ホーキング博士ホームページより

「ALSを患って、体験してきたこと」
(Disability concerns より)


 ホーキング博士はご存知のように、世界的な理論物理学者であると同時に、世界で最も有名なALS患者さんの1人です。
 ホーキング博士は1942年1月8日生まれで、現在56才です。発病が20才前と考えられていますから、ALSとの付き合いは約35年以上にもなります。
 ここで紹介する「ALSを患って、体験してきたこと」では、比較的淡々と想いをつづられてはいますが、そこには言葉に表わせない経験や想いもあったのではないかと思われます。にもかかわらず、生きることに対する信頼のようなものも確かに持ち続けられてこられたこともわかります。
 また、博士は発語や書字によるコミュニケーションがとれないことから、コンピュータを利用して、意思伝達を行なっておられます。それについての記述も紹介いたします。
 今回、ホーキング博士の承諾のもと、この文章を翻訳編集し、ここに掲載しました。

 なお、ホーキング博士の公式ホームページのアドレスは、
 http://www.damtp.cam.ac.uk/user/hawking/ です。


「ALSを患って、体験してきたこと」

 私にはよく尋ねられる質問があります。
「ALSという病気と、どのように付き合っているのですか。」
答えは簡単です。
「出来るだけ普通に生活し、今の私の状況をくよくよせず、あまり多くはありませんが、この病気によって出来なかったことを後悔しないようにつとめています。」

 私は運動ニューロン疾患を患っていると知ったとき、とてもショックを受けました。
たしかに子供の頃から、あまり運動は得意ではありませんでした。球技も苦手でしたし、私の書いた文字は学校の先生を悩ませました。おそらくそのようなことで、スポーツや身体を動かすということに興味をもつことはありませんでした。しかし、17才の年にオックスフォード大学に入学し、少し変わりました。大学ではボート部に席をおいたのです。有名なケンブリッジ大学とのボートレースには出場できませんでしたが、大学対抗戦には出場できるくらいにはなりました。

 大学3年の年に、自分がさらに不器用になったような気がして、なんでもないところで数回転倒することがありました。翌年、ケンブリッジ大学に移ってから父親からも言われ、私はホームドクターのところに連れて行かれました。医師は私を専門医のところに紹介し、私は21才の誕生日の少し後に検査入院をすることになりました。入院は2週間かかり、様々な検査を受けました。腕から筋生検のための筋肉組織をとったり、電極をとりつけたり、脊髄造影剤を注射し、ベッドを傾けながら、脊髄の様子を診るといったレントゲン撮影も行いました。
 全ての検査が終わっても、医師らは病名を言ってくれませんでした。そして多発性硬化症ではないこと、よくある病気ではないことだけを告げてくれました。そんなことから、医師らがこの病気の進行を防止することは出来ず、治療する手だてもないと考えていると思いました。ビタミン剤を処方してはくれましたが、あまり期待していないこともわかりました。それ以上詳しいことを私も聞こうともしなかったのですが、それはあまりにも良くないものだろうと分かりすぎていたからです。

 自分自身が治る見込みのない病気を患い、2、3年で死んでしまうかもしれないという現実感は確かにショックでした。どんなふうに自分はなっていくのだろう、なぜ、このように自分の人生は終わってしまうのだろう。
 しかし、入院していたそんな頃、白血病で今にも絶命しかかっている一人の少年に出会いました。彼は私のベッドの向かい側にいました。その姿はあまりにも苦しいものでした。自分より厳しい状況の人間がそこにいる、少なくとも、自分のこの状況はそれほどたいした事ではないのではと思えるようになったのです。
 私はいつも気持ちが落ち込んだ時、その少年のことを思い出します。

 自分に起こっていることを知らずに、そしてどんなにこの病気が速く進行するものかということを知らずにいたとき、私はただ、だらだらと生活をしていました。医師は私に大学に戻り、取り組み始めていた一般相対性理論や宇宙論の研究を行うことをすすめました。しかし、あまり研究はすすまず、それは数学理論を十分習得していなかったということもあり、それに、とにかく博士課程をとることができるほど長く生きることはないと思っていたからでした。自分では悲劇の主人公と思っていました。ワーグナーの曲もよく聴くようになりました。記事によると、私は当時酒に溺れていたという噂もありましたが、それは誇張です。その記事に書かれていた出来事は1度だけのことですが、それを他の文章のなかにも書かれつづけたのです。おもしろい話だからでしょう。何度も書かれている記事なので真実と思われたのです。

