39 植物の世界「植物の謎を解き明かすシロイヌナズナ」
 
      植物の世界「植物の謎を解き明かすシロイヌナズナ」
 
                      参考:朝日新聞社発行「植物の世界」
 
 世の中にはいろいろ変わった姿をした植物があります。この『植物の世界』シリーズ
を通してご覧になられますと,植物と云うものが如何に多様な姿をしているか,驚かず
にはいられないでしょう。植物の形や色に関心がある筆者等研究者にとっても,植物の
姿を作っている仕組みを明らかにすることは,最大のテーマです。
 幸か不幸か,現代の生物学は未だ,その答えを手にしていません。特に,現在のよう
な植物の様々な形を作り上げて来た進化と,その背景にあると考えられる突然変異の実
態については,未だ殆ど解明されていません。それ以前に,植物が植物らしい形を作り
上げている基本的な仕組みすら,未だよく分かっていないのです。
 ところで,植物に共通する基本的仕組みを調べるのに,モデルとなる植物は何でしょ
うか。棘に被われたサボテンや,世界最大の花ラフレシアでないことは確かでしょうが,
これだけ多様な植物から,どの種類を選んで研究するのが最も良いのでしょうか。
 
〈モデルとして用いられる利点〉
 これまで,候補に挙げられていましたのは,育てやすく,大きく,入手しやすいこと
などから,古くから生化学や組織培養の材料に用いられて来たタバコでした。ですが,
最近においては主に分子遺伝学の分野において,わが国においては馴染みの薄かった野
草が,モデル植物として広く用いられるようになっています。それは,此処において紹
介しますアブラナ科植物のシロイヌナズナです。
 何故,シロイヌナズナが選ばれたのでしょうか。現在の生物学は,あらゆる生命現象
を分子レベルにおいて説明することを目標としています。シロイヌナズナは,そのよう
な解析をする上において有利な特徴を幾つも備えているからです。
 
 その特徴として第一に,シロイヌナズナの細胞1個当たりのDNAの量は,ヒトの3
%,トウモロコシの2%足らずで,これまでのところ,花を咲かせる植物の中において,
最も少ないことが知られています。遺伝子がDNA分子中に暗号化されていますのは,
ご存じの通りです。遺伝子は,生物にとって料理の「レシピ(料理の材料や調理法を記
したもの)」と同じで,その生物の姿がどのように出来上がるか,またその生物に何が
出来るかを決めているものです。生物学者は,何とかしてこのレシピを読み解こうとし
ているのですが,バクテリアやウイルスならともかく,現在の技術では,植物やヒトの
ような複雑な生き物のレシピを読むのは可成り大変なことなのです。その理由はいろい
ろありますが,最大の問題は,DNAの量が多過ぎて,目的の遺伝子がどれかを突き止
めるのが難しいことです。その点,シロイヌナズナはDNAの量が少ないですので,こ
れを用いない手はありません。
 
 第二に,シロイヌナズナは栽培しやすい上,小型ですので狭い実験室においても沢山
育てることが出来ます。また,種子を播いて40日位で次世代の種子が採れる程,一生が
短い。これは遺伝の研究をする上において,重要な利点です。
 第三に,シロイヌナズナについては,いろいろな実験技術が開発されています。例え
ば,他の生物の遺伝子を組み込んだシロイヌナズナを作ることも,今日においては誰に
でも出来るようになりました。筆者が所属する研究室においても,20種類近くの異なる
遺伝子が組み込まれたシロイヌナズナを持っています。例えば,特殊な試薬によって,
大腸菌から組み込まれたある種の酵素遺伝子を発現させることが出来ます。何時何処で
発現するかは,一緒に組み込まれたペチュニアの遺伝子によって,コントロールされて
います。このような実験によって,いろいろな遺伝子の振る舞いや働きを調べられるよ
うになりました。
 
 第四に,後述しますように,シロイヌナズナからは多数の突然変異体が得られていま
す。植物の中において同じ機能を持つ遺伝子が二つ以上重複して働きますと,一つが変
異を起こしても残りが肩代わりしますので,変異体にはなりません。これに対しシロイ
ヌナズナは,DNAの量が少なく,遺伝子の重複が少ないので,変異体を得やすいので
す。植物が植物であるための仕組みを,遺伝子の働きとして理解するためには,特定の
遺伝子がおかしくなった変異体が重要な鍵になります。そういう変異体が豊富に集めら
れて来た上,必要な変異体を新たに作り出すことも容易なのですから,大きな利点と云
えましょう。
 第五に,世界的な研究協力体制が整備されています。例えば,シロイヌナズナのスト
ックセンターが米国,イギリス,日本(宮城教育大学)の3カ所にあり,世界中の研究
者が分離した突然変異体や遺伝子を収集しています。これらのコレクションは,請求が
あれば世界の何処にでも無料で配布される仕組みです。また,研究成果などの情報もデ
ータベース化されており,コンピュータを介して容易にアクセス出来ます。このような
体制は,他の実験植物には観られません。
 
 他にも利点はいろいろありますが,主に異常のような点から,多くの研究者がシロイ
ヌナズナを材料にするようになりました。最近では,植物の基本的仕組みを知るための
モデルとして,その地位を不動のものにしたように観えます。わが国においても,シロ
イヌナズナを専門に扱っている研究室は,東京大学に筆者等も含めて3グループがある
ほか,北海道大学や理化学研究所などにも精力的に研究しているグループがあります。
他の植物と併せて研究しているグループも急増していますので,シロイヌナズナはこれ
から益々重要になるでしょう。
 さてそれでは,実際の変異体を幾つか見ていただくことにしましょう。
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