52 美味しいお酒は熱燗で
 
                参考:樋口清之博士著祥伝社発行「梅干と日本刀」
 
 日本人は、主食の米から様々な食品を作り出しています。その一つがお酒(いわゆる
日本酒のこと)です。
 精白米を蒸して置いておきますと、糀菌コウジキンが入って、腐りかけます。すると糖化
して甘くなり、これが甘酒です。そのとき、イースト菌を加えると酒になり、これがお
酒の原酒です。
 昔は酒屋には、必ず杜氏トジ・トウジと云う技術者がおりました。杜氏は、糀の素モトで米
を発酵させて糖化し、空中の自然イースト菌を触媒させて酒を造ります。このとき、発
酵米の温度が高いとイースト菌は死滅し、寒くて低ければ菌は繁殖しないので、杜氏の
腕の見せ所です。
 発酵し始めた酒はそのまま放って置くと酢になるので、杜氏は途中で火入れします。
因みに塩辛類はこのとき、食塩を用います。お酒の場合は熱でイースト菌を殺すのです。
その結果イースト菌が死んで、濁酒ドブロクが出来上がります。それに藁灰ワラバイを混ぜる
と、灰汁アクによって繊維と澱粉が収縮して下部に沈殿し、上方に「上澄みウワズミ」が出来
ます。この上澄みが今日の清酒です。現在では、灰汁の代わりに薬品を用いると云いま
す。
 
 こうして出来た上澄みを杉樽に入れて置きます。昔は上澄みを壷に入れ、腐りかける
と杉の新芽を漬けました。杉はフーゼル油と云う油脂を含有しています。これは杉の脂
ヤニのことですが、このフーゼル油には防腐作用があります。従って酒屋では、杉の新芽
を沢山用意していました。なおこのフーゼル油は、レモンの皮にも含まれています。
 奈良県の大神オオミワ神社と云うお酒の神様を祀る神社は、杉の新芽で作った玉を頒布し
ています。酒屋はそれを入手して、お酒が腐りかけると、その杉玉を漬けるのです。す
るとお酒は元に戻ります。
 その杉を束ねたものを酒林サカバヤシと云いますが、酒屋ではそれを門口に吊るしました。
酒林が吊るしてあると、「あそこは酒屋だ」と分かるので、これがわが国の看板の元祖
であると云います。
 このように杉にはフーゼル油が含まれているので、江戸時代になって酒樽は杉樽にな
りました。日本人は、杉のフーゼル油が染み込んだお酒の匂いを樽酒と言って、殊の外
喜びます。
 
 上方から江戸まで運んで行ったお酒を「下り酒」、それを上方に持って帰ったのが「
戻り酒」と云い、江戸まで馬の背に積んで揺られて酵熟コウジュクしたお酒がもう一度、東
海道五十三次を戻って来るのです。この戻り酒の値が非常に高かったと云います。何故
かと云うと、東海道を往復しているうちに、杉のフーゼル油の香りが、全体に程良く広
がって酵熟してくるからと云います。

 実はこのフーゼル油は揮発性の油で、これを摂取すると脳神経を犯されて頭が痛くな
ります。
 一方、世界中の酒の中で、事前に酒を温めるのは、中国の一部の酒と、わが国のお酒
だけです。お酒をお燗オカンするのは、フーゼル油を揮発させるためです。でも杉のフーゼ
ル油の香りを好んで、値の高い「戻り酒」を飲むと云うことは、わが国の文化なのでし
ょう。
 
 下り酒、戻り酒の序でですが、当時の江戸のお酒は評判がよくなかったと云います。
お酒の本場は、当時は関西であったのです。
 江戸のお酒は、関西から東海道を下って来たものではありません。つまり、「下らな
いお酒」と云うことです。
 現在、つまらないとか、大したことはないとかのことを「くだらない」と表現します
が、その語源は、この「下らないお酒」から来ているのです。
 
 一方ではお酒を飲むと、気が大きくなり、また中には気が変になる人もいるようです。
古代人は、この状態を「神憑りカミガカリ」の状態と考えました。神の霊が降りてくるので
す。そんなことにより、お酒を神様に供え、また自らも戴きます。このようなことから、
お酒には宗教観や神聖観があります。それが「お神酒オミキ」の発想であると思います。わ
が国は、アルコール中毒が多国に比して少ないのも、原点にこの発想(思想)があるか
らでしょう。
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