ロードランナー日記・
EVERYBODY LOVES YOU
加藤章一はその日、電車の中で早田奈津子を見つけた。
夕刻のラッシュアワーがはじまる少し前の時刻だった。
春休みのせいか、親子連れの姿が目立ち、電車は少々混み合っていた。
大きな買い物袋を下げた女性や、リュックを背負った里帰りらしき親子連れ、ボ
ストンバックを持った若者がいた。いつもの通勤電車と違う非日常の中で、電車は
幾分騒がしかった。
早田奈津子は、一歳にも満たないほどの小さな赤ん坊をぴったりと胸に貼りつけ
るように抱き、シートにちょこんと座っていた。
赤ん坊がいるということは、彼女は結婚したのだろう。
彼女の名はもう、早田奈津子ではないのかもしれない。
声をかけてもよかった。
だが、章一が立っている場所から奈津子のシートまでは2メートルほど離れてい
た。
スーツを着ている自分が気恥ずかしかったのもある。
特に忙しくもなかったので、得意先から直接帰ると連絡して会社を出たのだが。
仕事は予想外に早く片づいてしまった。
スーツも、早めの時間も、自分には不似合いな気がした。おまけに奈津子の子供
はすやすやと眠っている。それを妨げるのもどうかと思った。
いや。何よりも。章一には、声をかける勇気がなかったのだ。
大学を卒業してから10年がたつ。つきあっていた奈津子と別れたのは、卒業して
から3年後。
けっして円満とは言えない別れ方をして、7年が経過していた。
7年という年月は、傷つけあうほどの中傷も水に流せる年月なのだろうか。
声をかけたいと思ったのは自分だけで。
それは奈津子にとっては迷惑この上ない行為なのではないだろうか。
章一は逡巡しながらも、自分の場所を移動することはできなかった。
そのうち次の駅で電車が止まり。たくさんの人が大波のように乗り込んで。章一
は、奈津子とは逆方向に押しやられてしまった。
***
大学の4年生からつきあいはじめて、別れるまでの4年間。
奈津子はいつも不安な顔つきで、頭の中の路地を酔っぱらって歩きまわっている
ような印象だった。
だが当初、その危なっかしさに章一は惹きつけられた。
就職を前にしての不安は、少なからず章一にもあった。だが、それを奈津子のよ
うに身体全体で表すことなんてできなかった。
奈津子は、そんな章一の感性のひとつひとつを、言葉と身体全体で表してくれる
たったひとりの女性だったのである。
奈津子は希望していた商社に内定を取った。
だが、入社してからは、仕事の内容を不安がり、最初の説明と違う部分を指摘し
ては不信感をあらわにした。
それまで短大卒の女性を中心に雇用していた会社は、大卒の女性の能力を期待し
ていたはずなのだが。年下の先輩たちにとっては、奈津子は「扱いづらい後輩」で
しかなかった。
簡単な伝票処理にとまどう奈津子に、大卒なのにできないの? という言葉が露
骨に浴びせられたと、奈津子は言う。
時がたてば。お互いに信頼が築け上げられれば、もっといい関係になれるよ、と
章一は慰めたのだが。
奈津子は、その中傷を受け流すことができずに、まっすぐに受け止めては、自分
の状況を呪った。
たしかに、自分より、奈津子の方が状況が悪かったのかもしれない。
だけど、どこの会社に入ったって、その会社なりの不具合はあるものだと、章一
は思っていた。
「会社って、くだらない人間ばかり。少しくらい仕事ができたって、くだらない
人間ばかりよ。話が通じないし、わたしのことなんて、誰もわからないの」
いつも不安でいっぱいのくせに、他人を頼るすべを奈津子は知らなかった。
「話が通じるのはあなただけ」
そう言いながら、奈津子は章一の肩に腕を回して、唇を合わせてゆく。
もちろん、悪い気などはしない。世界中を敵にまわしている危なげな奈津子が、
