04a [伊邪那岐命・伊邪那美命]
 
〈黄泉ヨミの国〉
 
 愛する妻を亡くした伊邪那岐命イザナギノミコトは、独り嘆き悲しみながら暮らしていまし
たが、幾ら時が経っても、その悲しみは薄らぐことがなく、益々恋しくなるばかりで、
「愛しい妻よ! いま一目だけでもよい、どうかして会いたい!」
と、嘆き続けました。
 しかし、愛する妻の伊邪那美命は、もうこの世にはいません。この世を旅立って、死
者だけの住む、黄泉ヨミの国へ行ってしまったのです。
 それでも伊邪那岐命は、愛する妻に会いたい気持ちを押さえきれなくなって、遂に黄
泉の国へと旅立って行きました。
 
 黄泉の国は、地の中にある暗黒の世界で、別の名を、根ネの堅州国カタスクニ、或いは根の
国と云って、この世に生きている者が来ることを禁じており、その国の御殿の入口の扉
は、固く閉ざされていました。
「この扉の向こうに、愛しい妻が住んでいるのか!」
 伊邪那岐命は、暫くその扉の前に佇んで、悲しみに掻き暮れていました。
 そのとき、黄泉の国の御殿の中にいた、伊邪那美命は、愛する夫が自分を訪ねて、遥
々と旅をして来たことを知り、扉の向こうまで遣って来ました。
 それに気付いた伊邪那岐命は、扉の向こう側に向かって、
「愛する私の妻よ!」
と、訴えるように語り始めました。
「あなたが、この黄泉の国へ行ってしまってから、私はもう何をする気力もありません。
あなたと私が、力を合わせて作ったこの国は、未だまだ完成していないのです。私には、
あなたの力や、慰めや、励ましがどうしても必要なのです。どうか、もう一度帰って来
て、私を助けて下さい!」
 
 すると、扉の向こう側から、伊邪那美命の悲しそうな声が聞こえて来ました。
「愛する夫よ! あなたはどうしてもっと早く来て下さらなかったのですか。もう遅過
ぎます。私は、この黄泉の国の食物を食べてしまいました。そのため、私の体は、すっ
かり穢ケガれてしまったのです。」
 伊邪那美命の、噎ムセぶような声がなおも続きました。
「私だって、一目てもいいから、愛するあなたとお会いしたい! こうして、遥々とお
出で下さったのに、お会い出来ないとは、本当に口惜しくて堪りません。」
「どうかして、合うことは出来ないのですか。」
「どうしたら良いでしょう・・・・・・」
 
 伊邪那美命は、暫く考えていましたが、
「そうですね、黄泉の神々たちと相談してみましょう。そして、僅かな間でもいい、何
とかして私が帰れるように、取り計らってもらいましょう。」
「えっ、本当ですか。」
「はい、でもその間、どうか、私の姿をご覧にならないで下さい。この扉を開けてはな
りません。約束して下さいますか。」
「うん、あなたに一目でもいい、合うことが出来るなら、どんなことでも約束しますよ
。」
「それでは、そのままで、暫くお待ち下さい。」
 伊邪那美命はそう言って、扉を離れ、御殿の奥の方へと入って行ったようでした。
 伊邪那岐命は扉の前に立って、言われた通りに待っていましたが、何時まで経っても、
愛する妻は戻って来る様子がありませんでした。
「一体どうしたのだろう、いつまで待たせるのだろう。」
 
 伊邪那岐命は、妻恋しさのあまり、次第にいらいらしてきました。そして、遂に待ち
きれなくなり、その扉に手をかけて、そっと開けて見ました。
 黄泉の国の御殿の中は、気味が悪い程真っ暗で、何も見えません。
 伊邪那岐命は、頭に結った角髪ミヅラの左側に挿している爪櫛ツマグシを取って、その端の
太い歯を一本欠き取って、それに火を点しました。辺りは、ぽっと明るくなりました。
伊邪那岐命は、それを手に持って、足元を照らしながら、真っ暗な御殿の中へと入って
行きました。
 暫くして、
「あれはなんだろう・・・・・・」
 
 真っ暗な地上に、何か横たわっているものが見えます。そろそろ近寄りました − 
それは、確かに伊邪那美命の姿に違いありませんでしたが・・・・・
「ああっ・・・・・・」
 伊邪那岐命は、驚きの声を挙げました。
 なんとしたことでしょう!
 愛する妻は、この世で見たときの美しい姿とはまるで違って、それは、気味の悪い、
怖ろしいものだったのです。
 あの、艶やかだった妻の体が、腐りただれて、至る処に蛆ウジが湧き、その間から膿み
がどろどろに流れ出しているではないか。
 そればかりではありません。その頭には、恐ろしい大雷オホイカヅチがおり、その胸には火
雷ホノイカヅチがおり、その腹には黒雷クロイカヅチがおり、陰処ホトには拆雷サクイカヅチがいて、髑髏
ドクロを巻いているのです。
 更に、その左手には若雷ワカイカヅチ、右手には土雷ツチイカヅチ、左足には鳴雷ナルイカヅチ、右足
には伏雷フシイカヅチがいます。
 これらの八柱の雷神は全て、伊邪那美命の腐り果てた体から生まれ出たものだったの
です。
「あの美しかった妻が、こんな変わり果てた姿になろうとは・・・・・・死ぬと云うことは、
こんなにも惨ムゴたらしく、怖ろしいものだったのか・・・・・・」
 
 初めて、そのことを知った伊邪那岐命は、その惨たらしさ、怖ろしさに、気も動転し
てしまい、目を背けて、一目散に逃げ出しました。
 それに気付いた伊邪那美命は、むっくりと起き上がり、
「お待ち下さい! あなたは約束を破って、私の恥ずかしい姿をご覧になりましたね。」
と、口惜しそうに叫んで、
「もう許すことは出来ません。」
と、すぐさま、黄泉の国の、醜い顔をした忌イまわしい魔女たちに命じて、逃げて行く伊
邪那岐命の後を追い駆けさせました。
 
 そんな、黄泉の国の魔女たちに捕まったら大変です。もう生きて帰れません。伊邪那
岐命は、夢中になって逃げ続けました。だが、魔女たちの足は、物凄く早い。次第に追
い付いて来ます。
 伊邪那岐命は逃げ走りながら、咄嗟トッサに、自分の角髪ミヅラに挿している黒い鬘カヅラを
手に取り、後に向かって投げ付けました。すると、地上に落ちたその鬘が、忽ち葡萄ブ
ドウの実となって生え上がり、魔女たちがその実を摘んで食べている間に、やっと遠くに
逃げることが出来ました。
 しかし、魔女たちは、葡萄の実を食べ終わると、すぐさま追い駆けて来て、また危う
くなって来ました。
 伊邪那岐命は今度は、角髪の右側に挿している爪櫛ツマグシを引き抜き、その歯を欠き取
って、後に投げ付けました。すると地上に落ちたその爪櫛の歯は、忽ち竹の子となって
地上に生え上がり、魔女たちがそれを引き抜いて食べている間に、更に遠くへ逃げるこ
とが出来ました。
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