29 植物の世界「スギからみた花粉症」
植物の世界「スギからみた花粉症」
参考:朝日新聞社発行「植物の世界」
花粉を作るのは,植物にとって普通の生殖活動に過ぎません。それなのに,何故スギ
ばかりが悪者にされているのでしょうか。それには,質と量の両面があります。
まず,スギ花粉の性質を見てみましょう。第一に,直径が100分の3o程と,風媒花の
中においても小さくて軽い上,本体(幹)の丈が高いので,遠くまで飛散しやすい。第
二に,標高の異なるスギ林全体として見ますと,開花期間が2〜3カ月と長く,花粉の
量が多い。高さ15m位の木で,毎年平均1sは作られると云います。第三に,花粉症を引
き起こす蛋白質(抗原)の量が比較的多く,しかも水に溶けやすいため,鼻の粘膜に付
きますと,大量の抗原が体内に吸収されます。
勿論,こう云った条件を満たしているのはスギ花粉だけではありません。わが国にお
いては,ヒノキ科の樹木,特にヒノキもこれらの条件を満たしています。世界的に見ま
すと,ヨーロッパのイネ科牧草,北アメリカのブタクサ(キク科)も花粉症の原因にな
りやすく,わが国のスギ花粉症と並んで,「世界三大花粉症」とされています。
次に量の問題です。わが国にはスギの数が非常に多く,殆どが人工林です。その面積
は約451万haで,国土総面積の実に8分の1を占め,人工林総面積の44%はスギ林です(
1990年)。因みに,スギの天然林は数千haに過ぎません。1haのスギ林には約1000本の
スギがあるとされますので,その数はざっと45億本になり,樹齢を考えずに単純計算し
ますと,国民1人当たり毎年三十数sものスギ花粉に見舞われていることになります。
〈植林で3倍にふえたスギ〉
このように「異常」な程スギだらけになった背景には,第二次世界大戦後の国の政策
があります。戦時の軍需用材の大量伐採によって荒れ果てた森林を復旧するために「復
旧造林」(1946〜56年)と,その後の経済成長に伴う木材需要を賄うため,天然林や薪
炭林を伐採した跡に,生産性の高い針葉樹を植える「拡大造林」(1957〜72年)によっ
て,大規模な造林が進められました。このとき,材が良質で生長が速いことから,大量
に植えられたのがスギでした。当時は経済性が第一で,スギ花粉症が問題化していなか
ったこともあって,毎年10万haを上回る造林がなされ,スギ人工林の面積は戦前の3倍
にも達しました。スギが本格的に花粉を作るまでには30年前後かかるとされていて,実
際,造林開始から30年目に当たる1976年から,それまで見られない程多量のスギ花粉の
飛散が観測されるようになり,花粉症患者の数も急増しました。
〈抗体保有率は約4倍に〉
花粉症の場合,発症者が全て医療機関の門を叩くとは限りません。ですが,発症者は,
スギ花粉に対してアレルギー病を引き起こす特定の抗体を必ず持っています。抗体保有
者が必ず発症する訳ではありませんが,その保有率は発症率を反映しています。最近に
おいては,抗体保有者率は全国的に概ね30〜50%で,年々徐々に上昇する傾向にありま
すが,井上栄氏(国立予防衛生研究所)は50%程度が上限と観ています。それでは,花
粉症が問題になる前の抗体保有率はどうであったのでしょう。昔の血清が一定数以上保
存してあることは稀で,井上氏の研究がほぼ唯一のデータとなっています。それに拠り
ますと,1973年に群馬県桐生市付近において採取された277人分の血清(国立予防衛生研
究所保存)と,1984〜85年に同地域において採取された319人分の血清を分析した結果,
抗体保有率が8.7%から36.7%と,約4倍に上昇していました。発症者の増加は,医学的
にも裏付けられたと云うことになります。
スギは可成り老木になっても花粉を作るため,今後,利用可能になったスギの伐採が
進みませんと,造林されたスギが花粉を作り始め,それと共に人工林全体の花粉生産量
は増えると観られます。1964年に初めてスギ花粉症を報告した,東京都花粉症対策検討
委員会の斎藤洋三会長(東京医科歯科大学)は,「根治療法はなく,自然治癒チユするこ
とはまずない。一度罹った患者は治らず,花粉量の多い年には新たな患者が加わるので,
患者は21世紀に向けて『累積的』に増えて行く」と予想しています。
ただ,ここで不思議なのは,スギは有史以前から日本人との関わりが深かった筈なの
