09a 植物の世界「富士山を這い上がる森」
 
〈肥料植物としてのミヤマハンノキ〉
 スコリアは,いわゆる軽石が細かくなったようなもので,その表面には沢山の穴が空
いています。通気性も水の浸透性も良いため,乾燥しやすく,風化によって細粒化され
て土壌の基になります。植物が侵入を始めたばかりの頃には,このスコリア層は植物の
生長に必要な窒素を極僅かしか含んでいません。富士山の南東面にある宝永火口付近に
おいて,森林限界を中心にスコリア層の炭素と窒素の量を測定してみました(筆者増沢
武弘氏)。
 この一帯は森林限界より下に生育するシラビソ(マツ科)の森林から殆ど植物が生え
ていない裸地までに至ります。窒素量は裸地では0.01%と,平地の森林の土壌に比べま
すと10分の1以下です。
 
 このような裸地に窒素を始めとする養分はどのようにして補給されるのでしょうか。
第一に降雨,第二に空気中の窒素を根粒菌コンリュウキンが固定,第三には落葉落枝の補給が考
えられます。しかし,雨中の栄養塩類は極めて僅かな上に,スコリア層を簡単に通過し
て地下深く浸透してしまいますので,第一の要素は殆ど問題にならないでしょう。
 富士山の森林限界付近には,第二の要素を満たす性質を持つマメ科の植物が3種見ら
れます。これらはオンタデやイタドリと同じように裸地に進出して,標高の高い処から
順に,ムラサキモメンヅル,イワオウギ,タイツリオウギが帯状に生育しています。何
れの種も根に根粒菌を持っているため,周囲の土壌の窒素量は増えて行きます。
 しかし,窒素量の増加に最も貢献するのは,第三の要素,落葉落枝です。特に森林限
界の矮性ワイセイ低木群落の構成メンバーであるミヤマハンノキ(カバノキ科)は珍しい性
質を持っていて,重要な役割を果たします。
 
 裸地の土壌の垂直構造を調査しますと,表面には比較的大きな礫がありますが,地下
5〜10pでは細かい礫の割合が多くなります。この部分の土壌を篩フルイに掛けてみます
と,落葉落枝の欠片カケラが沢山見付かります。裸地に最も近い矮性低木林から風に運ばれ
て来たものです。この林の主要な種はミヤマハンノキ,ミヤマヤナギ(ヤナギ科),ダ
ケカンバ(カバノキ科)です。ですが,どの種も同じように土壌の富栄養化に貢献して
いる訳ではありません。
 
 普通植物は落葉直前に,葉の中の物質を根などの貯蔵器官に移動させて,栄養分を回
収します。回収された物質は再び他の器官の生長や翌年の葉の展開などに利用されます。
落葉落枝に養分が多く残る程,土壌は肥える速度が早まって裸地への植物の侵入や定
着を促す訳ですが,葉を落とす植物自身は養分を無駄にしてしまうことになります。そ
こでこの3種について,完全に生長した時期の葉の中の窒素とリンの量を測定し,その
値と落葉時の値とを比べてみました。その結果,物質の回収率はダケカンバが最高で,
ミヤマハンノキが最も低く,ミヤマヤナギはその中間でした。ミヤマハンノキは葉内の
窒素を約30%しか回収せず,跡の70%を残したまま葉を落としてしまいます。その落葉
落枝は風によって裸地に運ばれ,分解されて多量の窒素を土壌中に供給するのです。
 それにしても,何故ミヤマハンノキは折角作った養分を少ししか回収しないのでしょ
うか。ミヤマハンノキの稚樹チジュを掘り起こして根を観察してみますと,マメ科植物と
同様に多量の窒素固定菌が付着しています。つまり,この種は空気中の窒素を取り込み,
落葉によって徐々に土壌を肥沃化して行く,マメ科よりずっと大規模な「窒素供給系」
なのです。
 
