花氷――4――

 温かい湯が背中にかけられ、次いで濡れた手拭いが背中を擦っていく。
 闇雲に力を入れて擦るでもなく、力加減を計れずに撫でるでもなく、涼浬の手は心地良い力加減で陸の背中を擦る。
「上手いね」
 極度に緊張しているようだった涼浬の様子から、もしかすると背中の皮が剥けてしまうくらい、力任せに擦られるのではと危ぶんでいた陸は、想いもかけない気持ち良さに、素直に賞賛の言葉を口にした。
「あ…ありがとうございます。その…任務から返ってきた兄の背中を、よく流していましたから」
 誉められて気を良くした涼浬の頬が、湯気の所為だけでない熱で、ほんのり桜色に染まった。
「兄って…奈涸のことか?」
「はい。あの頃の兄は村1番の忍で、沢山の任務に明け暮れておりました。私にできるのは、疲れて返ってきた兄の背中を流すことくらいしかできませんでしたから」
「ふ〜ん。仲良かったんだ」
 兄弟のいない陸には、なんだか羨ましいような話しである。こんな可愛い妹に、背中を流してもらえるなら、任務の疲れも吹っ飛ぶだろうなと、少し平静を取り戻した頭で、そんなことをつらつらと考えてみた。
「村を…里を抜け、私を置いて行った兄のことを、ずっと恨んでおりました。けれど、陸様のおかけで私は、もう一度兄を兄と呼ぶことができました。ありがとうございます」
 先日の戦いのことを思い出し、涼浬は今一度陸に謝辞を述べた。何度繰り返しても、言い足りないと想いながらも。
「いや、俺はなにもしてないよ。けど、仲直りできて良かった。兄弟は仲良いのが1番だからね」
「はい」
 背中を流す振りをしながら、後ろからブスリとやられるのではないかと、密かに危惧していたような事はなく。涼浬の手は丹念に陸の背中を洗っていく。
 もちろん、涼浬に背中を流してもらっているという事実は、陸の心を盛大に騒がせたままではあるが。
「流しますね、陸様」
「ん」
 洗い終えた背中に、手桶に汲んだ湯をゆっくりと流す。鍛えられた筋肉の間を、水滴が流れとなって落ちていく。
「綺麗な…背中ですね」
「え?…」
 奥まった位置にある湯殿にも、午後の陽射しは充分差し込んでいた。背中に散った水滴が、その陽射しを浴びてキラキラと輝いている。
「引き締まっているのに、硬いだけではなくて。綺麗…ですね」
 どこかうっとりとしたような涼浬の声に、陸はもぞもぞと落ち着かない気持ちを感じていた。
 幼い頃からの鍛錬、そして今や鬼と戦わざるを得ない日常に、体の彼方此方には大小問わず傷が散乱している。背中にだって裂傷の一つや二つついているはずだ。その背中を綺麗だと言われても、そう素直に喜べる物ではない。
「そ…そうかな?あはは、ありがとう。それじゃ、俺はもう一度温まったら上がるよ。背中、ありがとう」
 水の流れを辿るように涼浬の手が背中に触れてきたのを感じた陸は、早口で捲し立てるとそそくさと湯舟の中に戻ってしまった。
「あっ…」
 指先に、湯で温められた陸の熱い肌を感じたかと思う間もなく、それは涼浬の目の前から逃げてしまった。
 拒絶をしている訳ではなそさそうだが、湯舟の中で背中を向けている陸の姿に、気付かれないように小さく吐息を漏らすと、失礼しますとだけ告げて、そっと湯殿を後にした。
「蛇の生殺しだって…これじゃあ」
 漸く一人になった空間で、陸は誰にでもなく呟いた。
 大人しくしていたはずの股間の物は、涼浬の手が背中に触れた瞬間から、硬度を持ち始めていたのだ。あのまま涼浬の手が背中を触っていたらと思うと、陸は盛大な溜め息をついた。
「生殺しどころじゃないかも、これじゃあ」
 人様の家の中で、それも湯殿で手淫を行うことに激しい罪悪感を感じながらも、激情に見を投じる訳にもいかない陸は、諦めたように板張りの床に腰を下ろし、落ち着かない息子に手を伸ばした。



