10 [海幸・山幸]
 
〈兄神と弟神〉
 
 美しい木花之佐久夜毘売コノハナノサクヤビメを母として、火の中から無事に生まれて来た兄弟
の神は、すくすくと成長して、今は立派な若者となっていました。
 その中で火照命ホデリノミコトは、海幸彦ウミサチヒコ、つまり海の獲物を捕る漁師となり、毎日
のように海へ出て、鰭ヒレの広いもの、鰭の狭いものなど、大小様々な魚を捕って平穏に
暮らしていました。
 一方、火遠理命ホヲリノミコトは山幸彦ヤマサチヒコ、つまり山の獲物を捕る猟師となって、荒毛の
獣や、柔らかい毛の獣など、大小様々の獣類を捕って、不足なく暮らしていました。
 二人共、最早漁師として、また猟師として、相当な腕利きになっていました。しかし、
毎日が海ばかり、毎日が山ばかりの生活にも、そろそろ飽きがくる頃でした。
 取り分け火遠理命は、何時も山の上から、青々とうねる海を見せつけられ、その広々
とした世界を相手にした暮らし振りに憧れていました。そこには、未だ見たこともない
夢が、無限に開けているように思われます。
 
 そこである日、堪まらなくなった火遠理命は、一散に山を下りて兄の火照命の処へ飛
んで行きました。
「兄さん、今日は折り入ってお願いがあって参りました。予カネてより兄さんは海幸彦、
私は山幸彦。それぞれ海山の幸を求めて、腕を磨いて来ましたが、この辺りで、お互い
の獲物を捕る道具を取り替えて、遣ってみませんか。」
 あまりにも突然な弟火遠理命の申し出に、火照命は黙って横を向いてしまわれました。
「ね、兄さん、思い切って試してみましょうよ。」
「何とか、本ホンの一寸でもお願い出来ませんか。」
 三度頭を下げる火遠理命にも火照命は、むっとしたまま許してくれませんでした。
 それでも、諦め切れない火遠理命は、しつこく頼み込みました。
「お前がそんなに言うのなら、しょうがない。」
 火照命はやっとのことで、渋々承知してくれました。
 
 さて、海の獲物を捕る道具を借り受けた火遠理命は、喜び勇んで海辺に駆け付けまし
た。岩場に立つと、
 ドドーッ、ドドドーッ
 寄せては、岩膚に飛沫シブキを跳ね返して、帰って行く波。
「ああ、胸の奥まで弾んで来るぞ。」
 火遠理命は釣り針を確かめ、さっと、竿を海中に投げ入れました。
 しかし、何時まで待っても竿の先の糸は、頼りなく波に揉モまれるばかり。一向にぴー
んと張って来ません。
「どうしたことか。」
 波の静まったとき、そっと青い海の底を覗きますと、何と其処には目の醒めるような
赤い魚、黒々とした無数の魚の群 − 。
「あんなに居るのに、どうして私の釣り針に仕掛けた餌が見えないのか。」
 何時間経っても、まるで手応えがないのに、むしゃくしゃした火遠理命は、いきなり
竿を引き上げました。すると、何やら針が海底に引き込まれて行く感じで、忽ちぷっつ
りと糸が切れてしまいました。
 
「あっ。」
 叫んだときはもう遅い。
 火遠理命は、未だ魚の一匹も釣り上げずにいるうち、とうとう大事な借り物の釣り針
を失ナくしてしまいました。
 果てしない広い海、何処までも深い海、命ミコトは途方に暮れ、暫く茫然と、波のしぶく
岩場に立ち尽くして居ました。それでも、遂に決心して引き上げました。
 しょんぼり立ち現れた火遠理命を見て、兄の火照命は、さてはと直感しました。自分
の方でも取り替えた弟の弓矢で、一頭の山幸さえ捕ることも出来ず、ぷりぷりしている
ところでした。
「どうじゃった。さ、さ、早く釣り針を返して呉れ。」
 そう言って、更に続けます。
「さあ、
  山さちも、己オノがさちさち。
  海さちも、己がさちさち。
 思い知らせれたわい。山の幸は、お前が、お前の弓矢で捕るに限る。海幸は、私が、
私の釣り針で捕るに限るぞ。さ、それぞれ取り替えっこした道具を、返し合おうではな
いか。」
 すると、弟の火遠理命は、恐る恐る、
「兄さん、申し訳ありません。あなたの大事な釣り針で、魚を釣ってしみましたものの、
一匹の魚も掛からないうちに、とうとう釣り針を海の中に失くしてしまいました。」
と、平謝りに謝りました。
 
 ところが、兄の火照命は、
「何としたことぞ。返せ。返さないことには、承知しないぞ。」
と、激しく責め立てました。
 そこで、弟の火遠理命は、腰に差していた大事な長い十挙剣トツカノツルギを潰して、五百
本の釣り針を作って、弁償しようとしましたが、
「そんなものは、いらん。」
と、立ちどころに突き返されました。
 更に、千本の釣り針を作って持って行き、許しを乞うてみましたが、これも受け取っ
て貰えず、
「何が何でも、お前が失くした、あの私の釣り針を返して貰うぞ。」
と、ばっさり言い渡されました。
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