に,花粉症が問題化したのは極最近であることです。私共人間の側に問題はないのでし
ょうか。これについては,大気汚染物質(ディーゼル自動車の排気ガス中に含まれる微
粒子)が抗体の生産を助長することや,蛋白質摂取量の増加や魚食から肉食へと云った
食生活の変化,寄生虫病の撲滅や伝染病の減少などとの関連が指摘されています。更に,
後述します都市化に伴う花粉の再浮遊(二次飛散)の問題もあります。何れにしても,
スギ花粉症が文明化や都市化に伴う「複合汚染」であるのは確かで,スギだけを悪者に
する見方には問題があるでしょう。
とは云え,スギ花粉症を引き起こす原因物質がスギ花粉であるのは紛れもない事実で
あり,その性質を研究することで,何らかの対策を考え出すことが出来るかも知れませ
ん。
前述の,1976年からの年毎のスギ花粉の飛散量は,実は1〜2年置きに「大飛散」し
ています。1976,79,82,84,85,86,88,90,91,93,95年に多く,「猛暑」と云わ
れた夏の翌年に多く飛散しています。そこで,横山敏孝氏(林野庁森林総合研究所)は,
1988年から7年間,7カ所のスギ林を選んで,花粉を作る雄花の1u当たりの数と気象
条件との関係を調べました。
その結果,雄花の数は,前年7月の日射量が多いとその数も多くなって,降水量が多
いと雄花の数は少なくなる傾向を示すことが分かりました。降水量と日射量はほぼ反比
例すると考えられますので,雄花の数は植物のエネルギーの源である日射量との相関が
高いと云えます。6月下旬から7月下旬にかけては花芽が作られ始めるときで,雄花の
数はその時点で決まります。ただ,多くの花を付けた翌年は,これらの気象条件に恵ま
れても,雄花の数はそれ程多くはなりません。これは,雄花を多量に付けたことで悪化
した栄養状態を回復するまで,一定の期間が必要であるためと考えられます。これらの
条件を分析することによって,翌年の花粉飛散量を可成りの精度で予測することが可能
です。
ところで,スギの花粉量が多くなった一方の要因として,林業人口が減って間伐カンバツ
や枝打ちなどの手入れを怠るようになったことが挙げられています。このことは「常識
」化していますが,実際には,どうもそうではないらしい。
間伐とは,林の密度と構造を調整する作業で,状態に応じて林の密度を決め,残す木
の配置を考えながら,生長の悪い木や不良木を除いて行きます。一方,枝打ちとは樹冠
の下の方の枝を切り落とす作業です。
〈手入れしても花粉は減らない?〉
林野庁のスギ林着花調査(1990年)に拠りますと,10年以内に間伐した林と,間伐を
しなかった林を比較して,雄花の数に有意の差は観られませんでした。雄花を付けるの
は林内の日当たりの良い樹冠部分(陽樹冠)です。間伐をしない場合,林内の密度が高
くなり過ぎ,生長の悪い木は日当たりが不足して枯死するため,雄花数の増加は起きま
せん。また,枝打ちは,元々日当たりが悪く,雄花を作らない部分の枝を切りますので,
花粉量には影響しません。寧ろ,林全体において見た場合には,間伐によって陽樹冠の
表面積が増え,花粉量が増加する可能性すらあります。実際,斎藤秀樹氏(京都府立大
学農学部教授)等の研究においては,スギではないものの,ヒノキの高齢林において間
伐によって本数密度を20%減らしたところ,総花粉量が15%増えたと云う報告されてい
て,斎藤氏は「林業労働者の不足と木材価格の低迷から手入れされていない現在のスギ
・ヒノキ植栽林の花粉生産量は最低レベルにあると観て過言ではない」と述べています。
結局のところ,スギ花粉の量を減らすには,1本当たりの花粉量を減らすか,スギの
数そのものを減らすしかないと云うことになります。スギの数を減らすことの是非は最
後に考えることにして,1本当たりの花粉量を減らす方法を観てみましょう。
まず,品種改良によって花粉量が少ない品種を作って,植え替える方法があります。
実際,花粉症対策としてではありませんが,スギを挿し木によって殖やして来た九州や
関東地方の一部の林業地においては,花を付けにくいものが選ばれて植えられて来まし
た。林野庁には,様々な特徴を備えた3700もの品種が登録されており,花粉症対策とし
て,平均的に花粉量がより少ない品種に植え替える試みを本格的に始めると云います。
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