 当時、私は希望をなくしていました。診断がなされるまでの人生には、とくに生きがいなどありませんでした。特に価値あることなどないと思えたのです。
 しかし、退院して少したった頃、ある夢をみました。それは今にも処刑されようとしている夢でした。その時、もし執行猶予があるのなら、しておきたいことが沢山あることに気がついたのです。また、他の人々を救うために自分の命を犠牲にする夢も幾度かみました。結局、どうせ死ぬのなら素晴らしい事をおこなって死ぬほうがよいのではないかと思うようになりました。
 しかし死ぬことはありませんでした。実際、私の未来は雲行きが怪しかったわけですが、驚くべきことに健康な頃よりも、生きることを楽しめるようになったのです。研究の方面でも成果をみせ始めるようになりました。また、ジェーン ワイルドという女性とも婚約をすることになりました。彼女とはこの病気の診断がついたちょうどその頃出会いました。この婚約は私の人生を変えました。何のために生きるのかを教えてくれたのです。と同時に結婚するとなったら仕事を見つけなければならないと思いました。そこで、ケンブリッジのゴニヴィルとキース大学の特別研究員に申し込みをしました。ありがたいことに、その資格を得ることができ、数ヶ月後に結婚しました。

 大学ではすぐに仕事を与えられました。幸運なことに私は理論物理学の仕事を選ぶことができました。この仕事は私の身体状況が最もハンディキャップにならない、数少ない研究分野のひとつでした。さらに幸運なことに、私の学術分野における評価は高まってきていました。しかし、身体状況は悪化してきていたので、人々は私に講義をする必要がなく、研究に専念が出来る状況を提供し続けてくれるようになりました。

 住む家についても、私たちは幸運でした。結婚した当時、ジェーンはまだロンドンのウェストフィールド大学の在学生であったため、毎日ロンドンまでいかなければなりませんでした。私は私で遠くまで歩くことが出来なかったものですから、私たちは住む家を市内に見つける必要がありました。私は大学にその面で援助してもらえないか聞いてみましたが、当時の大学担当者からは「特別研究員に住宅の面倒をみるのは大学の役目ではない」と言われました。しかたがないので、商店街に建設中のアパートのひとつを借りる手続きをしました。(数年後、それら建設中のアパートは大学が所有するものだということがわかりましたが、そのことを私は教えてもらえませんでした。)しかし、私たちがアメリカからの新婚旅行から帰ってきても、そのアパートは完成していませんでした。そこで大学側では譲歩して、卒業生のためのホステルを貸してくれることになりました。それでも大学側は「この部屋は普通一泊12シリングと25ペンスなのだけど、あなたたちは2人なので、一日25シリングもらいます。」と言いました。私たちは結局3日間だけここを利用し、新たに、大学から90m離れたところにある小さな家を見つけました。この家は他の大学が所有するもので、その大学の特別研究員に貸し出されていたものでしたが、その研究員は郊外に家を買い、その借家は利用されていませんでした。彼は私たちに借用期間の残り3ヵ月間家を貸してくれたのです。そして、この3ヵ月の間に同じ通りにある別の空き家を見つけました。その近所に住む人がドーサットにいる家の所有者に「若者たちが家を探しているこの時に、空き家で置いておくのは問題でですよ。」と言ってくれたことで、所有者は家を私たちに貸してくれることになったのです。
 そこに住んで2、3年後にはこの家を購入し、自分たちに合ったように改造したいという希望がわいてきました。そこで大学に私の抵当権について尋ねました。大学側の調査の結果、お金を借りることは出来ませんでした。私たちは結局、住宅金融共済からの抵当と、両親からもお金を借りて家を改造しました。
 さらに4年間そこで暮らしましたが、次第に階段を利用することが難しくなってきました。その時には大学も私を以前よりも評価してくれ、大学の担当者も代わっていました。大学側は大学の所有する、段差のない家を提供してくれました。それは私にとても適しており、広い部屋とドアのある家でした。電動車椅子で大学に通うことのできるところにありました。庭もついていたことから、3人の子供たちも喜び、管理も大学側がしてくれました。

 1974年まではなんとか食事をすることや、ベッドでの寝起きも自分ですることが出来ていました。妻は自分1人で私を助けてくれ、子供たちも育ててくれました。しかし、だんだんいろいろな事が大変になってきたので、大学の研究生の1人を同居させることにしました。宿泊料は無料で、私も指導をするという条件で、研究生らは私のベッドでの寝起きを手伝ってくれるようになりました。1980年からは公的な援助サービスに代え、私的な看護婦も雇うようになりました。この看護婦は朝夕に1〜2時間来てくれました。このやり方で1985年までやってきましたが、その年に肺炎を患ってしまいました。そして気管切開術を受けなければならなくなったのです。それ以降、24時間体制で看護を受けることが必要となり、いくつかの基金からの援助で可能となりました。

 気管切開術を受ける前、私の声は次第に聞き取りにくくなってきており、2、3人の私をよく知る人だけしか私の言っている言葉がわかりませんでした。でも、少なくとも言葉を話すことは出来ていました。科学論文は秘書に口述して書いてもらっていましたし、講義は“通訳者”が私の言葉をわかりやすく繰り返すということで出来ていました。しかし、気管切開術を受け、話すことが出来なくなったのです。そのときには誰かが示す文字盤の文字を、眉毛の動きで伝え、1文字ずつ言葉のつづりを表わすといった方法でしか意思疎通することは出来ませんでした。このような方法でのコミュニケーションや科学論文の記述はとても大変なことでした。

