須磨の嵐
【解題】 『平家物語・巻第九・敦盛最後』を、分かりやすくまとめたもの。明治中期に軍歌として作られたが、その歌詞を山登万和が箏曲に作曲した。勇ましい戦を想像させる手事と、武士の務めとは言え、わが子と同年輩の高貴な公達敦盛の命を奪うめぐり合わせになってしまった熊谷直実の悲しく辛い心情を描く歌の部分が、対照的に作られている。 【解析】 ○そもそも熊谷直実は、征夷 将軍|源の頼朝公の臣下|に て、関東一の旗頭、智勇兼備の大将と、 そもそも熊谷直実は、征夷大将軍|源の頼朝公の臣下|であって、関東一の旗頭、知勇兼備の大将と、 ○世 にも知られし|勇士 な り。されば|元暦元年の、源平 須磨 の戦ひに、功名 ありし|物語 、 世間にも知られた|勇士である。さて 、元暦元年の|源平の須磨一の谷の戦いで|手柄を立てた|物語は、 ○聞く もなかなか|あはれ なり 。 聞くだけでもなかなか| 哀 れ深いものである。 ○その時 平家の武者 一騎、沖 な る船に| 遅れ じ と、駒を波間に駆け入れて、一町ばかり|進みし を、 その時、平家の武者が一騎、沖にいる船に|乗り遅れまいと、馬を波間に駆け入れて、一町ほど |進んだのを、 ○ |扇をあげて 呼び戻し、互いに|しのぎを削りしが、 熊谷は|扇を掲げてその武者を呼び返し、互いに|激しく争っ たが、 熊谷はその武者を組討で取り押さえ、首を取ろうと兜を押し上げて、 ○ 見れ ば |二八 の|おん顔に、花をよそほふ 薄化粧 、 かね 黒々と|付け|給ふ 。 顔を見たところ、十六歳の|お 顔に、花のように美しい薄化粧を施し、お歯黒を黒々と| | お | |付け|になっていた。 ○「かかる |やさしき|いでたちに| 、君 はいかなる 御方 か、名乗り| 給へ 」と 「このような|上品な |身支度 で|戦に出るとは、あなたはどのような御方ですか、名乗っ|て下さい」と ○ |あり|けれ| ば 、 | 下より|御声 |さはやかに、 熊谷が|言っ| た |ところ、敦盛は、熊谷の腕の下から、お声も| 爽 やかに、 ○「我こそ参議経盛の三男無官の敦盛ぞ、はやはや首を討たれよ」と、西 に|向かひて手を合はす 、 |西方浄土に|向かって手を合わせたので、 ○さすがに|たけき熊谷も、我が子 のことまで思ひやり、落つる涙は止まらず、鎧の袖 を|絞りつつ 、 さすがに|勇猛な熊谷も、我が子小次郎のことまで思い出し、落ちる涙が止まらず、鎧の袖の涙を|絞りながら、 ○是非なく|太刀を振り上げて、許させ給へ とばかりにて、あへなく|首(しるし)を|あげ に けり。 仕方なく|太刀を振り上げて、許してくださいとばかりに 、やむなく|首 を|切ってしまっ た 。 ○無残 や 花の莟(つぼみ) |さへ、須磨の嵐に散り に けり。これ を|菩提 の 種 として、 不憫なことよ、花の莟のような若い命|まで、須磨の嵐に散ってしまっ た 。この笛を|菩提を弔う遺品として、 ○ 亡き後 永く|とぶらはむ、心置きなく 往生を、とげ| 給はれと|言ひ残し 、 敦盛殿の亡き後を |弔お う、心置きなく極楽往生を とげ|て下さいと|言い残して、 ○ 青葉の笛を|取り 添へて、八島 の陣へと 送りし は、 敦盛の持っていた青葉の笛を|いっしょに添えて、八島の平家の陣へと遺骸を送ったのは、 ○ げ に情 ある|もののふの、心のうち ぞ、あはれなる 。 本当に情けを知る| 武士 の、心のうちが!、しみじみと感動させらることだ。 【背景】 『平家物語・巻第九・敦盛最後』の本文を紹介する。 