Formula One History

カムバックした5人のチャンピオン

(2001.9.26)

2001年9月、ハッキネンが1年間の休養を発表しました。過去、1シーズン以上ブランクを置いてカムバックしたチャンピオンの成績はどうだったでしょうか。ケガで休養した者、一度引退した者、走れるのに休養した者、アメリカに移った者などさまざまでした。5人中、3人が再び王座に就いています。なぜ休養したか、なぜ再びやる気を出したか、結果はどうだったか、背景をさぐってみました。

 

ファンジオ

大ケガで休養、復帰後に4年連続王座

ファン・マヌエル・ファンジオ(アルゼンチン)は、1948年からヨーロッパのレース活動を開始し、51年にチャンピオンになりました。ところが翌52年を重傷事故で棒に振ります。

この年、開幕戦スイスGP(5/22)にマセラーティのマシンが間に合わず欠場。6月7日、北アイルランドのレースに出場したファンジオは、翌日のモンツァF2戦に出場する予定でした。ところがミラノへの飛行機が悪天候で飛ばず、ファンジオは夜を徹して陸路を走ります。レース直前に間に合ったファンジオは、休む間もなくマセラーティの新車に乗ります。疲労のファンジオは2周目に大事故をおこし、コースに叩きつけられます。数日間意識不明でした。首の脊椎を痛め、当初は再起不能とまで言われました。

53年、復帰したファンジオは、最初の3レースをリタイヤしますが、フランスGPで優勝争いを演じ、復活を印象づけます。そして最終戦イタリアGPで優勝しました。

ファンジオは54年から4年連続王座につきます。ファンジオにとって、52年の事故はその後のレース哲学「いかに楽して勝つか」を形作ることになりました。54〜55年メルセデス、56年フェラーリ、57年マセラーティと、常に速いマシンを求めてチームを渡り歩きます。

 

 

 

 

 

ラウダ

1度目の引退、復帰後に3度目王座

ニキ・ラウダ(オーストリア)は、1971年にデビュー、74年にエンツォに認められてフェラーリに入ります。そして75年にチャンピオンになります。76年、選手権をリードして順風満帆だったラウダは、ドイツGP(旧ニュルブルクリング)の事故で瀕死の重傷、大火傷を負います。ラウダも再起不能と言われました。しかし、77年に2度目のチャンピオンになり、不死鳥と言われました。

エンツォと喧嘩別れした78年、ブラバムに移籍しますが、79年、信頼性のなさから9戦連続リタイヤを喫します。年間4点に終わり、新鋭ピケに押されたこともあり、2戦を残して突然引退を宣言します。「同じ場所をグルグル回ることが、どれだけの意味があるか」というセリフを残し。

その後2年間、ラウダ航空を経営し、F1から遠ざかっていましたが、82年、ロン・デニスから強い誘いを受けて復帰します。マクラーレンは、ジョン・バーナード設計、カーボンファイバーモノコックの革新的なマシン、MP4を出していました。ラウダは3戦目に早くも優勝します。

84年、TAGポルシェを得たマクラーレンは最強になり、年間12勝を上げます。プロストとの戦いを制したラウダは、3度目の王座に就きました。

 

 

 

ジョーンズ

引退後、母国GP初開催で復帰

アラン・ジョーンズ(オーストラリア)は、1975年にデビューし、77年シャドウで初優勝しました。78年からウィリアムズに乗り、ウィングカーが進化した79年後半戦に4勝、そして80年にチャンピオンになります。英AUTOCOURSE誌の年間ランキングでは79年から3年連続1位になるほど評価が高いドライバーでした。ウィリアムズにとって、以後のドライバーの基準となりました。

81年、2勝を上げ選手権3位となりますが、突如引退します。背景にはチームメイトのロイテマンとの確執もありました。ロイテマンはチームオーダーを無視して勝ち、ジョーンズは口をきかなくなっていました。

ジョーンズは83年にアロウズで1戦のみ参戦。85年終盤からローラで復帰し、86年はフルシーズンを戦います。しかし、すでに輝きは失っていました。ジョーンズが走ったのは、85年から地元オーストラリアGPが始まったからでした。

 

 

 

プロスト

休養の翌年4度目王座

アラン・プロスト(フランス)は、1980年にマクラーレンでデビュー、1985,86,89年に3度チャンピオンになりました。1991年、フェラーリで1勝もできなかったプロストは、1992年の1年間を休養します。

これは、生粋のマルボロ・ドライバーだったプロストが、キャメルがスポンサードするウィリアムズ・ルノーに乗るためのクッション期間でした。また、1983年にルノーとケンカ別れしていたことがあり、ルノーに対し謹慎期間を表したともとれます。

 

1年待ったプロストは、1993年、圧倒的強さで4度目のチャンピオンになります。ただし、ルノーの念願だったモナコで勝てませんでした。

1993年ポルトガルGPで、セナのウィリアムズ・ルノー入りが発表されそうになると、プロストは引退を宣言します。セナの発表後では遅いからです。また、アクティブサスなどのハイテクが禁止され、危険を察知したのかもしれません。翌年セナはウィリアムズ・ルノーで事故死しました。

 

 

 

マンセル

CART王座、復帰後1勝

ナイジェル・マンセル(イギリス)は、1980年にロータスでデビューし、85年にウィリアムズ・ホンダで初優勝しました。86,87年にはチャンピオン争いを演じ、敗れます。88年にマシンが戦闘力を失うと、一度引退を宣言し、2戦欠場します。翌89年、フェラーリ入りします。

90年、チームメイトのプロストにフェラーリでの主導権を奪われ、2度目の引退宣言をします。翌91年ちゃっかりウィリアムズに戻りました。このウィリアムズ・ルノーは抜群の戦闘力を持ち、92年に念願のチャンピオンに就きます。

しかし、プロストがウィリアムズ入りすることを知るや、3度目の引退宣言。今度はアメリカのCARTに行ってしまいます。93年すぐにCARTチャンピオンになりました。

94年、セナ死後、活気を失ったF1に呼び戻され、3たびウィリアムズをドライブ。ところが、ヒルに予選で1勝3敗と往年の力を失っていました。最終戦に勝ち、翌年も乗るかと思いきや、ウィリアムズはマンセルの高年棒とわがままを嫌い、クルサードを選んでしまいます。

95年はマクラーレンと契約しましたが、このチームとソリが合うはずもなく、ついにF1から消えてしまいます。

 

 

ラウダ、プロストの例から、過酷な選手権を離れて休養するのは良いこともしれません。そして、復帰するときは、必ず成功できるチーム、マシンであると確信すること、これも再びやる気を出すための条件と言えます。

 

(参考:F1全史、F1ドライバー大辞典)