自分だけを頼りにしてくれるのは、悪い気分ではなかった。
一方で章一は、会社という空気に馴れようと努めていた。
奈津子が就職した商社とは比べモノにならないほどの小さな代理店ではあった
が。
自分とまったく違う種類の人間を受け入れ、指示されたとおりに仕事をこなすこ
とにエネルギーを傾けた。
とにかく、きちんと仕事ができるようになりたいと思った。給料に見合うだけの
仕事ができるようになりたかった。先輩に連れられて遅くまで飲み歩き、人の経験
を聞いたり、相談したりするすべを覚えた。
なのに。
奈津子はそれを否定した。
「あの人たちよりか、本や映画の中に出てくる人たちの方がよっぽどわかりやす
いわ。映画の中ではどんな悪人にだって哲学があるもの。だけどわたしには、あの
人たちが考えていることが全然わからない。まるで悪意のかたまりのようにさえ見
えるわ」
「何も言わないから憎んでいるとは限らないよ、たぶん奈津子に対して何の感情
もないだけだよ」
そう言ってみるが、奈津子の完璧さがそれを受け入れられない。
そうするうちに彼女は、くだらない社会に迎合できる章一こそくだらない、と言
うようになってきた。
「そんなことに目を瞑りながら、章一が大人になってゆくのを、見てゆくなんて
耐えられない」
だったら、どうしろというのだ。
世の中にはいろんな考え方の人間がいる。そのひとりひとりに、レッテルを貼り
ながら選別してゆくなんて、そっちの方がよっぽどくだらない。
第一、それは仕事にはまったく関係のない作業だ。
学生時代から、二人で議論するのが好きで、いろんなことを話し続けてきた。
だけど、もはや議論はお互いを傷つけるための武器でしかなくなってしまった。
それに気づいたから。
章一は奈津子に別れを告げたのだった。
***
電車がゴトゴトと揺れるうちに、奈津子に抱かれて眠っていた子供が泣き出し
た。
混雑した車内で、その泣き声が大きく響いた。
だが、駅に停車すると泣きやむ。そしてまた、電車が動き出すと、その子は、ま
るで引きちぎられるかのように、大きな悲鳴を上げた。
「揺られる」という行為に恐怖を感じる性質なのだろう。
章一の子供は、電車は平気だったが、「下りのエレベーター」が苦手だった。引
力に身を任せてストンと落ちる感覚に怯え、デパートで大泣きしたことか何度もあ
った。
ベビーカーのままエスカレーターに乗せることなんて出来はしない。それで、仕
方なくエレベーターを利用するのだが。その密室での、バツの悪さには夫婦で閉口
したものだった。
もっとも、今は3歳なので、エレベーターくらいで泣くこともないはずだ。
奈津子は子供が泣くたびに、子供の背中をぽんぽんと叩きながらあやし続ける。
ぽんぽんぽん。
奈津子の手がリズム正しく柔らかに、子供を落ち着かせようとしている。
だけども、落ち着いてないのは、当の奈津子の方だ。
身の置き場のないように背中を縮めて、泣きそうな顔をしている。
ぽんぽんぽん。
その手が震えている。
大泣きしている子供を、人々が見つめている。一体どうしたのだろうと。何をそ
んなに泣いているのだろうと。
奈津子にはその視線が耐えられない。
人に迷惑をかけること。
負の自分を背負うこと。
奈津子は、おそらく今でも、そんなことが大嫌いなのだ。
人がどんなにくだらなく見えたって。
くだらない人間にならないことだけが奈津子のプライドなのだ。
***
「みんながみんな、神様が決めた椅子に座っているように見えるわ」
電車の椅子に縮こまっている奈津子を見て、彼女が以前言った言葉を思い出し
た。
二人で食事に行った夜だった。
奈津子の誕生日に、ちょっと奮発したイタリア料理を食べに行った。彼女は魚料
