04a 官僚道真公 − 栄進への道程
〈讃岐国守へ〉
民部少輔の任にある間も,道真公は多くの人の依頼により文章の代作をしていますが,
この後に任じた式部の輔スケと文章博士は,文章道の出身者が第一に目指す地位でした。
祖父の清公も父の是善もこれに任じましたし,特に清公は従三位に叙されて公卿に列し
た後も,文章博士を兼帯しました。父祖以来の菅家廊下を主宰する道真公としては,年
来の宿願の達成した想いであったでしょう。
文章博士の定員は二人で,道真公は巨勢コゼ文雄が左少弁に移った後に就任しました。
いま一人は都良香でした。彼は前述のように道真公の対策(策試)のときの問頭博士で,
十一歳も年長でしたが,道真公が博士になって一年四ケ月しかならない元慶ガンキョウ三年
(879)二月,四十六歳で死去しました。それから五年程道真公一人の文章博士時代が続
き,やがて欠員補充の請願が裁許され,元慶八年五月,橘広相タチバナノヒロミが文章博士とな
りました。広相は是善の門人であり,いわゆる菅家廊下に属する人でした。
この菅家廊下の「廊下」は,現在の住宅の廊下のようなものではありません。平安貴
族の住宅である寝殿造の中門廊であり,主屋である寝殿に続く細殿ホソドノと呼ばれたもの
です。菅原氏の私邸のそのような処に成立した私塾が菅家廊下でした。それ故それは藤
原氏の勧学院,橘氏の学館院のように,同じ頃有力氏族が一族の子弟教育のために造っ
た大学の別曹ベッソウとは,性質を異にしていました。菅原氏の家長であり,文章博士と云
う大学の正規の教官でもありながら,私邸において学生を指導した訳で,大学の教官と
学生と云う公的な関係が,私的な師弟関係によって裏打ちされていました。
勿論当初は清公の学徳を慕って自然に発生したものでしょうが,それが恒常化して菅
家廊下と云う呼び名が与えられ,竜門と呼ばれるようになりますと,当人の主観的な意
図とは別個に,学閥的機能を持ち始めます。例えば道真公の父是善と並んで文章博士で
あった春澄善縄は,大学に精勤するだけで,自宅に来る学生は謝絶し,朋党の謗りソシリを
受けないように身を持したと云います。道真公がその家の学を継いだことの負荷は,当
初から重くその前途にのしかかっていたと観て良いでしょう。元慶三年十一月に撰進さ
れた『文徳実録』の序文は,道真公が父是善の命を受けて書きました。その是善は翌年
八月に死去し,道真公はこれ以後,父祖の業を一人双肩に担うことになりました。
道真公のその後の官歴を観ますと,公が元慶七年正月に加賀権守ゴンノカミを兼任しまし
たのは,前年末に加賀国に到着した渤海国の大使を応接するためで,詩文の贈答唱和を
しています。また,文章博士として対策の問頭博士に任じ,三善清行や紀長谷雄キノハセオな
どの試に当たり,得意の時期を過ごしましたが,やがて仁和ニンナ二年(886)正月,讃岐
サヌキ守に任じられ,式部少輔,文章博士,加賀守の三官を辞めることになりました。それ
までに任じた下野権少掾シモツケノゴンノショウジョウや加賀権守は権官で,在京して俸禄だけ給さ
れるものでしたが,讃岐守は正官で,遥任ヨウニンは許されませんでした。
律令時代には官吏の成績は四年又は六年で審査し,位を上げ,官(職務)を移すのが
原則になっていました。道真公の場合も,何時までも式部少輔・文章博士の地位に止ま
ることは出来ませんでした。また,学者であって文章博士の後に地方官に転出した例は,
春澄善縄や紀長谷雄などがあって,それ程珍しいことではありません。しかし道真公の
ように父祖代々の学者で,若いときから中央において重きをなしていたものが,博士の
任十年で地方に転出したのは,可成り唐突な人事で,道真公自身も意外に感じ,精神的
打撃を受けた形跡があります。
道真公は讃岐守に任命されたとき,赴任に先立って宮中の内宴に侍しました。太政大
臣藤原基経は道真公の前に立って「明朝の風景、何人にか属す」と吟じ、道真公に唱和
させようとしました。道真公は心神迷乱し,僅か一声を発しただけで嗚咽オエツしてしまい
ました。帰宅してからも終夜眠れなかったと述懐しています。道真公は喜んで任地に赴
いたのではありませんでした。文章院北堂においての餞別の宴での詩に「分憂は祖業に
あらず」と吟じ,受領ズリョウの任は父祖の業でないと云っております。しかし,任に就い
た以上は,忠実にその職責を果たそうとしたのも事実でしたでしょう。
このような人事の事情として,当時は学者の間において対立抗争が激しく,道真公の
主宰する菅家廊下の勢いの増大するのを恐れたものの運動があった,と推測されていま
す。学者が地方官に出た前例もあり,讃岐は上国ゆえ,国守は格の低い任ではなく,道
真公やその一門の自尊心を傷付けずに,その勢いを抑える方策であったと云います。
讃岐国守として四年間在任された間の治績については,確実な史料はありません。赴
任の初め,国府近くの蓮池の蓮を部内二十八カ寺に分植させたとか,仁和四年五月六日,
折からの大旱に,国府に近い城山キヤマの神に雨を祈られたことなどが『菅家文草』などに
知られる程度です。しかし,ここにおいて民政の実態に触れながら,遠く中央政界を望
見しますと,それまでの自分と,その門流の在りようについての内省がなされない筈は
ありません。必然的にそれは父祖伝来の学者文人の枠を越え,政治家としての意識を磨
き上げる方に機能した筈です。
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