102a 菅家後草〈読楽天北窓三友詩〉
 
 それでは公は琴に対して理解が無かったかと言うと、そうではない。後出の「吏部王
を哭し奉る」の詩を読んでも、琴に深い理解と愛着を持っておられたことは疑いない。
たゞ自分で弾く趣味を持たなかったのである。
 また、酒に対してはどうであったかと云うと、仁和四年、讃岐守時代の「冬夜閑思」
の詩の一句に、
 
 性、酒を嗜タシナむなく、愁ウレヒ散じ難し
 
とあるに拠れば、生来飲めぬ質タチであったらしい。お酒が飲めたら − これは配流の身
の公にとっては、吾ながら恨めしいと思うことであった。後出の詩を読めばこのことが
諒解されるであろう。
 
(二)
詩友独留真死友     詩友独り留る、真の死友シイウ
父祖子孫久要期     父祖子孫久しく要期エウキす
只嫌吟詠渉歌唱     只嫌ふ、吟詠の歌唱に渉るを
不発于声以心思     声に発せずして心に思ふを以てす
身多忌諱無新意     身忌諱キキ多うして新意無く
口有文章摘古詞     口文章有って古詞コシを摘ツむ
古詞何処間抄出     古詞何れの処にてか間カンに抄出セウシュツする
官舎三間白茅茨     官舎三間、白茅茨ハクボウジ
開方雖窄南北定     方ハウを開くこと窄セマしと雖も南北定まり
結宇雖疎戸イウ[窓のこと]宜 宇を結べる疎なりと雖も戸イウコイウ宜し
自然屋有北窓在     自然に屋オク、北窓ホクソウの在るあり
適来良友穏相依     適々タマタマ来れる良友穏やかに相依る
 
 公は言う − 白氏の三友中、琴と酒とはご免蒙るが、詩を好むことにおいては、白氏
にもおさおさ劣らない。詩こそ真の友であり、死までの友である。自分一代の交友であ
るに止まらず、先祖代々から、子孫の末永くまで、交誼を約している友であると、儒林
の宗家としての自覚を述べられた。
 菅家は、曾祖父古人の頃初めて菅原の姓を賜った。古人は儒行世に高く、賎しくも俗
と合わず、その率後家に余財なく、為に朝廷から子弟の教育費を授けられたと云う貧窮
生だが、学んで倦むことを知らず、大学頭文章博士を歴任し、延暦帝の侍読であった。
祖父清公もまた、大学頭・文章博士に累進し、嵯峨・淳和・仁明三朝の侍読であり、令義解
・凌雲集の編纂に与り、家集六巻を残し、傍ら、東の大江氏と並んで文章院を創建して門
弟の教育に尽瘁ジンスイした。父の是善は三度父祖の後を承けて文章博士を経、文徳清和二
朝の侍読を拝しては孝経・論語を進講し奉り、貞観格式・文徳実録は彼の編集の功が大き
く、また東宮切韻二十巻・銀傍輸律十巻・集韻律詩十巻・会分顧聚七十巻を著し、家集十巻
を残している。また公の子淳茂は才藻頗スコブる豊かで、江談抄に依ると、「儒家にして
家名を墜さざる者は、たゞ都時中及び淳茂等三数人のみ」と、大江匡房が賞めたと云う。
夙ツトに秀才に挙げられ、後に許されて配所から帰ると、文章博士大学頭に歴任した。そ
の孫の輔正も文学の聞こえが高く、円融・花山二朝に仕えて侍読であった。特に、公の孫
の文時に至っては、その豊かな天文、絢爛たる才華を以て、いわゆる菅三品の名声を轟
かした方である。本朝文粋・江談抄・和漢朗詠集などの書の、至るところに、彼の作を見
ることが出来る。
 
 これによって見れば、公が「父祖子孫久しく要期す」と言われたは、詩と菅家との結
び付きは、「太原の白居易」の、一代限りの結び付きとは比較にならないとの自負もあ
ったであろう。これ程の学問の家柄は、長い日本の歴史の中でも外に例が無い。古くか
ら文神と仰がれ、特に文教に御心を寄せられ給うた明治大帝が、臣下中たゞ一人文神を
官幣社に列せられて破格に遇せられたのも、この父祖子孫連綿として斯文の大宗であら
れた菅家の、宗中の宗が公であったことが、大きな理由の一つであったろうと拝察する。
 
  − 斯くの如く、詩を愛することにおいては、自分は何人にも劣らぬが、自分は詩を
詠ずるにしても節を付けて朗詠するようなことは好まず、心の中でしみじみと味わって
みるのが好きであると、謹直な性格の片鱗が窺われる。
 白氏は、「酒熟して来客なし、因って独酌の謡をなす」或いは、「蝸牛角上何事をか
争ふ、石火光中此身を寄す。富に随ひ貧に随ひ且シバらく歓楽す。口を開いて笑はざるは
是れ痴人」のように、はしゃぎ好きで、公とは好対照をなしている。
  − しかし、今は流人の身となり、行動に束縛を受けることも多いので、新しい詩想
も浮かばず、僅かに先人の詩句を借りて粗雑な感懐を述べるだけであると、父祖重代の
詩友とさえ、心おきなく交わることの出来ぬ境遇を託カコった。
 
 暇々に、白い茅茨カヤで葺いた、方三間の南館で、古詞の佳句を抜き書きするのだが、
この館は、敷地は狭いけれど南北は規定に合っているし、粗雑な建築だが戸や窓は法式
通りに設シツラえているので、自然に北窓もある。この北窓に倚ヨっていると、時として、
詩情油然として湧き、この真友と睦び合うことがある。
 
 「官舎三間白茅茨」。官舎は公が住まわれた家で、当時は「南館」と呼んでいたこと
は、後出の「南館にて夜都府の礼仏懺悔を聞く」の詩で知られる。南館とは、筑紫志に
拠れば、都督府に外国の使臣を接待するための鴻臚館が二つあり、その今の博多にあっ
たのを北館と呼び、都府の近くのを南館と称したとある。従って相当の規模であったこ
とが窺われるが、唐の内乱や、我が国の遣唐使廃止などで、最近使節の来朝も絶えてい
たのか、すっかり破損していたらしい。「官舎三間」とは寝殿の建物だけを修理して住
まわれたものと想像する。今の榎社 − 榎寺の地だと伝えられている。「白茅茨」は、
韓非子に「茅茨ボウジ剪キらず、釆椽サイテンケズらず」の語があり、質素な造りを言う。
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