03 [伊邪那岐命]とは
 
                    [付記]
 
                    一 伊邪那岐命と伊弉諾尊(記紀の記述の
                      違い)
                     「いざなぎのみこと」の語として、古事
                    記では「伊邪那岐命(神)」、日本書紀で
                    は「伊弉諾尊」とそれぞれ記していますが、
                    何れも同一の神様である。
 
                    二 神カミと命ミコト、尊と命の違い
                     古事記や日本書紀における「みこと(命・
                    尊)」とは、神様の尊称であり、そして、
                    例えば「伊邪那岐神」も「伊邪那岐命(尊
                    )」も全く同一と考えてよいでしょう。
                     また、日本書紀においては、「至貴イタリテ
                    タフトキを尊ミコトと曰イひ、自余ソノホカを命ミコトと曰
                    イふ」と定義していますが、古事記において
                    は全て「命ミコト」としている。   SYSOP
 
一 いざなぎ‐の‐みこと【伊弉諾尊・伊邪那岐命】
 (古くはイザナキノミコト) 日本神話で、天つ神の命を受け伊弉冉尊(いざなみのみ
こと)と共にわが国土や神を生み、山海・草木をつかさどった男神。天照大神(あまてら
すおおみかみ)・素戔嗚尊(すさのおのみこと)の父神。出典:広辞苑第五版
 
二 いざなぎのみこと・いざなみのみこと
 伊邪那岐命・伊邪那美命(記)、伊弉諾尊・伊弉冉尊(紀)。神代の昔、わが国土・山
川草木をはじめ、萬物の主宰神天照大神をはじめ、もろもろの神を生み成された夫婦の
神。即ち天神の命ミコトを奉じて、二神は高天原から降りて天浮橋に立ち、先ず天瓊矛アメノ
ヌボコを以て滄海ウナバラを探り、引き上げられた矛の先から滴る潮水から淤能碁呂島オノコロ
ジマが出来た。この島に下って二神は八尋殿ヤヒロドノを建て夫婦のちぎりを結んで我が国土
をはじめもろもろの神々を生み、最後に皇室の祖神とせられる天照大神・月読命・素戔
嗚尊を生み給うた。いざなみのみことは火神を生まれたため崩ぜらりて黄泉国に至られ
る。ここに夫のいざなぎのみことは後をしたって黄泉国に行き、あまりのことに驚き逃
げ還って日向の橘小戸檍原に於てみそぎをせられた。いざなぎのみことは神功を終って
幽宮カクリノミヤを淡路国に建てて隠れ給うた。兵庫県の伊弉諾尊神宮と滋賀県の多賀大社に
奉祀する。一説には天に昇って日の少宮ワカミヤに帰って鎮まると伝う。出典:神道辞典
 
三 御祭神とする神社
 ○伊弉諾神宮イザナギジングウ
 旧官幣大社。鎮座地兵庫県津名郡一宮町多賀。祭神伊弉諾神・伊弉冉神。例祭四月二十
二日。祭神伊邪那岐命はこの地(淡路島)に亡くなられ、その幽宮カクリノミヤが、当社であ
ると云う。淡路国の一の宮である。式内大社。(神社本庁別表神社) 出典:神道辞典
 
 ○多賀大社タガタイシャ
 滋賀県犬上郡多賀町多賀に鎮座。祭神は、伊邪那岐神・伊邪那美神。古事記上巻に「伊
邪那岐大神者坐淡海之多賀也」と見え、相殿に座す伊邪那美大神は延喜式巻十に「犬上
郡七座並・小多可神社。二座」と見える。古来、延寿司命の霊験あらたかで、歴朝の尊信
厚く、所謂お多賀杓子の起源となった元正天皇御不豫の御平癒を初として、明治初年に
至るまで禁中の勅願所で、武門衆庶の崇敬が厚かった事歴は数多の文献に明かである。
「お伊勢七度、熊野へ三度、お多賀様へは月参り」の俚謡にもその様子がうかがわれる。
戦国時代豊臣秀吉の母大政所病気平癒報賽の為の一万石寄進による造営をはじめ、寛永
年中将軍献納三十万両による大造営の社宇も、安永天明両度の火災により灰燼に帰し、
文化五年仮造営したものを大正十一年大造営の計画により昭和七年現在の様に竣工され
た。大正三年官幣大社に昇格。出典:神道辞典
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