狭筵(さむしろ)
【解題】 松風・村雨姉妹と在原行平の説話を背景にし、恋人に去られてあてどなく待つ女心を唄った歌詞。説話の具体的な内容が特に引用されている訳ではなく、在原行平が登場するわけでもない。また、主人公を二人の姉妹として心情を描いている訳でもない。一人の女の思いのたけを自然の風物に寄せて詠嘆した、純粋な抒情詩として鑑賞すべきであろう。 【解析】 ○去年(こぞ)の秋、散りし 梢(こずゑ)は| |もみぢして、 去年 の秋、散った紅葉の梢 は、今年も|色づい て、もう一年が過ぎてしまったのか。 ○今、はた| |峰に| |有 明の、月 日ばかりを数へても、 |有り | 今|また、去年と同じように|峰に|消え残って|いる | |有 明の|月を眺めて、 |月 日ばかりを数えても、 ○ 待つ| |に甲斐 なき| 「 松 」とし聞かば」の歌とは違って、 |待つ| | 甲斐もなく|あの人は帰らず、 ○ | 村時雨 、時しも分かず |降るからに、 私を訪れるものは| 村時雨だけ、 |その村時雨が 、時折気まぐれに|降るにつけ、あの人の足音かと、何度心を時めかせて、 ┌───────────────┐ ○ |色も褪(あ)せつつ |いつしかに 、わが袖のみ |や| 変はる | らん||。 |がっかりしたことか 。 ↓ 紅葉の|色が褪せるのを見ながら、いつの間にか|私の袖だけが、 |涙で色褪せて|いくのだろう|か。 ○ |なく音(ね)を|添へて|きりぎりす 、夜半の枕 に|告げ わたる、 私の|泣く声に | |鳴く音 を|添えて|きりぎりすが|夜半の枕元に|聞こえて来る。 ○嵐の 末の| |鐘の声、結ばぬ | 夢 も| 覚め|やらで、 嵐もいつか止んだ後の、静かな空に響く|鐘の音。途切れた| 夢 からも|目覚め|きれず、 |その夢に見たあの人も| 諦め|きれず、 ○ただ |しのば |るる| |昔なりけり 。 ただただ、思い出さ|れる|のは|昔のことばかり。 【背景】 松風・村雨伝説 古今集・源氏物語・撰集抄などに見える中納言在原行平の歌や事跡をもとに伝説が生まれたらしく、具体的な作品とし ては謡曲『汐汲』や『松風』に語られている。 在原行平(818年(弘仁9年)-893年(寛平5年))は平城天皇の皇子阿保親王の次男。在原業平の兄。840年、若くして仁明天皇の蔵人に任じられ、また、文徳天皇の代に855年因幡国守を拝任するなど、比較的順調な官吏生活を送り、後に清和天皇の蔵人頭、民部卿なども勤め、887年に70歳、中納言、正三位で致仕(退官)した。しかし、古今集によれば、文徳天皇の時、三年ほど須磨に蟄居し、配所の月を眺めた時期があった。その間、つれづれを慰めるために、美しい海女の姉妹に松風・村雨の名を与えて寵愛した。行平が許されて都に帰る時、姉妹を哀れに思い、浜辺の磯馴れ松の枝に、立烏帽子・狩衣を形見に残したが、二人は別離を嘆き悲しんだ。行平と姉妹が亡き人となった後、その松が姉妹の墓標として祀られたという。現在、須磨の町の海岸近くに、「松風・村雨堂」が残っている。 峰に…まつ 「峰に…まつ」は、行平が因幡国司に任官するため都を旅立った時に詠んだ、次の歌の意味を生かすことを意図したものだろう。 ○ |立ち別れ | | | 因 幡|の 山の峰に生(お)ふる| | |往な ば| 今、私は都の皆さんと| 別れて|任地の| | 因 幡|に行くが| |そこに|行ってしまったならば、 | | 因 幡|の国の山の峰に生えている | ○ |まつ とし|聞か| ば|今 |帰り |来 | む | 松 の木を眺め 、 あなたが私の帰りを| 待 っていると!|聞い|たならば、すぐにでも|帰って|来る|つもりですよ。 (古今集・巻八・離別・365・在原行平) |
作詞:不詳 作曲:在原匂当 【語注】 さむしろ むしろ。「さ」は接頭語。 峰に…待つ⇒背景 村時雨 松風・村雨姉妹の 村雨の名の意を込める。 きりぎりす 現代のこおろぎのこと。 |