 気まずい思いをしながらも、なんとか股間の昂ぶりを収めた陸が、もとの茶の間に戻って見ると、そこには何時の間にか夕餉の仕度が整えられていた。
 つと空を仰げば、傾き掛けてはいるがまだ日は高い。
 一体何事がこの如月骨董品店で行われようとしているのか。陸にはその謎の一端すら見つけられない。
「温まれましたか?」
 食器を膳に並べていた涼浬が、何時もの着物に戻って微笑んでいる。表情の乏しい涼浬にしては、という注釈付きの微笑だが。
「ん?…あ、ああ。ありがと。で、どうしたんだこれ?夕餉にはまだ時間が早くないか?」
 これから誰か客でもくる予定があるのか。膳の数も、料理の数も、随分と多い。
「あー、もしかして里の人とかが来る予定なのか?それなら俺はこの辺で返るよ」
 元々長居をするつもりではなかったのだ、客が来るのというのであれば、それを理由に帰る事ができる。
 告白の返事を聞かされないまま、これ以上一緒にいるのは陸にしてみればかなり苦痛だ。押し倒したい思いをこれ以上堪え切れない。
「いえ、今日は誰も尋ねてくる予定はありません。陸様に召し上がっていただこうと思って用意したのですが、お気に召しませんでしたか?」
「あ…いや。そういうわけじゃ…」
 お気に召さないかと聞かれたら、召さないとは言い辛い。しかも、自分の為に涼浬が用意してくれた料理だ、お気に召すかどうかなど聞くまでもないだろう。
「どう言う訳なのでしょうか?」
 言いよどんだ陸の言葉が不安を誘ったのか、恥ずかしげに頬を染めていた涼浬の表情が、一瞬にして哀しげに曇った。
「その…、今から夕飯をご馳走になってたら遅くなっちゃうし。女の子の一人暮しの家に、遅くまでいるのはあんまり良くないだろ?」
 ごく当たり前の一般論。普通は長々と居座る男に対して、女の方が口にする言葉なのだが。
「あの…私が構わないと申し上げても、夕餉を召し上がっていっては頂けませんか?」
 陸の言うことが分からない筈はないのだが、何をそんなに一生懸命になっているのか。帰ると言い出した陸を止めようと、必死に言葉を探している。
 こうなると、帰ると言い張るのはかなり難しい。好きな女に夕餉を食べて帰ってくれと言われて、断れるほど陸も場数を踏んでいる訳もない。
 誘う涼浬の言葉に思わず頬が緩みそうになる。
「それじゃあ、ご馳走になるよ。食べないで帰ったら、折角の料理がもったいないしね」
 食べると言う陸の言葉に、ホッとしたように涼浬の表情が和む。
 何だか新婚さんのようだと、一人恥ずかしい事を考えて、ハッと別の考えが頭を掠めた。
 もしかして、料理の中に毒でも仕込んであるのでは、と。
「まさかな…」
 まだ料理があるのか、台所に立った涼浬の後姿を確かめて、陸はマジマジと目の前に並ぶそれを凝視した。
 見た目にはどこも変わったところは見当たらない。小皿を一つ取って、臭いを嗅いでみたが、やはり異変は感じられない。
「まあ、そんなにお腹が空いていたのですか?」
 料理の匂いを嗅いでいた処を目撃した涼浬は、待ち切れないのだと勘違いして、珍しくクスクスと笑っている。そんな涼浬を前にして、異物が入ってないか確かめていたとは、陸でなくても言えないだろう。
「え?あっ!いや…その…そう、あんまり美味しそうだったから、ついね」
 できた事といえば、勘違いを肯定する事くらいだ。
