07 はて,面妖なやつ〈ねんきん〉
はて,面妖なやつ〈ねんきん〉
〈ねんきん〉
「ねんきん(粘菌:フィザルム)」とは,学問的には「変形菌」といわれ,いったん
それに取りつかれます(取り憑かれる)と,なかなか離れ難い不思議な魅力を持つ生き
物です。菌という名が付いていますように,カビやキノコなどの菌類の親戚と考えられ
ていますが,正確な類縁関係はまったく分かっていません。自然界では,湿った森や林
の落ち葉や朽ち木の上を這い回っていますが,ときに井戸端のスノコの上に生えたりし
ます。その出現のし方も,神出鬼没です。
栄養期に当たる時期には変形体と呼ばれるものになりますが,これは,先端が扇状に
広がり,内部は細い管が細かく枝分かれしているのです。そして,その管を顕微鏡で見
ますと,内側に激しい原形質の流れが見られます。普通の植物細胞で見られる原形質流
動と比べますと,粘菌のは20〜30倍の速度であり,一見毛細血管の中の血液の流れと似
ています。しかもある時間一方向に動きますと,停止し,今度は逆方向に動くという変
な運動をします。
野外で変形体を見かけることは稀ですが,ときには1畳ぐらいの広がりを持つことも
あります。森や林の中で,そんなに大きい粘菌を見たいといつも願っていても,残念な
がらその機会の恵まれることはなかなか難しいです。それも理由があって,天然で変形
体の姿をしているのは,せいぜい2,3日で,すぐに胞子をつけた子実体(菌類のキノ
コに当たるものです)を作ってしまいます。この子実体の形態で,粘菌の種の分類が行
われます。わが国では,約250種あるといわれています。
粘菌のキノコ,つまり子実体は,一つ一つは肉眼でやっと見えるくらいのものが多い
ですが,多数集まりますと,小さなキノコのように見えることがあります。両者の大ざ
っぱな見分け方は,手でつぶして匂いをかいだとき,キノコ特有の匂い(菌臭)がする
か否かであり,粘菌の方はほとんど匂いません。
胞子が熟しますと,散って,そこからアメーバが出てきます。このアメーバもまた変
なことをいろいろします。個体の上ではアメーバのように這い回りますが,水中に入る
と,一端から鞭毛という細長い毛を普通2本出して,泳ぎ回ります。そして,アメーバ
に雌雄があり,雌雄のアメーバが合体しますと,接合子ができます。接合子の中で,核
だけがどんどん分裂し,また隣り合った接合子同士が互いにくっついて,大きな変形体
になっていきます。それで,変形体の中には細胞の仕切りがなく,核だけは何十万,あ
るいは無数といってよいほどあります。外側の膜も運動に伴って絶えず変化しますので,
変形体のことをよく「裸の原形質の塊」と呼びます。
この粘菌の中に,フィザルム・ポリセファルムという学名のついた種があります。ア
メリカ原産で,わが国の野外には存在しません。このフィザルムは,容易に実験室で飼
育(菌類は培養というほうが適切ですが,実験としては飼育の語の方が合うようです)
できます。
方法は簡単で,ポリバケツの底に湿ったペーパータオルを敷き,その上に生やして,
オートミールを餌に与えます。湿度と暗さを保つために,蓋をしておき,一両日経って
蓋を開けますと,バケツの内側にべったりと変形体が生えています。バケツの数さえ増
やせば,1日に100gぐらい採ることも可能です。最近では,複雑な組成の液体の中で,
粘菌だけを純粋培養することもできます。このときは,直径10分の1oぐらいの小球状
で増えていきます。
飼育が簡単なことから,フィザルムは勢力範囲を広げていっています。現在(昭和61
年),原産地のアメリカはもとより,イギリス,ドイツ,オランダ,フランス,イタリ
ア,イスラエル,オーストラリア,香港,ロシア,中国,わが国など,ほぼ全世界の研
究室で飼われていて,毎年フィザルムに関する国際シンポジウムが開かれているほどで
す。研究者間では「アワ・フィザルム」と呼ばれています。
先年,ある学者が「フィザルムはもはや野外の生物ではなく,家畜や作物に近い」と
いいましたが,その通りで,今や一つ一つの胞子に,遡った戸籍簿のような系統番号も
付けられています。
学界では,その人の専門の後に屋を付けて,○○屋と呼ぶことがあります。物理屋,
化学屋,生物屋という調子です。フィザルム屋の人は増え続けています。現在,世界で
数百人は下らないと思いますが,やがて数千人になると期待しています。
フィザルム屋の努力よって,この生き物は,学問上大変貢献しています。原形質流動
の仕組みは,この材料のお蔭で,細胞運動の中で筋収縮に次いでよく解析されています
し,変形体の中の無数の核が分裂することから核分裂の仕組みの研究にも使われていま
す。そのほか,人により千差万別の研究が行われ,「アワ・フィザルム」の秘密は一つ
一つ暴アバかれています。
さらに,フィザルムには筋肉と同様のタンパク質が含まれていますので,それを肉に
混ぜて食用にできないかという人も現れました。黄色の色素が多いですので,ついでに
その色素をタクワンなどの染料に使えないかという欲張った話でありました。しかし,
調べてみますと,食用に不適な成分があるなど,いろいろな理由で,その話は沙汰やみ
となりました。
フィザルム屋は,「それでよかった」と思っています。下手に通俗的な貢献をしてく
れるよりも,あくまで「変な生き物」でとどまっていて欲しいと望んでいます。
参考 「キノコの不思議」光文社発行
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