〜研究作文其の三十〜

最悪の玉砕戦場〜独立混成第五五旅団(菅)戦記〜


太平洋戦争において、南方戦線を中心に日本軍はたくさんあります。太平洋の孤島はもとより、沖縄・硫黄島・フィリピンとあちこちで玉砕部隊が発生しました。
今回紹介する「独立混成第五五旅団(菅兵団)」も、そんな玉砕部隊の一つですが、この旅団の苦闘は他の戦線でも見られない悲惨なものでした。
特に守備についたホロ島は、現地ゲリラの跳梁する最悪の地域で、上陸してきた米軍よりゲリラとの戦闘、そして飢えと病気によって、生き残りの兵員が次々に倒れて いった、言に耐えない状況となっています。
今まで、この旅団について出版された本は見たことがありませんし、戦史叢書にも3ページ弱の記載しかありません。そんな旅団ですが、乏しい資料よりどうなったかを簡単に解説してみたいと思います。




1.フィリピン南部戦線への配備

「独立混成第五五旅団」は、1944年7月23日にマニラ郊外の小学校で編成を完結しました。この旅団の編成のゴタゴタについては、兄弟旅団である「独立混成第五四旅団戦記」を読んでいただくことにして、取りあえず五五旅団の編成を簡単に紹介します。


旅団司令部 旅団長:鈴木鉄三少将 166名
独立歩兵第363大隊 大隊長:笠井満少佐 994名
独立歩兵第364大隊 大隊長:坪川少佐 
独立歩兵第365大隊 大隊長:天明籐吉少佐 995名
旅団砲兵隊 隊長:清水薫大尉 362名
旅団工兵隊 隊長:須藤進吾中尉 184名
旅団通信隊 隊長:山品一郎中尉 178名

このうち、独立歩兵第364大隊は、レイテ決戦時に方面軍命令で抽出されて投入され、2個大隊基幹の兵力となります。この五五旅団が投入された守備位置、それがホロ島です。

ホロ島。今でもたまに海外ニュースで報道のある島です。もっともこの島の報道で、ロクな話を聞いたことがありません。現在でもフィリピン情勢でたまにでるイスラムゲリラの話、それがこの島のモロ族です。
フィリピンは東南アジアでほぼ唯一のキリスト教国ですが、モロ族は昔からのイスラム教で、しかも戦闘することを一番の誇りとしている好戦的な部族です。現に日本人が誘拐されて身代金が要求されるニュースが報じられることがありますが、これにもよくモロ族が関わっていることがあります。
太平洋戦争各戦域の中で、もっとも治安状態の悪かった戦場、それがホロ島なのです。


とりあえず、編成が完結した独混五五旅団ですが、その装備は「劣悪」という言葉を、絵に書いたような状態です。主力の2個歩兵大隊は、4個中隊と銃砲隊、作業隊から編成され、迫撃砲を1門、重機関銃を8丁、押収品が中心の軽機関銃を24丁、擲弾筒を12門装備していたそうです(かなり怪しい数字ですが)。
砲兵隊は四一式山砲を3門しか装備しておらず、しかもホロ島に上陸した後すぐの空襲で砲備品を喪失しており、已む無く、ホロ港に沈んでいた輸送船から、野砲1門を引き上げて装備していたほどでした。

このような状態の五五旅団が配備されたホロ島は、南フィリピンにある東西約50キロ、南北約20キロの瓢箪のような形をした島です。島の中心となるホロ市は、島の北西にあり、その東には小さいながらも飛行場が設定されていました。
ホロ島自身はちょっと大きめの島に過ぎないのですが、この島はフィリピン群島とボルネオ島の間に位置し、西はスル海、東はセレベス海と、フィリピン南部の海上交通の要所となる位置に存在していました。ミンダナオ島方面から南シナ海に抜けるためには、ホロ島の横を通る必要があり、その位置関係が戦略的価値として存在していたと言えます。そのため、臨時編成ながら1個旅団が配備され、アメリカ軍も上陸することになったのです。


ホロ島の守備隊は独立混成第五五旅団ですが、他にも幾つかの部隊がいました。五五旅団が到着するまで2個大隊が同地を守備していたのですが、この部隊はボルネオ島に守備位置が変わり、入れ替わるようにして転進し、三五軍の無線隊(1個分隊)や、憲兵隊、第四航空軍の航測小隊、海軍陸戦隊(約300名)、海軍の施設部隊や基地隊(約200名)等が展開していました。
元々、交通の要所であったため、航空基地も設定し、海上挺身部隊も配備する予定ではあったらしいのですが、その準備だけ実施され、結局それらの戦力となる部隊は、ホロ島にはやってきませんでした。




2.米軍の上陸と旅団の壊滅

独立混成第五五旅団がホロ島に上陸したのは、1944年10月14日の夕刻です。その一週間後にはレイテに連合軍が上陸し、上部組織の第三五軍は、レイテ決戦のためレイテ島オルモックに前進し、五五旅団はポツンと南部フィリピンの孤島に孤立することになりました。
ただ、その間にも頻繁に空襲を受けて、また、モロ族による被害が多発していました。歩哨や伝令等が襲われるようになり、また討伐隊を出しても、逆に山中で奇襲を受けて、多大な被害を出す状況です。元々、生まれながらのゲリラ戦民族であるモロ族に対して、付け焼刃的な討伐はほとんど効果を上げませんでした。