「まだ夕餉には早過ぎて申し訳ないと思っていたのですが、そう言ってもらえると作った甲斐があります。いっぱい召し上がってくださいね」
「ありがとう。けど、悪いな。俺一人の為にこんなに作らせちゃって」
 二人分にしては多過ぎる料理をみつめてそう言えば、困ったように涼浬が微笑んだ。
「陸様に召し上がってもらうのだと思うと、嬉しくてつい作りすぎてしまいました」
 はにかんだ微笑を浮かべて、そんな嬉しい事を言われれば、毒を仕込まれているのではないか等という疑惑は、あっさりと陸の頭の中から払拭されてしまった。それどころか、もしかして脈有りなのでは、と期待してしまう。
「それじゃ、早速頂きます」
「はい。どうぞ」
 嬉しそうな涼浬の表情に釣られて、陸は食欲旺盛に箸を進めた。昼を遥かに過ぎている時間とは言え、夕餉まではまだたっぷり時間が有る。いくら食べ盛りの男子でも、食べれる量にはやはり限界が有るものだ。
「もう、1口だって食えねぇ…」
 食後にお茶を煎れて来ると立った涼浬の姿が見えなくなると、パンパンに膨らんだ腹を擦りながら、陸は弱々しく呟いた。
 一皿平らげると、次はこれをご賞味下さい、と。次から次へと料理を勧められ、基本的にお人好しな陸は、断り切れず全ての料理を腹に覚める羽目になってしまった。
 もちろんこれだけの料理を食べ尽くせたのは、嬉しそうに微笑む涼浬が隣にいて、給仕をしてくれていたというのが、1番大きい原因だろう。
「はふう〜っ…」
 超弩級の溜め息を漏らすと、行儀が悪いと先刻承知の上で、ゴロリと畳の上に寝転がった。腹が重過ぎて、座っていること自体が苦痛だったのだ。
「これじゃあ…うぷっ……直ぐには、帰れ…うぐっ…ないなぁ…」
 延々と食事を続けていた為に、太陽は赤く染まって傾き掛けている。
 食事を終えたら帰るつもりでいたのに、またしても直ぐには帰れそうにない。この膨らんだ腹が消化を始めて、竜泉寺まで帰れるくらいになるには、どんなに短く見積もっても半刻はかかるだろう。
 それまでここで寝転がっていては、絶対帰るチャンスを逃してしまう。それはもうほぼ核心に近い物だった。
「大丈夫ですか?陸様」
 香り良い湯気の立つお茶を入れて戻ってきた涼浬は、苦しそうに腹を擦って寝転がる陸を見つけて、慌てて傍へ駆け寄ってきた。
「申し訳ありませんでした。私…調子に乗って……」
「いや、涼浬の所為じゃないって。あーでも、涼浬の所為かな、あんまり美味すぎて食い過ぎちゃった訳だし」
 涼浬の可愛い顔が哀しげに曇るのを見たくない陸は、なんとか気分を盛りたてようと、下手な御世辞を口にした。料理が美味かったのは事実だが。
「そ…そんな…」
 しかし、世事に疎い涼浬には、下手な陸のお世辞にも、ポッと頬を赤らめていたりするから、案外お似合いなのかもしれない。
「あの…お腹がこなれるまで、ゆっくり休んでいてください。あっ!あの……宜しければ、今日はお泊まりになって…その……陸様がご迷惑でなければですけれど…」






つづく

     


なんとか4作目まで辿りつきました。はい。
次あたりでなんとか涼浬ちゃんの回を終わらせたいなぁなんて思ってますが、どうなる事やら。
しかし、前話同様涼浬ちゃんのバカっぷりが目立ちますねぇ(笑)
彼女は彼女なりに一生懸命なんですが、どうも一人で空回りしている感じがします。
さて次回、泊まっていく様に薦められた主は、上手く竜泉寺に帰れるのでしょうか?(笑)


2002.05.24