理のコース、章一は肉料理のコースを注文したのに、なぜかふたつの肉料理が運ば
れてきてしまった。
恐縮するウェイターに、もう、これでいい、と奈津子は言った。ウェイターはお
詫びに、と、デザートにジェラートを一品プラスしてくれた。ジェラートの上に
は、彼女が大嫌いなミントの葉がうやうやしく飾られていた。
「何が悪いってわけじゃない。だけども、わたしだけが、神様が決めた椅子に座
ってないような気がするの。だから、どんな些細なことだってうまくゆかない」
それは、ジェラートのことのようでもあったし、会社でうまくゆかない人間関係
のようでもあった。
「小さい頃からそうだった。グループで遊んでいたって、ちっとも楽しくなくっ
て。遊びに没頭してる友だちが不思議だった。本を読んでるのは好きだったけど。
星空を眺めてると、不安になった。想像できないくらい広いところに、ぽつんと置
き去りにされたみたいで。家に帰りたくなるとか、そんなんじゃないの。はじめっ
から、きちんと座れる場所がないような、そんな不安がずっとあって・・・でも、
みんな、きちんと自分の椅子に座っている」
「自分のいるべき場所ではない、なんて不安は誰でもあるよ。自分だけなんて思
うのは、傲慢と言っていいくらいだ」
「多かれ少なかれ、みんな、そうなのかもしれない。でも、少なくとも。章一
は、神様の決めた椅子にちゃんと座っている。わたしにはそう、見えるわ」
反論すべき言葉は、もう何もなかった。
章一はその時まで、神様の決めた椅子なんて考えたこともなかったが、奈津子が
感じているよりも居心地のいい世界にいることは間違いなかった。
月日がたった今でも、奈津子は、神様の決めた場所にはいないのだろうか。
結婚して、子供が産まれて、傍目からは、何かを得ることができた人生のように
見えても。
奈津子は泣き続ける子供の前に、無力であり続けている。
奈津子と別れた後、章一は、エキセントリックな女に魅力を感じたのは、自分が
若かったからだと思うようになっていった。
実際に仕事でつきあっている人間の中には、頭もよく感性豊かではあるけれど、
エキセントリックなところがなく、旺盛に仕事をこなしている女性が何人もいた。
彼女たちを見るにつけ、奈津子は、時代遅れの感性にしがみついている愚かな女
のように思えた。
別れるための理由が欲しかったのかもしれない。
しかし、その理由だけで十分だった。それ以上の未練は章一にはなかった。
***
今、章一と奈津子の距離は3メートル足らずしかない。
それを縮めようとも思わないし、声をかけるのも憚られた。今、声をかけて、ど
うなるというのだろう。
奈津子は助けを求めることなんてできない。プライドをズタズタにされるだけに
違いないのだ。
そんなことを考えていると、泣き声の隙間から、奈津子ではない誰かの声が聞こ
えてきた。
「よしよし、よしよし、電車がこわかったのねえ」
見ると、奈津子の隣りに座っている中年の女性が、赤ん坊の手を握っている。白
髪まじりの上品な女性だ。
彼女が手を握って上下に振ってみると、赤ん坊は少しの間泣きやみ、そしてま
た、声を張り上げて泣きだした。
「あら、おばちゃんもこわかったの? 大丈夫よ、いい子いい子。みんなあなた
が大好きよ」
それでもその女性が赤ん坊の手を振ったりさすったりしていると、その間、少し
だけ、泣き声は小さくなったように思えた。
奈津子は恐縮して頭を下げ、何かしらお礼を言っている。
中年の女性の答える声が、とぎれとぎれに聞こえてきた。
赤ん坊は泣くのが仕事だから、仕方ない。だけど、それで赤ん坊を悪く思うもの
なんていない、そんなことを喋っている。
もちろんその間も、赤ん坊は泣き続けているのだが、章一には電車の雰囲気が少
しだけ和らいだような気がした。
