〜「ゲームに登場するキャラクター」としてのポケモンの存在意義を考える〜
「ポケモン」とは何か。
「ゲームに登場するキャラクター」としての「存在する意味」を問うならば、それは、理想化or抽象化された「他者としての自然」である。
人間にとっての「自己」に対する「他者」(=「自分と異なる存在」)であって、遊ぶ対象、戦う(挑戦する)対象、知的好奇心の対象、そしてあこがれの対象……等々としての自然の、いわば代用品、あるいは化身、もしくは象徴なのである。
ヒトは、友達や家族といった「他者」とのコミュニケーションによって社会性を獲得し、人間となる。
「他者とのコミュニケーション」というのは、生物としてのヒトにとって、本能的に欲求される必要不可欠なものであり、かつ本来楽しいものである。
例えひきこもりといえど、ゲームやマンガといった「擬似コミュニケーション」がなくてはいられぬ程に、本来ヒトは、他者とのコミュニケーションに楽しみを見出す生物なのだ。
そして、ヒトにとって究極の「他者」=「自分でないもの」は、自然≒他の種類の生物たちなのである。
ヒトはペットを友とし、水槽の魚やクラゲに癒され、鉢植えの植物たちにやすらぐ。
本来の荒々しい自然は、必ずしも人間に優しくはない。野生動物にヘタに手を出せば攻撃されるだろうし、デンキクラゲは人を刺し、本物のジャングルに行けば蚊やアブ、ヒルや蛇に悩まされるだろう。
だから、そこにあるのは、飼いならされ、切り取られた、ほんのかけらほどの自然……しかしヒトは、それなしにはいられないのだ。
自然が少なくなっている現代とはいえ、ほとんどの人は、身近な自然、たとえば庭や公園、空き地の草っ原で虫やら小動物やらと遊んだことがあるだろう。
スタッフは「ポケモン」を創るとき、子供のころの楽しい思い出をそこにつめこんだという。
カードやめんこ集め、虫取りやペットの飼育、探検、ヒミツ基地ごっこ、好きだったアニメや特撮、etc……。そこには、交換・対戦・模倣(ごっこ遊び)といった、他の子(人間)とのコミュニケーションから生まれる楽しみのほかに、未知のものに対するあこがれや探求心、知的な好奇心、異なる存在との触れ合いといった、自然とのつきあいの中での楽しみもまた、詰め込まれているのだ。
そしてポケモンは生まれた。人の友となれる、しかしあくまでも他者たる「いきもの」として。
ポケモンは、ペットのように自分のいうことを聞いてくれる(反抗されるときもあるが)し、餌をやったり、タマゴを生ませたり、「いきもの」を飼って育てる楽しみも味わえる。
(しかも、めったなことでは「死なない」。……「データのロスト」という形での別れが訪れることはあるが)
本来の荒々しい自然のような危険性は、そこにはない。
しかし、捕らえることはかならずしも容易とは限らない。本人の知識と技量(そして幸運)が必要なのだ。そういった、捕らえるのが難しいポケモンに挑戦し、ゲットしたときの喜びはひとしおだ。
かつての子供たちにとって、ギンヤンマやカブトムシが心躍らせる最高の獲物だったように。
つまりポケモンとは、自然とふれあう楽しみのエッセンスが具体化された存在なのである。
☆参考資料 「ポケットの中の野生」 中沢新一著 岩波書店 1997刊 → 新潮文庫 2004刊
ゲームのポケモンについて、比較的好意的な見方で分析した本。ただしこちらは児童心理学的な面がメイン。
(この文章は、あゆまるさんの掲示板にて「ポケモンの存在理由」として2005/02/05に発表された文章に加筆・訂正したものです)