我が子のことまで思ひやり ○熊谷 「 あつぱれ 大将軍や、この人一人|討ち 奉た りと も、負く べき 戦に勝つべき 熊谷は「ああ、立派な大将軍だ、 |討ち取り申し上げたとしても、負けるはずの戦に勝つはずの ○やうもなし。又|討ち 奉ら ず とも、勝つべき 戦に負くること |よも |あら じ 。 こともない。又、討ち取り申し上げなくても、勝つはずの戦に負けることは|まさか|あるまい。 ○ 小次郎が| 薄 手 負いたる をだに、直実は|心ぐるしう|こそ|思ふ に、この殿の父 、 我が子小次郎が|かすり傷を負ったことをさえ、 私 は|心配に | ! |思うのに、この人の父君は、 ┌─────────────―─┐ ○ 討たれぬと聞いて、いかばかり|か|嘆き|給は | んずらん||。 わが子が討たれたと聞いて、どんなに | | | お | ↓ |嘆き|になる|ことだろう |か。 ○あはれ、助け |奉ら |ばや。」と思ひて、… ああ 、助けて|差し上げ|たい。」と思って、…(平家物語) あへなく首を ○「あはれ、弓矢 取る 身 ほど|口惜しかりける|ものはなし。武芸の家に生まれず は 、 「ああ 、弓矢を取る武士の身の上ほど|残念に思われる|ものはない。武芸の家に生まれなかったなら、 ┌────────────────―───────┐ ○何と て|かかる|憂き目 をば見る|べき ↓。情けなうも討ち奉る ものかな 」と どうして|こんな|辛い思いを する|はずがあろう|か。無情に も討ち申し上げたものだなあ」と ○ |かきくどき、袖を顔に押し当てて、さめざめとぞ泣きゐたる。やや あつて、鎧直垂をとつて首を 熊谷は|愚痴を言い、袖を顔に押し当てて、さめざめと 泣いていた。しばらくして、鎧直垂を剥いで首を ○ 包まんとしける に 、 錦の袋に入れたりける笛をぞ腰に|差さ| れ |たる 。 布で包もうとし た ところ、敦盛は錦の布に入れた 笛を 腰に| | お | |差し|になっ|ていた。 ○「あな|いとほし。この 暁 、城の内にて管絃 し給ひつる は、この人々にて|おはし|けり 。 「ああ、気の毒に。この明け方、陣の中 で 管絃の演奏をなさっていたのは、この人々で |いらし|たのか。 ○当時 味方に、東国より上(のぼ)つたる| 勢(せい)、何万騎かある| らめ |ども、 今 わが味方で、東国から上っ た |軍勢 は、何万騎かある|だろう|が 、 ○戦の陣へ笛 持つ 人は|よも あらじ 。上臈 はなほも|やさしかりけり。」と て、 戦の陣へ笛を持ってくる人は|まさかあるまい。高貴な方たちはやはり|風流であるなあ。」と言って、 ○これを大将軍 の|見参に入れたりければ 、見る人 |涙を流し|けり 。 これを大将軍義経の|お目に入れた ところ、見る人は|涙を流し|たという事だ。(平家物語) 参考 青葉の笛 青葉の笛は、須磨寺の宝物館に収められている。 ○笛の音に 波もよりくる須磨の秋 与謝蕪村 ○須磨寺や 吹かぬ笛聞く 木の下闇 松尾芭蕉 敦盛と忠度(青葉の笛)明治39年(1906年)『尋常小学唱歌 第四学年 上』 作詞:大和田建樹 作曲:田村虎蔵 1. 一の谷の 軍(いくさ)破れ 討たれし平家の 公達あわれ 暁寒き 須磨の嵐に 聞えしはこれか 青葉の笛 2. 更くる夜半に 門を敲き わが師に託せし 言の葉あわれ 今わの際まで 持ちし箙(えびら)に 残れるは「花や 今宵」の歌 ○さざなみや志賀の都はあれにしをむかしながらの山桜かな(平家物語・巻第七・忠度の都落) (千載集・巻第一・春上・66・読人知らず) ○行き暮れて木(こ)の下陰を宿とせば花や今宵の主ならまし(平家物語・巻第九・忠度の最期) 「青葉の笛」とは、鹿児島県国分市の台明寺の藪から切り出された「青葉の笛竹」で作られた笛の一般名であり、起こりは平安初期にまで遡るという。