10b [海幸・山幸]
 
〈二つの玉の力〉
 
 ある夜のこと、火遠理命ホヲリノミコトは、ふっと三年前の事を思い出されました。
(はて、私はどうしてこのような海の国に船出してしまったものか。ああ、そうであっ
た。あまりにも幸せな日々に感カマけて、あの悲しい日のことを、終ツイぞ忘れておったわ
。)
 命ミコトの胸座ムナグラに、兄火照命ホデリノミコトの険しい顔が迫って来ました。
「ああーっ・・・・・・。」
 命は、深い溜息を吐かれました。
「どうかなさったのですか。何処ぞお体の具合でも悪いのですか。」
 幾ら豊玉比売命トヨタマビメノミコトが心配して尋ねても、火遠理命は、
「いや、何でもない。」
と、一言ヒトコト言って首を振るだけ。
 翌朝姫は、そっと父の海の神に知らせました。
「三年もの間一緒に暮らして来て、何時もはお嘆きになることなど、更々無かったのに、
昨夜はどうしたことでしょう。溜息をこぼされては、酷く嘆き悲しんでおられるご様子
でした。もしや、何か訳があるのではないかと、心配でなりません。」
「よしよし。私から、篤トクと尋ねてみましょう。」
 父の大神は、立派な婿ムコとして迎えた火遠理命に、そっと、訳を聞き出してみること
にしました。
 
「今朝、姫から耳にしたところでは、三年もの間、何時もはお嘆きになられたことなど、
全くお見受けしなかったのに、昨夜は、深い溜息を吐かれて居られたとか。何か深い訳
がお有りのことと思われます。
 そう言えば、元々あなた様は、どうしてこの海神の宮にお出でになられたものでしょ
うか。」
 娘の姫の身を案じる父の大神の、切なる訴えに、火遠理命は遂に口を開きました。
 そこで、兄から借りた釣り針を失くし、どうしても、そのものを返せと責め立てられ
ていたことを、有りのままに詳しく打ち明けられました。
「そのようなこととは、終ぞ知らずに − 。
 いや、それならば、その釣り針を探し出す手だてがございます。」
 
 海の神は、こうきっぱり申し上げますと、直ちに、この海中に住んでいる大小の魚悉
く呼び集めるよう、命令を下しました。
 直ちに魚たちは、何事かとばかり、先を争って駆け付けます。忽ち宮殿前の広場は、
溢れる程の魚の群れ群れで一杯になりました。
「皆の者、良く聞いて呉れ。三年前に、誰か釣り針を採っている者はいないか。」
 海の神が大音声ダイオンジョウで伝えますと、暫く魚たちの間に囁きが交わされます。
 そのうち、誰彼となく声が上がりました。
「この頃ずーっと、赤鯛アカダイが喉に棘トゲが刺さって、何も食べられず悲しんでいると、
波の便りに聞いています。きっと、その釣り針を呑んでいるに違いありません。」
「うーん、そうであったか。直ぐに取り調べてみよう。」
 海の神が、早速出向いて赤鯛の喉を探って見ますと、噂の通り釣り針が引っ掛かって
います。
 その場で、丁寧に釣り針を抜き取りますと、あの泉の水で綺麗に洗って、火遠理命に
お返しすることになりました。
 そのとき、海の神である綿津見神ワタツミノカミは、密かに不思議なことを命に教えられまし
た。
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