見回してみると、乗客の顔はそれほど不快そうではないように見えた。
ヘッドフォンで音楽を聴いている若い男性は、心配そうにチラチラ見ているし。
奈津子の前に立っている女性も、やりとりを聞きながらうなづき、笑っているよう
だった。遠巻きに見ている男性たちの顔もまた、奈津子親子を気にかけているよう
に思えた。
子供を育てたことのある親は、自分の経験と照らしあわせて、心配するものなの
かもしれない。育ててない者もまた、幼い頃のことを思い出したり、または純粋に
困っている者を気にかけるものなのだろう。
自分も、泣いている子供を見て、自分の子供のことを思いだしたのに。
他人はそうではないと思っていたことを、章一は恥じ入った。
それは自分たちの悪い癖だ。
自分の感性は信じられるくせに、けっして他人に頼ることができない。どんなに
些細なことでも人に負い目を見せることができない。
奈津子だけじゃない。自分もそうだから、そんな単純なことにも気づかなかった
のだ。
みんな、あなたが好きなのよ。
中年の女性が赤ん坊に語りかけたように。自分たちは、けっして敵に囲まれて生
活しているわけではない。
奈津子。君は、だれかに迷惑をかけているんじゃない。
みんなに、気にかけられているんだ。泣き声を弱めたり張り上げたりしている赤
ん坊とともに。みんなに愛されているんだ。
うつむいている君が、人々の視線を受け入れていないだけで。
そこが、神様が決めた自分の椅子なんだ。
章一は、ココロの中で何度も、奈津子にそう語りかけた。
***
章一は、奈津子を盗み見ながら、神様の決めた椅子のことを考えた。
正確に言うと、それは「神様の決めた椅子」という奈津子の言葉を、思い出した
日のことだった。
奈津子と別れて2年後に結婚し、翌年には子供が産まれた。
それをきっかけに、章一は電車の沿線に建て売りの家を買った。
ローンを組むのなら早い方がいいという妻の意見に異論はなかった。長期的な計
画など何もなかった章一は、現実的で決断力のある妻はしっかり者だと思った。
実際に、妻は、奈津子とは違い実生活に長けていたと思う。公園で子供の友人を
作り、いろんな情報を入手し、近隣の手頃な建て売り住宅を見つけてきたのも妻の
方だった。
家が出来上がると、カウンターつきキッチンが夢だったのだと喜び、彼女は床を
ぴかぴかに磨き上げた。子供はとりたてて大病もせずに育ち、成長する者を見つめ
る喜びを、惜しみなく与えてくれた。そんな日常には、何の不満もなかった。
歯車が狂ったのは、世の中の景気が悪くなってからだった。
勤めている小さな代理店の仕事は急激に減り、夏のボーナスは予想の半分にも満
たなかった。それは、家のローンを払うには全く不十分な額だった。
すでに仕事を引退して細々と生活している両親には頼れなかったが。妻が実家か
ら借りてきてくれた。情けなかったが、正直にありがたかった。妻の行動力には感
謝した。
次の冬のボーナスは、それ以上の減額だった。章一は、仕事柄、不景気時の厳し
さをよくわかっていたし、この状況がすぐに好転するとはとても思えなかった。
さすがにこの時ばかりは真剣に考えた。
家を売るしかない。賃貸の生活ならば、ボーナス払いで苦しむこともない。
そう決断して、そのことを妻に伝えたとき、彼女ははじめて章一の前で取り乱し
た。
「どうして。せっかく手に入れた家を、なんで手放さなきゃいけないの? うちの
両親に相談すればきっと何とかしてくれるわ。景気が悪いったって、一時的なこと
じゃない。またきっとよくなるはずよ。それまで何とかがんばってみようよ」
不景気は思った外、長引くはずだと章一は思っていた。仕事をしていれば、どう