現在でも「青葉の笛」と称する笛は全国に八本ほどある。 熊谷直実 熊谷直実は、熊谷(現在の埼玉県熊谷市)の館で永治元年(1141)2月15日に生まれた。後に保元・平治の乱で名を馳せた武蔵武士である。一ノ谷の合戦で、平家の館に一番乗りをし、須磨の浦において平敦盛を討ち取ったことなど、平家物語を通して知られている。 熊谷駅北口広場に、「直実挙扇図」渡辺華山の図を元にした、北村西望作の直実像がある。台座には「熊谷の花も実もある武士道のかおり高し須磨の浦風」作者の歌が刻まれている。 建久3年、直実52歳の時に武士を捨てて仏門に入り、名を「蓮生坊」とした。翌、建久4年には京に上り、法然の門下となり、名を「法力房蓮生」として仏道を修める。 建久9年、58歳の時、京都に粟生野に念仏三昧院(後の光明寺)を建立。 元久2年、直実65歳の時に熊谷に戻り、草庵を結ぶ。この地が熊谷寺のもととなった。 「一の谷の合戦」で平敦盛を討った直実は、敦盛を弔うために高野山(現在の和歌山県高野町)に熊谷寺を建てました。人を裏切り、手柄をたてることばかり考えていた自分の人生に怒りを覚え、むなしくなった直実は、仏門に入る決心をし、建久4年(1193)法然上人を訪ねました。 法然上人は、「どんな罪人でも阿弥陀さんを信じ、念仏を申せば必ず極楽往生できることに疑いはありません」と申されたので、直実は出家し、法然上人より「法力房蓮生(ほうりきぼうれんせい)」という名を与えられました。この名は<泥の沼の中でも濁りなく蓮のように清らかに花を咲かせる心を持って生きる>という意味だそうです。 法然に入門してまもなく蓮生は、法然上人が生まれた岡山県久米南町に誕生寺という立派なお寺を創建しました。その後は京都と熊谷の間を行き来し、各地に多くの寺を作り、念仏の功徳を説いてきかせました。そして法然上人から「坂東の阿弥陀仏」と崇められた名僧となりました。 熊谷寺 埼玉県熊谷市の八木橋デパートの北北東にあたる位置にある。開基は蓮生(れんせい)坊(熊谷次郎直実)である。敦盛を討ち取り、世の無常を感じて蓮生法師となった直実は、熊谷に戻り、小さな草庵を結んだ。蓮生庵という。 天正年間、直実の没後350有余年、蓮生坊の往時を慕い幡随意上人がこの地に来て、小さな草庵を、熊谷寺として再建。幕末の大火を経て、現在の熊谷寺は、蓮生法師700年忌を期して、明治40年4月に上棟された。寺の大きな木々の中に、蓮生坊直実の墓、銅像、本堂、宝物館がある。(浄土宗 蓮生山 熊谷寺http://www.yukokuji.com/) 平家物語 巻の九 「敦盛最期」岩波文庫本 軍破れければ、熊谷次郎直実「平家の君達、助け舟に乗らんと、汀の方へぞ落ち給ふらん。あはれよからう大将軍に組まばや」とて、磯の方へ歩まする処、練貫(ねりぬき)に鶴縫うたる直垂に、萌黄(もえぎ)の匂(にほひ)の鎧着て、鍬形(くはがた)打つたる甲の緒をしめ、金(こがね)作りの太刀を帯(は)き、切斑(きりう)の矢負い、繁藤(しげどう)の弓持ちて、連銭葦毛(れんせんあしげ)なる馬に、黄覆輪(きんぷくりん)の鞍置て乗りたる武者一騎、沖なる船に眼を懸けて、海へさと打入れ、五六段ばかり泳がせたるを、熊谷、「あれは大将軍とこそ見参らせ候へ。正なうも敵に後ろを見せさせ給うものかな。返させ給へ」と、扇を揚げて招きければ、招かれて取つて返す。 