09b わが国の神話「天孫降臨」
 
  [天孫邇邇芸命]
 
〈海に溺れた猿田毘古神〉
 
 そこで、邇邇芸命は天宇受売命に、
「私の道案内を無事に果たしてくれた猿田毘古大神サルタビコノオホカミは、そなたのお陰で包み
隠さず正体を明かしてくれました。就いては、そなた一人でお送りするが良い。また、
その神の名前は、そなたが引き継いで、これからもお仕えするのだぞ。」
と、申し出されました。
 これによって、猿女君サルメノキミたちは、この猿田毘古と云う男神の名を貰うことになり
ます。代々、女の子孫を猿女君と呼ばれるようになったことは、このような訳がありま
した。
 ところで、猿田毘古神が伊勢の阿耶訶アザカと云う処に居られたときのことです。ある
日、漁をしていたところ、うっかり比良夫貝ヒラブガヒにその手を挟まれて、海水に溺れて
しまいました。
 やれやれ、流石の猿田毘古神も海の中では勝手が違い、右往左往し戸惑ったと云いま
す。
 そこで、暫く海の底に引き込まれているときの名を、底度久御魂ソコドクミタマと云い、海
水がぶつぶつ泡立つときの名を都夫多都御魂ツブタツミタマと云い、その泡が水面に躍り出て
ぱっと裂けるときの名を阿和佐久御魂アワサクミタマと云います。
 
 一方、猿田毘古神を送って帰って来た天宇受売命は、直ぐに大きな魚、小さな魚を悉
く呼び集めて、
「お前たちは、天アマつ神の御子にお仕えするか、どうじゃ。」
と、問い掛けました。魚たちは、皆、
「お仕えいたします。」
と、お答えしましたが、その中で海鼠コだけ一人、黙っていました。
 これを見た天宇受売命は、
「海鼠ナマコの口は、最早物も言えない口だね。」
と言って、紐の付いた刀で、その口を裂いてしまいました。だから、今でも海鼠の口は
裂けています。
 こんなことがあったので代々、志摩の国から貢物の魚が朝廷に捧げられますと、猿女
君たちに下されることにもなったのです。
 
〈美しい乙女〉
 
 さて、新しい宮殿の生活にも慣れて来ますと、天津日高アマツヒコ日子番能ヒコホノ邇邇芸命
ニニギノミコトは、朝に夕に、ときどき外に出て、散歩を楽しまれるようになりました。
 そんなある日、命ミコトは、笠沙の岬で一人の美しい乙女に出会われました。一目で、そ
の魅力の虜トリコになってしまいます。
(何と美しい乙女のおったものよ。)
 命は、静かに近付いて、
「そなた、誰の娘かな。」
と、尋ねられました。
 いきなり男の人から声を掛けられて、はっとなった娘は、そっと相手を見上げて驚き
ました。
(もしや、このお方が、天孫の邇邇芸命様では − )
 娘は、その場に畏まって、
「はい、大山津見神オホヤマツミノカミの娘で、名前を神阿多都比売カムアタツヒメ、別の名を木花之佐
久夜毘売コノハナノサクヤビメと申します。」
と、お答えしました。
 
「ほう、山つ神のご一族か。それにしても、木花之佐久夜、木の花ばなの咲くようにと
は、美しいお名じゃ。その名の通りの見目形ミメカタチ、花の香りが匂って来るようで、心地
良いことよ。」
 命の言葉遣いにも、木花之佐久夜毘売は、もうこの方が天孫であることを覚サトりまし
た。
「勿体のうございます。」
「いやいや。して、そなたには、ほかに兄か弟、それとも姉妹アネイモウトはおるかな。」
 命の問いに、姫は、
「私には、石長比売イハナガヒメと云う一人の姉がございます。」
と、申し上げます。
「ほほっ、石長比売、石イハのように末永く変わりのない、これまた良いお名じゃ。とこ
ろで、私はそなたと結婚したいと思うが、どうであろうかな。」
 初めてお会いしたばかりの命に、こう迫られても、姫は、その場でお答えする訳には
いきませんでした。
「そのようなこと、私一人では何とも申し上げられませぬ。私の父大山津見神がお返事
致しましょう。」
と、胸を震わせながら答えられました。
 
 そこで命は、早速姫の父である大山津見神に使いを差し向け、
「是非とも娘を頂きたい。」
と、申し入れます。
「誠畏れ多いことで、恐カシコんでお受け致します。」
 父神は大層喜ばれ、その場で返事をされました。
 そして、木花之佐久夜毘売ばかりでなく、姉の石長比売も一緒に付け、更に沢山の献
上品を持たせて、命に差し上げました。
 ところが、迎えに出た命は、娘が二人揃って来たので聊イササか慌アハてました。
(姉も序ツイでにとは、どんなものかな。)
 近付いたところを逸速く覗いて見ますと、これはまた、木の花に対照されるような石
イハの娘です。
(これは如何。姉の石長比売は、妹とは似ても似つかぬ醜い顔貌、欲しくないわい。)
 邇邇芸命は、内心呟ツブヤき返しますと、哀れにも石長比売の方は、宮殿にも入れられ
ず、
「そなたは、直ぐに父神の許へお帰りなされよ。」
と、あっさり送り返されてしまいました。
「さあさあ、待ってましたぞ。」
と、妹の木花之佐久夜毘売一人だけを喜んで迎え入れた命は、愛しさも一入ヒトシホ、その
夜、深い夫婦の契りを交わされました。
 
 それに引き替え、大山津見神は、石長比売を返されて恥じ入るばかり、酷く落胆して
しまいました。側に泣き崩れる石長比売を慰めながらも、しみじみとこぼされました。
「私が、お前たち娘二人を一緒に差し上げた訳を、命はご存じなかったのじゃ。
 石長比売よ。お前を遣わした訳は、天つ神の御子のお命が、どんな雪が降り、風が荒
れようとも、何時も石イハのように、永久に変わらないようにと願ってのこと。
 木花之佐久夜毘売を遣わした訳は、木の花が華やかに咲くように栄えますよう、と誓
いを立てて奉った筈であったが − 。
 それなのに、石長比売を返され、独り木花之佐久夜毘売だけを、お留めになってしま
われた。
 ああ、天つ神の御子のご寿命は、木の花のように、何れは、儚ハカナく散ってしまうこと
でありましょう。」
 大山津見神の言葉通り、今の世に至るまで、代々の天皇のご寿命は、際限もなく永く
お続きなされると云うことはありません。
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