年代 1902年11月 高さ 181センチ 幅 45センチ
碑面の読み下し 裏面の文面・読み
名勝向島百花園は、文化元年佐原鞠塢<さわらきくう>の開創する所にして、風流文雅の名所として聞ゆること久し。鞠塢は仙台の人。江戸に出でて骨董商を営み、北野屋平兵衛と称す。性園圃<えんぽ>の技に通じ文墨の才に富めり。晩年産を治め、寺島村多賀氏の旧地三千余坪を購<あがな>いて閑居するや、みずから鋤鍬の労をとり、文苑の名士と胥諮<あいはか>りて梅樹ならびに四季百花の粋をあつめ、詩韻<しいん>豊かなる花圃<かほ>となす。春夏秋冬花開かざるなく、東西南北客争いて来たり、花屋敷、百花園の名、あまねく世に布<し>くに至れり。
しかるに、明治以来しばしば出水の厄にかかり、園景ついに荒廃に瀕するや、故小倉常吉氏は深くこれを惜しみ、大正の初め、資を投じて園地を収め旧景を保存し、他日公開の意図を有せられしが、不幸易簀<えきさく>せられたるを以て、未亡人小倉乃婦<のぶ>刀自はその遺志を継承し、昭和十三年十月、園地一切を挙げて東京市に寄附せられたり。
本市は寄贈者の芳志を体すると共に、さきに 昭和八年史蹟名勝天然記念物保存法により指定せられたる、本園保存の趣旨にしたがい、鋭意これが復旧を図り、今や公開を見るに際し、ここにその来由を記し以て後世に伝う。
昭和十四年七月 東京市
解 説
〇三千坪=約一ヘクタール (一万u)。
○布く=ひろまる。ひろくゆきわたる。
○易簀=臥床をとりかえること。賢人の死をいう。
○百花園=この名は「梅は百花のさきがけ」という意味で、酒井抱一が命名したという。そのほか、亀戸の梅屋敷に対し「新梅屋敷」とよばれたり「花屋舗<はなやしき>」「七草園」「鞠塢亭」などと呼ばれたりした。入口の門にある額「花屋敷」は蜀山人(大田南畝)の題で、左右の柱の聯「春夏秋冬花不断」「東西南北客争来」は大窪詩彿<しぶつ>がかかげ、「お茶きこしませ 梅干もさむらふそ」の掛行燈は加藤千蔭<ちかげ>がかかげたもの。なお、区内唯一の国指定「名勝及び史跡」である。
○佐原鞠塢=宝暦十二年(一七六二)生まれ(一説に明和三年)。世才はもとより文才にもたけ、当時の文化人である、加藤千蔭、村田春海、亀田鵬齋、大窪詩彿、大田南畝、酒井抱一等に、ことのほか愛顧を受けた。天保二年(一八三一)八月歿。
辞世 隅田川 梅のもとにて われ死なば
春咲く花の 肥料<こやし>ともなれ
○この碑の文案は、東京都公園文庫17「向島百花園」の著者前島康彦氏の作による。
規格外漢字 @ A B C D 姿 読み