汀に打上らんとする所に、押し並べて、むずと組んでどうと落ち、取て押へて首を掻かんとて、甲を押しあふむけて見れば、年十六、七ばかりなるが、薄化粧してかねぐろなり。我子の小次郎が齢にて、容顔誠に美麗なりければ、いづくに刀を立べしとも覚えず。 「そもそもいかなる人にてましまし候ふぞ。名乗らせ給へ。助け参らせん」と申せば、「汝は誰そ」と問ひ給ふ。「物そのもので候はねども、武蔵国の住人、熊谷直実」と名乗り申す。「さては汝に逢ふては名乗るまじいぞ。汝がためには好い敵(かたき)ぞ。名乗らずとも首を取つて人に問へ。見知らうずるぞ」とぞ宣ひける。「あつぱれ大将軍や。この人一人討ち奉りたりとも、負くべき軍に勝べき様もなし。又討ちたてまつらずとも、勝つべき軍に負くる事もよも有らじ。小次郎が薄手負たるをだに直実は心苦しう思うに、此殿の父、討たれぬと聞いて、いかばかりか嘆き給はんずらん。あはれ助け奉らばや」と思ひて、 後をきと見ければ、土肥、梶原五十騎ばかりで続いたり。 熊谷涙を押て申しけるは、「助け参らせんと存じ候へども、味方の軍兵雲霞(うんか)のごとく候ふ。よも逃れさせ給はじ。人手にかけ参らせんより、同じくは、直実が手にかけ参らせて、後の御孝養(おんけうやう)をこそ仕り候はめ」と申ければ、「唯とうとう首を取れ」と宣ひける。 熊谷あまりにいとほしくて、いづくに刀を立つべしとも覚えず、目もくれ心も消え果てて、前後不覚におぼえけれども、さしてもあるべき事ならねば、泣く泣く首をぞ掻いてける。 「あはれ弓取る身ほど口惜しかりける者はなし。武芸の家に生まれずは、何とてかかる憂目をば見るべき。情なうも討ち奉るものかな」とかきくどき、袖を顔に押当てて、さめざめとぞ泣きゐたる。やや久しうあつて、さてもあるべきならねば、鎧直垂を取って、首を包まんとしけるに、錦の袋に入れたる笛をぞ腰に差されたる。 「あないとほし、この暁、城の内にて、管弦し給ひつるは、この人々にておはしけり。当時味方に東国の勢何万騎かあらめども、軍の陣へ笛持つ人はよも有らじ。上臈(じやうらう)はなほも優しかりけり」とて、九郎御曹司の見参に入れたりければ、これを見る人涙を流さずということなし。 後に聞けば、修理太夫経盛の子息とて、生年十七にぞなられける。それよりしてこそ、熊谷が発心の思いはすすみけれ。件の笛は祖父忠盛、笛の上手にて、鳥羽院より給はられたりけるとぞ聞えし。経盛相伝せられたりしを敦盛器量たるによって、持たれたりけるとかや。名をばさ枝とぞ申しける。狂言綺語の理と云いながら、遂に讃仏乗の因となるこそあはれなれ。 |
作詞:不詳 作曲:山登万和(嘉永6〜明治34)江戸の人。 【語注】 征夷将軍 源頼朝が征夷大将軍になったのは、鎌倉幕府開府と同時で、1192(建久3)年。この場に語られている一の谷の合戦はその8年前の1184年(元暦元年)である。 一町 約 109メートル。 二八 十六。「十三七つ」は二十歳。「四六時中」、「二六時中」は一日中の意。敦盛は実際は十七歳だった。 参議 太政官に置かれた令外の官で、中納言に次ぐ重職。宰相とも言う。 経盛 平経盛。平忠盛の子、平清盛の弟。 我が子のことまで思ひやり 熊谷直実の息子小次郎も十六歳ほどだった。⇒背景 あへなく首を⇒背景 八島の陣 平家は一の谷で敗れた後、瀬戸内海を渡って、四国の八島(屋島)に陣を張った。屋島は、那須与一の扇の的の逸話の舞台になった所である。 助け奉らばや 熊谷は敦盛を助けたいと思ったが、振り返ると味方の軍勢が近付いて来るので、人手にかけるより自分が手にかけて、亡き後を弔おうと、泣く泣く首を切った。その後、熊谷は出家して蓮生と名乗った。この話は、能や歌舞伎にも取り入れられている。 |