正月の粥 二題

佐 原 包 吉
 半世紀も前のことです。私の生家では正月の雑煮の祝い事も終ると、次は七日の朝の七草粥の行事です。更に蔵開きの汁粉や雑煮、十五日の小豆粥や十八日の温め粥と、食事の定めを次々に行いました。子供心にも何故こんなに種々の食事を作るのか不思議でもあり又楽しみでもあったのです。中でも最も好かぬのが七草粥、大好物は十五日粥、今ではこの両極端を正月になると思い出す程度で、作りもせず過ごしてしまいます。
 この七草粥の出来る迄の行程が、六日の年越しの夜食から行われます。家内の者一同お手伝いに至る迄、一座に集り各自銘々に膳の前に座して「本年も亦幸多かれ」と祈り、酒宴に入り、それが終ると一同は別座に移り、あらかじめ用意された行動に移るのです。先づ主人は裃を着し、神棚の前で礼拝をして皆の者の集って居る処に来て、これから「七草叩き」の行事を初めることを告げ、その年の恵方に向って設置された俎板の前に進み出て礼拝をする。一同もこれに習って静かに礼拝する。
 俎板の左側には、せり、なづな、五行(母子草)、はこべら、田平子(仏の座)、すずな(蕪)、すずしろ(大根)が三宝の上に置かれてある。右側の方は広蓋の上に七草を叩く道具類、台所道具の内から七種が選び出され、庖丁、お玉杓子、大小の杓子、すりこぎ、火箸(釜土用の長もの)、竹製の長い取箸等が、一個づつ手に持つ所を白紙で包み紅白の水引で結ばれて、規則正しく置かれて居ります。
 主人は先づおもむろに、右手で道具の一個を取り、左手では七種の草の内から、せりを俎板の上に乗せ、右手の道具で俎板の端を、「トントントン」と三回打ち、これを合図に一同も共々に次の如き言葉を唄いはじめるのです。
 『なにたたくかたたく、七草たたく、七草なづな、唐土の鳥が、日本の国(或は土地に)、渡らぬ先に、ストトントン』
 これで次の草や道具を変えて唄に合せて七草を叩き七回繰り返して終るのです。
 この叩かれた七種を翌朝の粥の中に餅と共に入れて食するのですが、この様な大騒ぎをして出来上ったものは、案外味も素気もなく、多少色彩的には青葉が入って居り、粥の単純さを美的に新鮮味は感ずるものの、好まぬ私にはさっばり魅力もなく、一膳で終ると、これは縁起もので不吉になるから、二杯三杯と食さねばならぬと云ふので、余計憂うつとなった記億のみが残って居ります。この叩かれた七種の一撮を残し、これを茶碗に入れ水を差し、この水に爪をつけて爪を切ると一年中指の病にかからぬと云うので子供は朝食が終ると先ず爪を切られたものです。
 十一日蔵開きの行事も終って十五日の小豆粥が作られます。この方は至って簡単で、一両日前から仕度はするも碗の中に盛られ各自の前に置かれるだけです。只この上に、白砂糖や赤砂糖、赤ざらめなど、各自の好みに応じて自分でかけて味をつけるのです。この赤ざらめの味が、田舎くさく何か野趣があって、美味に感じた事が今日も忘れられぬ思い出となって居ります。
 この粥を故意に大量に作り、余分を残して保存し、十八日の朝再び食するのです。これが十八日の温め粥と名づけ、これを食するときは、その年中は毒虫に刺されぬと云う、迷信から来たものですから、ほんの一箸つけて形だけで終るのですが、私は好物のものですから、この方は虫に食われぬ様にも何杯も食して朝食の代用とした事も楽しい粥の記憶として残って居ります。
 (筆者は、百花園五代園主佐原梅吉翁の実弟、『百味』=昭和四十年一月号=より転載)
 七草粥については『岡本綺堂 江戸に就ての話』(岸井良衛編 青蛙房刊)に、つぎのような記載がありますので、書き抜いてみました。     (中村)

  七草粥(ななくさがゆ)

  正月七日に食べる粥で、せり、なずな、ござょう、はこべら、仏の座、すずな、すずしろの七種の若菜を入れて作る。この七草は所と時代に依って多少ちがっている。粥を煮る前に七草打ちということをやる。それは恵方へ向って綺麗な俎板へ七草をのせて、庖丁、火箸、摺こぎ、杓子、金杓子、采箸、薪などの台所にある七種のもので七たび七草を打つのでその時に「七草なずな、唐土の鳥と日本の鳥と、渡らぬ先に、七草なずな、手に摘み入れて、こうしとちよう」と歌いながら、拍子を取って囃すのである。これは「つく」という悪鳥が渡って来るのを追い払うのだと云われている。