 〈乾燥や寒さなどいくつもの障害〉
 こうして,植物は自分たちが生育しやすい環境を整えて行く訳ですが,裸地において
発芽し,定着して親個体となるのはなかなか容易なことではありません。イタドリの実
生ミショウを調査した結果では,最も条件のよい時期に出現した個体でも,夏の乾燥期を過
ぎた頃にはその数は半分に減っていました。遅くに発芽したものは全滅です。
 土壌の中には1立米当たり1000〜2000個の種子が含まれていますので,何処にでも発
芽する可能性があります。しかし,実際に発芽する種子は極僅かである上に,発芽して
も定着出来る可能性は更に低い。裸地の所々に多年生草本類の実生が見られますが,こ
のうちのどれだけが生き残るのかは分かりません。
 
 それはともかく,何段階かの選択を潜って生き残るものの跡を追ってみましょう。森
林限界付近の多年生草本植物は,定着出来た後に栄養繁殖を繰り返し,個体の一部を少
しずつ大きくして生長して行きます。その代表的な植物がオンタデ,イタドリ,コタヌ
キラン(カヤツリグサ科)です。
 種子から生長した実生のうち,その年の夏の厚さや乾燥,冬の寒さなどに耐えて生き
残ったものが,2年目の春を迎えられます。オンタデの場合は特に冬の厳しい寒さを乗
り越えることが重要な条件で,そのためには冬を迎える前に一定の大きさに生長してい
なければなりません。その大きさは植物体の重さが12mg以上と云う報告もあります。春
先にイタドリの実生を至る処で見掛けますが,5月から梅雨に入るまでの第一の乾燥期
には殆どの実生は枯死してしまいます。この時期を旨くクリアするためには,雪解け後
に出来るだけ早く発芽し,乾燥期までに少しでも長い根を持たなくてはなりません。そ
の後には第二の乾燥期,真夏が待っています。
 何れにせよ1年目を無事に過ごした少数の個体は,翌年からは光合成によって物質生
産を行い,貯蔵物質を蓄えて,暫くは栄養繁殖のみを行います。
 
 イタドリを例に挙げますと,栄養繁殖を何代か繰り返して行くうちに,個体は絨毯を
広げたようなパッチへと生長します。宝永火口内には様々な大きさのパッチが広がって
いますが,大きなものでは直径が15m程にもなります。このような大型のパッチは1000〜
2000本のシュートを持ち,実生からおそらく50〜60年は経っているでしょう。パッチが
長方形であったり,楕円形であったりするのは,様々な環境の影響を受けるためです。
 
〈草の群落は「森のゆりかご」〉
 この大きなパッチの中が「森のゆりかご」です。
 パッチは無限に拡大するものではなく,直径4〜5mになりますと中央の部分が枯れて
来ます。まずシュートの密度が減少し,次いで丈が低くなります。こうして出来たパッ
チ中央部の空間をデッドセンター,またデッドセンターが発達する過程をドーナツ化現
象と呼んでいます。デッドセンターの中には木本植物の実生や稚樹が数多く見られ,こ
のようなパッチがあちこちに点在します。
 
 パッチ周辺の裸地においては草本植物の実生は見られても,木本植物の実生はまず見
当たりません。風などに飛ばされて来る木本植物の種子は,全く裸地の環境においては
条件が厳し過ぎて発芽出来ないのでしょう。しかし,デッドセンターは木本植物の実生
に穏やかで生長しやすい環境を提供します。土壌の窒素含有量を裸地と比較しますと,
デッドセンターの窒素量は約10倍です。また,落葉落枝が蓄積しますので,乾燥しやす
い時期には霧や雨を吸収し,湿潤な状態を長持ちさせます。森林限界特有の強風も周り
のシュートが防いでくれます。
 これらの好条件によって,パッチの中央部に,カラマツ(マツ科)やミヤマヤナギや
シラビソが高さ4〜5mに生長しているのが,富士山においてはよく見られます。このよ
うなパッチがどんどん増えることによって,その付近は林となり,やがて森へと変わり
ます。このようにして現在標高2400m付近にある森林限界は,高い位置に少しずつ登って
行くのです。

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