肯定側第一立論

みなさん、こんにちは。ぼくはここに来れると思っていなかったんで、立ててとても幸せです。がんばりたいと思います。よろしくお願いいたします。

それでは、よろしいでしょうか?

我々肯定側は、日本政府は陪審制度を導入するべきであるという仮定の下に論を進めていきたいと思います。

まず論点の一つ目につきまして、現状の日本の社会におきましては、検察官と裁判官が癒着して、容疑者を有罪に追い込むという構造ができあがっております。これについて説明したいと思っております。

まずA、項目Aとして、まず検察官が自白を強要しております。浜田…浜田すみお、花園大学講師によりますと、「これまでの冤罪事件の多くは捜査段階で自白に追い込まれ、公判段階に入ってから否認に転じたものが裁判所に認められず、むしろ捜査段階での自白の任意性、信用性が認定されて有罪判決が下される、そういうパターンをたどってきた。いったん自白したものは後にこれを撤回しても、なかなか信用してもらえない。冤罪を晴らすうえで最大のネックは『自白』にあると言われる所以である。」と、述べています。

それで、項目のBなんですが、また、裁判官が有罪にしようという動きが存在しております。「私は…」、自由と正義の'87年度によりますと、「私は昭和四十二年ごろ東京高裁で勤務してまして、裁判長の方から、『日本の裁判官には有罪判事が実に多い。自白でもなんでもとにかく形式的に有罪証拠が揃っていると、すぐ有罪にしてしまう。名裁判長といわれる人ほどそうだ』、そう言われて、当時私も純情でしたからすっかり驚いてしまいました。」と、述べています。

それで、項目のCの一つ目なんですけれども、よって実際に多くの冤罪が起きています。浜田すみお講師は、「これは恐ろしい数字である。もちろん事件の中身の検討抜きに統計的な数字だけでことを云々することはできない。しかし、この99.8%の中に真の無実の主張がなかったと、はたして言えるかどうか。過去の数々の冤罪事件を知るものにとって、このことを恐れないわけにはいかない。」と、述べています。

で、Cの二つ目なんですけれども、これは氷山の一角にすぎません。作家の渡辺保夫さんは、'92年に、「すなわち、重罪事件の再審無罪件数の周辺に隠れた軽罪事件の誤判がかなり存在するとみてよいであろう。例えば、再審無罪になったいくつかの事件の確定審の判決理由と記録を読み比べると、どうしてこのような証拠を軽々に信用したかと思われるほどの疑問を感ずることがある。そういう判断傾向の周囲には、類似のいくつかの誤判例の存在を推測することは許されるであろう。」と、述べています。

で、項目Dといたしまして、現在、裁判所の人権を守る機能というのは働いておりません。東海大学の吉野教授は'92年に、「したがって、立法や行政からの救済を見放された市民や住民にとって、司法による救済は最後の権利保護の『砦』を意味する。しかしながら、日本の司法は、アメリカの公共訴訟における裁判所の判決ほど被害者の救済に積極的ではなく、消極的判断に終始してきた。」と、述べています。

そして、この冤罪につきまして、論点の二つ目、冤罪の深刻さについて述べたいと思います。

まず一つ目。冤罪というのはとても深刻で、それは犯罪を守ることよりも冤罪を守ることの方が重要であると、結論づけることができるでしょう。大塚一男さん、弁護士の方は'93年に、「人権尊重の旗のひるがえる日本の空の下で、無実であるにもかかわらず、死刑の執行に脅かされ、あるいはその生涯を牢獄に過ごす者がひとりでもいるかぎり、われわれの国土に、基本的人権も、平和な市民生活も究極において保護されているとは言いがたい。犯罪の恐ろしさを超える誤判の恐ろしさを感ぜずにはいられないのである。」と、述べています。

で、二番目なんですけれども、警察が自白を迫ること自体が問題だという風に言えます。ルポライターの佐藤友之さんは'82年に、「いったん犯人として逮捕すると、検察と一体となって、有罪に持ち込もうとする。そのために黙秘権を奪い、弁護人の選任を妨害し、肉体的、精神的拷問を加えて自白させようとする。有罪とする証拠はつくりあげ、無罪を示す証拠があれば隠す。これが冤罪である。」と、述べています。

そこで、我々肯定側は以下の計画を提案したいと思います。

計画の一つ目。日本は刑事裁判に陪審制を導入するべきであります。

二点目。陪審員は裁判の間隔離し、名前は公表しません。

三点目。評決には12人…陪審員12人の合意…全員の合意を必要とし、もし意見が合わないときには解散して新たな陪審員を召集します。

このことによって得られる解決…このことによって問題が解決されるということを我々は論点の三つ目で論じたいと思います。

陪審制導入は冤罪を減らします。

Aの一つ目、項目Aの一つ目。陪審にはでっち上げられた自白は通用しません。新潟大学教授の沢登佳人先生によると、「しかし陪審は決して記録を読まず従って記録に表れた捜査機関の予断に影響されず、自ら見聞きした物証・供述・討論のみの印象から純粋に彼自身の判断を下す。その時、たとえ一点の疑いも、彼の良心に有罪の認定を拒否させるに十分である。」と、述べています。

二点目なんですけども、少なくとも、もし陪審員がミスを犯したとしても、陪審員の方が、裁判官よりもましな判定を下すということを、'91年度に青山学院大学教授の初谷先生が述べております。「陪審制は国民の常識を土台とする。何も陪審員には『専門的』知識が要求されるわけでは決してない。いかなる裁判の目的たる事実でも平凡な常識で判断すべきであるし、また判断し得る。常識は法律以上に、官僚裁判官による裁判以上に、明快にして、かつ妥当な解決を与え得る。仮に妥当でない点がなかには生じたとしても官僚裁判官の独断認定よりはまだよいと思われる。」と、述べています。

そして、三点目なんですが、よって陪審制になれば、検察が自白強要をやめます。評論家の大野達三氏は'92年度に、「制度の作り方にもよるが、陪審裁判の多くは否認事件だから、警察段階での自白などは裁判の段階で否認されればおそらくあまり意味を持たなくなり、現在も日本で横行している(自白裁判)は影をひそめるであろう。警察も代用監獄と自白強制にしがみついている今の捜査方法を改めざるをえなくなり、反対に有罪を立証する物的証拠やしっかりとした(証拠)を集める科学的捜査が発達せざるをえないだろう。」と、述べています。

項目のBといたしまして、裁判官の考え方が変わります。作家の伊佐千尋さんは1989年に、「市民と裁判官が接近し、裁判官は市民のために自分が存在していることを常に強く意識するようになる。陪審制の採用によって、訴訟法や刑罰法規の解釈が常識化し、健全になるといわれているのも、民衆の健全な感覚がおのずから裁判官に浸透して、裁判官の法解釈の態度ないし裁判観をを変えてしまうのです。」と、述べています。

項目のCなんですが、マスコミの態度も変わります。伊佐さんは、「花井弁護士の言ではないが、専門家の予断偏見は恐ろしいが、一般の民衆はそんな牢乎とした予断偏見を持つことはめったにない。もっとも、陪審制になれば、あまりに行きすぎた新聞・テレビの報道は自粛され、姿を消すでしょうけれど。」と、述べています。

で、項目のDなんですが、すべてを比較考慮して冤罪が減るということを、北海道大学教授の渡辺教授が'92年に述べています。「陪審にだって誤判はある。しかし、いろいろな研究調査によると、無実者を処罪する危険のもっとも少ない制度と言えよう。」と、述べています。