23 植物の世界「植物も言葉を操る」
 
            植物の世界「植物も言葉を操る」
 
                      参考:朝日新聞社発行「植物の世界」
 
 「花の香り」と云うことばを聞きますと,漠然とした,脈絡のない,ある素敵なイメ
ージが次々と頭に思い浮かんでしまいます。それは,花言葉であったり,子供の頃のピ
クニックの思い出であったり,去年の桜の季節であったりします。実際,私共動物の匂
いとは対照的に,植物の匂いと云うのは,何となく爽やかな気分にさせてくれるものが
多い。このような匂いを,植物は一般に,花だけでなく葉や茎や果実から,実に様々な
プレゼントとして出しています。別の言い方をしますと,植物とはエネルギーを投資し
て,その体内において複数の匂い分子を合成し,それをある特定の器官から,ある特定
の期間,ある特定の比率でその周囲の環境に放出している生命体です。一体どうしてそ
んなことをするのでしょうか。
 
〈花や葉の匂いの役割〉
 一番分かりやすいのは,この花の香りと花粉媒介者(送粉者)との関係でしょう。送
粉者は,花の匂いに引き寄せられて,蜜を得ることが出来ます。一方,植物は餌(蜜)
を与える代わりに花粉を運んで貰うと云う協調的な関係です。花によっては,送粉者に
報酬を与えない場合もあります。例えば,ランのある種においては,送粉者の性フェロ
モンとよく似た匂いを出して,それらを惹き付けますが,植物は蜜を報酬として与える
ことはしません。このような例から,植物が「匂い」をある「言葉」として操り,送粉
者を利用していると考えることが出来ます。しかし,匂いの機能はよく分かっていない
ことが多い。例えば,匂いを手がかりにして植食者が植物を見付け出す場合があります
が,ここでは匂いは植物にとって明らかに不利な機能を果たしているのであり,植物が
積極的に生産する筈はありません。おそらく,その植物の生活(生長・繁殖)に必要で
あるため,生産をストップ出来ないのでしょう。
 
 植物が言葉として操る匂い物質の中において,最近注目を浴びているのが「植食者誘
導性植物におい物質herbivore-induced plant volatiles」です。この英語の頭文字を採
って,本稿においてはHIPVと呼びます。この物質は,植物がある特定の植食者に加害さ
れたときに,ある特別な匂いのセットとして生産するもので,その匂いのセットは,機
械的な傷では殆ど,或いは極短時間だけしか生産されません。
 この匂いは最初,この特定の植食者の天敵を呼び寄せるために植物が生産する物質と
して発見され,様々な研究がなされて来ました。つまりHIPVは「植物がこの物質を"SOS
信号"として用い,加害している植食者の天敵を呼び寄せて」自分の身を守ると云う,植
物と植食者の天敵とのコミュニケーションのために生産されていると考えられて来まし
た。
 ここではまずそのようなSOS信号について説明し,更にSOS信号が植物同士のコミュニ
ケーションにも利用されていると云う話を紹介します。
 
〈チリカブリダニの餌探しの手がかり〉
 主に紹介しますHIPVによる植物 − 植物相互作用系には,植物としてライマメ(リマ
マメ),植食者としてナミハダニ,その捕食性天敵としてチリカブリダニが登場します。
ライマメはインゲンマメの仲間で,熱帯や亜熱帯において広く栽培されています。
 ハダニと云う小さな植食者のダニは,農作物の重要害虫として知られています。ナミ
ハダニはその一種で体長0.8o程度ですが,矢張り植物にとっては脅威です。天敵が捕食
しなければ,それらは湧くように殖え,忽ち植物を食い潰してしまいます。気温25℃と
云う条件下において,1匹の雌成虫の子孫が3万匹になるのに約30日しかかかりません。
しかし,自然の中にはこのダニの天敵が沢山居ます。その中で最も有名なのがチリカブ
リダニと云うダニです。ナミハダニなどのテトラニクス属のハダニを専門に食い尽くす,
体長0.8o程の赤い小さなダニです。
 
 チリカブリダニは成虫期だけでなく,若虫の時期にもナミハダニを捕食します。一旦
チリカブリダニがナミハダニのコロニーに侵入しますと,一定期間でコロニーは全滅し
てしまいます。チリカブリダニの強い捕食性とナミハダニ以上の増殖能力のためです。
25℃においては,1匹のチリカブリダニは30日後に10万匹に殖えています。ナミハダニ
は糸を吐いてコロニーを作りますが,その糸を物ともせず,と云うより,そのようなコ
ロニーを作るハダニを好みます。こうして害虫を駆逐するチリカブリダニは生物農薬と
して注目され,商品化もされています。
 ところで,チリカブリダニには羽がありません。従って餌の探索は主に歩行と,風に
乗っての分散に限られます。しかも目もなく,体は小さい。このような捕食者がどのよ
うにして広いハダニの生息域内の,あるマメ科植物上のナミハダニのコロニーを発見出
来るのでしょうか。闇雲に餌を探すのは分ブが悪い筈です。実際,チリカブリダニはあ
る「手がかり」を用いて餌を旨く見付けています。その手がかりがほかならぬHIPVです。
 
 チリカブリダニと植物との相互作用の様々な研究成果から,@マメ(ライマメ)はナ
ミハダニの加害に反応して積極的にHIPVを生産する,Aチリカブリダニはその匂い信号
に反応してナミハダニのコロニーを発見し,其処に居るナミハダニを食い尽くす,と云
う図式が明らかになりました。HIPVはチリカブリダニを誘い出す機能を持ち,植物の発
する「SOS信号」なのです。植物はチリカブリダニをボディーガードにしてナミハダニか
ら間接的に身を守っている訳です。
 
〈虫に食われた葉が出す匂い〉
 チリカブリダニと植物とのコミュニケーションが明らかになりますと,次にコミュニ
ケーションの手段としてどのような化学物質を利用しているのかを知りたくなります。
被害葉の出す匂いを分析した結果を紹介しましょう。
 葉から自然に出る匂いを集めて分析することは,最近においては比較的簡単に出来ま
す。極微量の匂いでも効率よく捕集できる吸着剤が市販されています。ナミハダニに加
害されたライマメの葉を,出口と入口があるガラス瓶に入れ,一方から綺麗な空気を送
りますと,もう一方から被害葉の匂いが出て来ます。それを吸着剤に通しますと,匂い
を捕集出来ます。吸着剤に捕集された匂いは,エーテルなどの容器溶媒によって洗えば
抽出出来ます。それを分析機器に掛けます。
 ライマメの被害葉と未被害葉の匂いを分析した結果,被害葉の匂い成分の中で,ナミ
ハダニに食われることによって五つの成分が通常の数十倍から数百倍生産されることが
分かり,それらがHIPVであると考えられます。未被害葉の匂いと被害葉の匂いをオルフ
ァクトメータ(Y字形のガラス管)内で与えたときに,チリカブリダニはHIPV成分を持っ
ている被害葉の匂いを選びます。詳細な研究の結果,1成分を除く四つのHIPVがそれぞ
れチリカブリダニを誘引することが明らかになりました。
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