 しかし、カリフォルニアに住む、Walt Woltosz氏というコンピュータ専門家が私のこの状況を知り、Equalizerというコンピュータプログラムを書いて送ってくれたのです。これによって、私は手元のスイッチを操作し、コンピュータ画面上のメニューを選択するという方法で、文章をつくることができるようになりました。この装置は1つのスイッチで、頭や眼球の動きででも操作出来るようになっていました。話したい時にはスピーチシンセサイザーにデータを送ることで、話すことも出来ました。最初はデスクトップ型のコンピュータでこのプログラムを利用していましたが、Cambridge Adaptive Communication社のDavid Mason氏が車椅子に取り付けたポータブル型のコンピュータとスピーチシンセサイザーでも利用できるようにしてくれました。これによって、以前よりもよりコミュニケーションがしやすくなりました。今では1分間に15単語を表示することができます。書いた文章は発声させることもできるし、ディスクに保存しておくこともできます。印刷することもできるし、後で呼び出すこともできるし、センテンス毎に発話させることもできます。この装置によって本も書きましたし、多くの科学論文も書きました。また、学術的な発表や普段の会話にも利用しています。そして、その言葉は誰にでも理解されています。それはSpeech Plus社でつくられたスピーチシンセサイザーの多大な恩恵によるものと考えています。人の声はとても大切なものです。もし、あなたの言葉に不自由さがあれば、他人はあなたを知的に障害のある人として扱いやすいものです。このシンセサイザーは私が知っているものの中で最も良いものです。イントネーションは変えられるし、ダレーク(1964年BBCのSF番組に登場するロボット)のような変な発音でもありません。問題はアメリカ式のアクセントだということだけです。しかし、開発会社はイギリス式のものも開発中とのことでした。

 私は成人期の全てにおいて、事実、運動ニューロン疾患と共に暮らしてきました。でも、だからといって、そのことは私に愛する家族を持ち、仕事の上でも成功するということの妨げにはなりませんでした。このことに関して、妻や子供たち、多くの人々や組織からの援助に感謝しなければなりません。私は他の同じ病気の方々より進行がかなり遅かったことで、幸運だったこともあるのでしょう。
 でも、同時に、このことは誰でも望みを失う必要はないということを表わしているのではないでしょうか。


私のコンピュータ

 私は、意思伝達装置、つまりコンピュータでコミュニケーションをしています。コンピュータはIBM社のコンピュータと互換性があるものを利用しています。これを車椅子の後ろに入れています。これは車椅子の坐面の下にあるバッテリーを外部電源としています。コンピュータの内部バッテリーは1時間しかもたないためです。車椅子のアームレストから支えを出して、そこに私のほうに向けてコンピュータのディスプレイを取り付けています。この意思伝達装置の設定はCambridge Adaptive Communication社のDavid Mason氏が私のために、考えて下さったものです。

 この意思伝達装置のプログラムソフトは「EqualizerTM」と呼ばれるもので、米国のWords Plus社によってつくられたものです。カーソルが画面の上半分を走査し、私は手にもったスイッチを押して任意の位置で止めることが出来ます。こうやって文章に使う単語を選んでいきます。選んだ単語は画面の下半分に表示されます。文章が出来れば、それをスピーチシンセサイザーに送ることが出来ます。私の場合はSpeech Plus社のスピーチシンセサイザーを利用しています。これは私が知りうる範囲で最高のものです。が、発音がスカンジナビア式であったり、アメリカ式であったり、スコットランド式であったり様々です。

 書いた文章を保存しておくことも出来ます。論文はTEXというプログラムソフトを利用して書いています。数式を言葉として記述し、それをプログラムソフトが記号としての数式に変換してくれます。そして、それを適切な形にして紙面上に印刷してくれます。同様にして講義を行うことも出来ます。事前に講義内容を書き、ディスクに保存しておくのです。そして講義の時間に、文章毎にスピーチシンセサイザーに送るのです。これでうまくいきます。ですから、講義内容も前もって練っておくことが出来るのです。

最近、改良したこと

電話を利用することも出来ます。携帯式の電話でも、壁取り付け式の電話でも可能です。これもEqualizerTMを使って書いた文章を、電話に接続したボイスシンセサイザーに送ることで可能となりました。また、電話を切ったり、かけたりすることも、この方法で出来るのです。

最も最近の追加機能は電子メールの利用です。これは、電子メールシステムを設定した別のコンピュータに接続したことで可能となりました。届いた電子メールの一覧表示や内容を読むこと、返事を書くことなどが簡単な1つの操作で可能となっています。自動化された電子掲示板を利用することで、非常に多くの論文や紙面情報を私に見せるという仕事から、助手は解放されたのです。

(翻訳編集責任:田原 邦明)

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