米軍が上陸してきたのは、1945年4月9日です。艦砲射撃実施後、米第41師団歩兵第163連隊戦闘団を中心とした上陸軍は、ホロ島での唯一最大の戦略拠点である、ホロ市と飛行場に対して攻撃重点を指向しました。
旅団としても、守るべきところはホロ市周辺しかないことは分かっており、主力の8個中隊のうち、7個をホロ市周辺に、残り1個中隊をホロ市南東のダホ山に置いて、旅団本部を形成されていました。

米軍の上陸してきた正面に位置していたのは、独立歩兵第365大隊で、夕刻までに2個中隊(第二、第三中隊)が玉砕し、ホロ市と飛行場は米軍の手に陥ちました。
天明大隊は旅団命令で、ホロ市南西にあるツマンタンガス山に後退し、ここで部隊の再編成を実施しますが、携行兵器以外のほとんどの装備をホロ市の守備位置に残置したため、たちまちのうちに物資不足に陥りました。

もう一つの独立歩兵第363大隊は、ホロ市南西ツマンタンガス山を中心に、ホロ市を管制する位置に守備陣地を作っていましたが、4月17日以降米軍の攻撃を受け、5月10日までにツマンタンガス山中腹まで圧迫されることになります。

ダホ山に展開していたのは、365大隊の1個中隊と、旅団司令部、それに海軍部隊ですが、4月15日に米軍の攻撃を受けて壊滅し、ダホ山を放棄します。三々五々、ツマンタンガス山へ撤退しますが、この時点で海軍部隊は指揮系統が壊滅し、組織的活動がほとんど不可能になったしまったようです。


5月上旬頃から食料が欠乏し始め、ツマンタンガス山に終結した旅団主力は、敵軍牽制と糧秣・装備の奪取のために切り込みを開始します。
米軍はホロ市周辺の主要区域を制圧した後は、山麓の制圧をせずに守備を固めたので、旅団は山を降りて、旧守備位置や米軍の外周等に対して切り込みを実施しました。ただし、雨季が到来したこと、そして補給物資がほとんど欠乏状態であったため、旅団は傷病者が急造し、みるみる戦力を落としていきました。

この時期の戦記を私は目を通しましたが、ひじょうに悲惨な戦記で、詳細を書くのが憚られるほどです。フィリピンの日本軍戦記は食料と衛生材料の不足から来る悲惨な戦記ばかりですが、この戦場はその中でもかなり悲惨な部類に入るかと思います。


上陸した米軍は、6月頃に歩兵第368連隊に交代し、モロ族とともに日本軍の本格的討伐を開始しました。山腹に対する空襲と、迫撃砲による砲撃戦をしばらく実施し、五五旅団側も切り込み隊を出して応酬します。

ほぼ、旅団としての戦闘力を喪失した7月下旬、旅団主力は島の東側にあるシロマン山地区に転進することになりました。理由としては米軍の討伐が本格化したこと、ツマンタンガス地区の食料が欠乏したためです。
米軍上陸当初、約6000名を数えた(資料より)、ホロ島守備部隊ですが、この時期には約1000名にまで生存者が減っていました。旅団は集団での転進は米軍に察知され困難となると考え、大きく二つに分かれて転進することにしました。転進途中で島を南北に横断する国道があり、ここには米軍分哨が点在しているため、小部隊に分かれて転進するほうが安全なためです。
転進開始直後、旧守備陣地が米軍の攻撃に遭い、旅団主力は間一髪での回避に成功しました。ただし、移動直後からモロ族に捕捉され、あちこちで奇襲を受けて、大きな損害を出すことになります。
特に大きな損害は、旅団司令部の移動グループが国道横断中に米軍に捕捉され、旅団長以下、多数の戦死者を出しました。この段階で、ほぼ旅団の組織的活動は不可能となりました。

島の東部シロマン山に集結した兵力は、およそ350名〜500名程度と推測されます。だいたい8月上旬頃より集結していたようですが、ここでも食料難とモロ族のゲリラ戦で次々と犠牲者が出ていました。

8月下旬に日本降伏の知らせと投降勧告の結果、ぽつぽつと投降者が山を降りてきました。戦史叢書によると生存者は135名。旅団戦力の96%が戦死しました。投降時も米軍が日本兵の四方を自動小銃で警戒し、囲むように移動していました。モロ族の攻撃に備えてのことです。
戦後も遺骨収集団が満足に入ることの出来ない島となっています。



後書き
とりあえず、五五旅団を書いてみましたが、本当に資料の少ない旅団でした。ほとんど生存者がいない上に、ろくに知られていない海没旅団のため、他資料に掲載されている例もほとんどありませんでした。フィリピン戦での旅団級以上の部隊としては、レイテの各兵団に匹敵する損害を出している部隊なのですが・・・。
「丸別冊」の戦記を読んでいたのですが、とても悲惨な戦記です。フィリピンの敗残部隊というのは、どれも悲惨なのですが、一頭群を抜いているように思えました。終戦時、単独での投降者が少なかったというのが、この島がどのような島だったかを表しているかと思います(単独行動だと、モロ族に襲われて、すぐに犠牲となるため)。
次の旅団戦記は、ビルマか、南東方面でもしようかな?と思っていますが、ちょっと資料収集が必要なので、時間かかるかも知れませんね。戦史叢書高いですし(笑)

主要参考文献〜以下の文献に特に謝意を表します〜
  • 「丸別冊」大いなる戦場(太平洋戦争証言シリーズ11)/潮書房/1989
  • 「戦史叢書 捷号陸軍作戦2」/朝雲新聞社/1972


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