。その呪術と反対なものが,
後述する宗教です。宗教は超越的なものへの信仰です。超越者を意識する世界では,全
てが超越者の意志の下に動いていると考えます。しかし,そう考えながら,ある不幸な
ことが起こった場合は,自分の祈りが足りなかったからだと考えたり,宗教儀式の一挙
手一投足を正確に行わなかったことへ起因させることがあるとすると,それは呪術の世
界にも,猶,生きていると云うことを示しています。
 
△狩人の呪術
 氷河時代の狩人たちが呪術の世界に生きていたと云うことは,従って決して,われわ
れと異質の世界にいたと云うことではありません。劣っていたと云うことでもありませ
ん。
 氷河時代人の呪術を端的に示すものが,有名な南フランスのラスコーの洞窟の壁画で
す。壁画の主題は動物ですが,その当時存在した動物の全ては描かれていません。捕獲
の難しかった動物だけが描かれていることから,狩猟と云う目的のために描いたもので
あって,芸術的感興によると云うようなものではありません。そして,その動物は,投
矢や槍を身に受けています。傷を受けた動物の形を作ると云うことは,既にネアンデル
タール人の時にも見られますが,これは現代人が藁人形に釘を打ち込むのと同じです。
その画を描くこと,そして恐らく,その画の前で一定の儀式を行うことによって,狩猟
の成功を祈ったのでしょう。その呪術は,報われることが多かったに違いありません。
狩猟に出かける前に,漫然としているより,その儀式を通じて精神を集中させ,研ぎ澄
まされた神経で獲物に向かった方が,効果は大でしょう。従って,「あることをなせば,
あることがな」った訳で,そこでは,呪術と科学とは,正に一体であって,分けること
は出来ません。
 
 このように呪術とは,「あることをなせば」と云うことに始まります。そこでは,人
間の行為が始まりなのです。人間の力が全てであり,動物を追って倒し,生活する人間
にとっては,人間の力こそが頼るべきものでした。そして,人間の欲望がほぼ均一であ
ることから,呪術の世界も,その技法に多少の差はあったとしても,世界で均一でした。

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