62 神武東征伝説
 
               参考:新人物往来社発行『日本「神話・伝説」総覧』
 
[神武ジンム東征伝説]
 
〈あらすじ〉
 神武天皇は、天皇降臨の地日向から、大和橿原に移り、初代天皇として即位しました。
神武東征は、(A)大阪湾に至るまでの部分、(B)登美能那賀須泥毘古トミノナガスネビコと交戦し
五瀬命イツセノミコトの戦死に至る部分、(C)迂回して熊野から大和に入る部分に分けて考える
ことが出来ます。記紀の神武天皇条には、更に皇妃皇子女、崩御等に関する若干の記述
がありますが、『古事記』の場合、(D)皇妃選定の部分の物語が拡充されています。な
お、『古事記』に述べる当芸志美美命タギシミミノミコトの反乱について、『日本書紀』は綏靖
スイゼイ天皇条で触れています。
 
〈歴史的分析・解釈〉
 (A)について、記紀共に宇佐、筑後、安芸、吉備を経由し、難波に至りますが、槁根津
比古サオネツヒコ(紀、椎根津彦)に会い、案内人とする速吸門の位置が甚だ異なります。『
日本書紀』では東征が開始されて直ぐ、『古事記』では畿内に入る時点に設定されてい
ますが、大和からの視点に立ちますと、存外同じ意味を有していたと思われます。『日
本書紀』では大和入りに際して、椎根津彦が枢要な働きをなした記述を残しており、椎
根津彦の功業の顕彰により、東征伝承に対する大倭氏の積極的関与を述べることにあっ
たと思われます。尾畑喜一郎は、「大倭社注進状裏書」の「斎部氏家諜」を引いて、椎
根津彦に日神を迎える司祭者としての伝承像を認めています。としますと、日の御子と
しての天皇観が形成された後の伝承と云うことになると思います。日向からの東征の史
実性については、津田左右吉以来否定的見解が一般的ですが、経由地については、黛弘
道が海人族をその背景に考えています。
 
 (B)については、記紀で大きな相違はありません。『日本書紀』では、地名に関する所
伝が多い他、『古事記』には神代巻末に記す五瀬命以外の、兄弟の常世国等への退去を
記す程度です。神武天皇の初代天皇としての性格上、大和入りの前に、即ち、天皇とし
て出現する前に、唯一の存在とならねばならなかったと思われます。折口信夫は、この
兄弟たちの動きを穀霊の遊離として捉えました。五瀬命の戦死には別の要素もありまし
ょうが、これらの根底にあるものの理解としては動かないと思います。登美能那賀須泥
毘古に対する敗戦の理由を、記紀ともに日に矢を向けた点に求めていますが、それはそ
のまま迂回の理由とはなりません。神武天皇が熊野や宇陀を経由して大和に出現すべき
存在であったからで、これは(A)の世界と(B)の世界との結節のための論理として用意さ
れたものと云えます。
 
 熊野に上陸してから海難に遭い、兄弟を失うと云う部分もそうですが、(C)の熊野から
の経路コースについても、『日本書紀』の所伝は分かりにくい。黛のようにこれを是とする
考え方もありますが、例えば吉野の部分は前後に菟田に関する記述が見えて、吉野首以
下の氏族を登場させることにのみ機能しているように見受けられます。神武東征は、西
郷信綱などによって、宮廷祭儀、特に大嘗祭との関係が著しいことが指摘されています
が、そうした行程認識以外の要素によって記述が決定されている可能性は大きい。松前
健などの指摘のように熊野の信仰的背景、在地の伝承も関わって、複雑な階梯を経て形
成されてきたものと思います。大和入りしてからの部分では、「来目歌クメウタ」が重要な
働きをなします。『古事記』はほぼその羅列だけで、大和の平定が完了してしまう程で
す。『日本書紀』でも後文に「天皇スメラミコト、天基アマツヒツギを草創ハジめたまふ日に、大伴
氏オホトモノウヂの遠祖道臣命トホツオヤミチノオオノミコト、大来日部オホクメラを帥ヒキゐて、密ノビの策ミコトを奉
承ウけて、能ヨく諷歌ソヘウタ倒語サカシマゴトを以て、妖気ワザハヒを掃ひ蕩トラカせり」とある記述
は、来目歌のことを指していると思われます。来目歌が、大和の始源を切り開く伝承の
詞章であったことは間違いないと思います。神武天皇の神倭伊波礼毘子カムヤマトイハレビコと云
う名義は、地名磐余イハレに関わるものでしょうが、瀧口泰行や直木孝次郎にその詳細な検
討があります。
 神武東征に関する研究史的業績としては星野良作や関和彦に著作があります。なお、
(D)に関しては青木周平が精力的に取り組んでいます。
 
〈まとめ〉
 神武東征伝説は、大和の地での王権の創始を語るべく、複雑な要素が重なり合って形
成されてきたものであり、ときに『日本書紀』など多少の綻ホコロびを感じさせる記述もあ
るように思いますが、それは史料的事実としてのそれぞれの伝承を、王権の起源として
の神武東征の結構に組み込むときにもたらされたものと思います。大嘗祭との関係が強
く意識されるようになってきていますが、その形成の時期は、天武期を考えることが多
いと思います。菅野雅雄は壬申紀と神武東征説話の類似を挙げ、廣畑輔雄も大嘗祭儀の
成立に関わらせて同様の結論を導いています。廣畑の神武天皇に関する一連の論考は、
大嘗祭儀のみならず、その背景にある中国の祭儀をも考察して、東征の結構を促したも
のを考える上で示唆に富みます。素材としての個々の伝承とそれを神武東征譚に纏め上
げた力との考察は、二つながら更に深めていかなければなりません。
 
〈分布伝承されている地域〉
 神武東征伝説は、初代天皇ですので、折に触れて意識されていたものと思われます。
史書や軍記、或いは神社縁起の類、更には歌論書等にまでその名や歌謡が出てくること
がありますが、特に重視されていたと云う訳ではありません。勿論記紀の伝承地を中心
に、多少の口碑は残っています。例えば、熊野にもその伝承が伝えられています。
                           (原執筆者:斎藤静隆氏)

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