《ニューギニア島と周辺の島をめぐるダンピアの探検物語》


探検の時代 ウリアム・ダンピア
 ヨーロッパ人が南の島々に興味を持ったのは、海賊であった ウイリアム・ダンピアが書いた『新世界就航記』(1697年)からといわれている。その後『航海ととその記録』(1699年)を出版、科学的に正確な記録であると評価されました。彼は三度の探検航海をしている。 1699年、1702年、1707年の三回でニューブリテン島やダンピア海峡を発見している

その中でも、おもしろいエピソードは、ファン・フェルナンデス島で置き去りにされたスコットランド人(アレキサンダー・セルカーク)を救い出したことである。
彼は4年間も一人でいたのである。(右の挿絵)この話は、ダニエル・デ フォーにより『ロビンソン・クルーソー』のベストセラー小説になった。イギリスにおける未知の大陸にたいする憧れは、あとのキャプテン・クックの航海につながるのである。


ウィリアム・ダンピアも1688年の航海でニコバル諸島で置き去りにされたことがある。置き去りにされた7人と供にボートを作り、ハリケーンに苦しみながらスマトラ島にたどり着いた。この後イギリスに戻り『新世界就航記』(1697年)を出版したのである。


サモア島の発見と自然……

サモア諸島を発見したのは、オランダ人のロッツヘヴェーン・ヤコブである。1722年のことでありイースター島も彼の発見である。最初はナビゲーターズ諸島と呼ばれ、16の島からなる風化が進んでいる火山島である。 島は玄武岩からなり、土壌は少なく耕作には不向きである。また高い山があり、サバイイ島のマウンガ山は1800メートル以上もある地図を拡大表示 

政治的にはイギリス、ドイツ、アメリカの複雑な支配を受けた。西サモアは1962年に独立したが、東サモアはアメリカの統治領である。ドイツ統治の時にはココアのプランテーションが主な産業でコプラやココナッツも産する。
このような歴史から、欧米人には人気のある島で、映画「南太平洋」の舞台となり、『宝島』や『ジキル博士とハイ ド氏』『新アラビアンナイト』で有名な作家ロバート・スチーブンソンは、サモア諸島のウポル島が気に入り永住の地と決めた。そして、1894年にこの地で永眠した。



リチャード・オーエン(Sir Richard Owen)1804-1892年
 イギリスの古生物学者で、『ダイナサウリア』という名前を発表した。日本語で恐竜である。比較解剖学の権威となり、後にダーウィンの『種の起源』の考えに対立していく。イギリス自然史博物館のピクチャーライブラリーで、彼が描いた恐竜の化石スケッチなどを見ることも出来ます。オオハシバト切手オオハシバト切手1952年と1967年の切手。


リチャード・オーエンの描いたオオハシバト ●切手になったオオハシバト(西サモア共和国発行)

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