しても、そんな世の中の空気に敏感になってゆく。同級生の中には、早々にリスト
ラされた者さえもいた。
ボーナスの金額とか、そういう問題ではない。自分が仕事を続けられるかどう
か。
問題はそんなところまで来ているのだ。だが、妻にはそんな崖っぷちで強風に煽ら
れている自分の状況が、理解できなかったのかもしれない。
それに。もし、出資してくれるのが妻の両親でなくて、自分の両親だったとして
も、自分はやはり申し出を断るだろう。
独立した家庭を持っている者として、そんなことはしたくなかった。何でも自分
の範囲でやっていくのが、相応というものなのだ。
そのことを何度も妻と議論した。
だが、彼女にはそれが理解できない。親なのだから、子供が困っているときに助
けてくれるのは当然のことだと言う。妻は、手厚い愛情の元でそういうふうに育て
られたのかもしれない。
結局彼女は、子供を連れて実家へ帰ってしまった。
「あなたはわたしを守ってくれなかった」という言葉を残して。
すべてを無くして、1DK のアパートを借りた。
日当たりのよい、こぎれいなアパートだった。
章一はそこで、妻や子供のことを考えた。
たしかに、自分が妻や子供を守っていたのかもしれないが。ある意味では、彼女
たちも自分を守ってくれていた。
仕事で疲れて帰ると、あたたかいスープが待っていた。まとわりつく子供は、業
績が伸びずに荒んでいた心を癒してくれた。
たくさんのものを与えてもらったはずなのに。
彼女は、自分が与えている感触を知らなかったのだ。与えてもらう事しか、彼女
の中にはなかったのだ。
今、自分には、与えられるものが何もない。
だが、言い換えればそれは、与え続け、そのために走り続けることから解放され
たことのようにも思えた。
週末には、妻が毛嫌いしていた派手なアクション映画をレンタルしてきた。
最初から激しい爆撃が延々と続く、息をもつかせぬ映画を見ながら。ふっと、ひ
とりで映画に集中している自分というものを意識した。
とめどもなく涙が溢れてきた。
なぜ泣いているのかわからなかった。
失ったものに対する思いの深さもあったのかもしれない。
だが、それとともに、今、自分のいる場所に対する「正しさ」みたいなものを感
じていた。
そのとき、昔、奈津子の言っていた「神様の決めた椅子」という言葉を思い出し
た。
たしかにここは、それほど満ち足りた場所ではないのかもしれない。
だけど、案外「神様の決めた椅子」というのは、そんな些細な場所なのかもしれ
ない。
と、章一は思ったのだ。
***
結局、自分たちは似ている、と、章一は思った。
だれにも頼らずに生きていけると信じていた若い頃の感覚をいつまでも捨てられ
ないでいるのだ。
章一は、妻子と別れた後、父親を心筋梗塞で亡くした。
生殖と死を繰り返す人生。命を得て、命を失う感覚。そういうものがらせん状に
絡み合っている世界に、自分はすでに組み込まれているのだと思った。
まったくそういうものを意識していなかったのに。
そのらせん状の世界の中の、決まり事のような喜びと悲しみが、否応なく自分を
襲ってくる。
それは、生きてゆくかぎり、必ずついてまわるもののはずなのに。
いつのまにか、その場所にいた自分に、不覚にもとまどった。
だから、妻子という存在をなくし、ひとりでビデオを見ていたとき、自分の組み
込まれた人生から逃れられたような気がしたのかもしれないと、思ったのだ。
ちがう。
自分はまだ神様の椅子には座っていない。
そう思う反面。
あのときの、あの感触は、たしかに、神様の椅子という言葉にふさわしいものの
ような気がした。
奈津子はどうだ。
夫となる人に恵まれたとき、子供を産んだとき。
彼女もまた、ここが神様の椅子だと思う感覚は得られたのだろうか。
「たしかに嬉しかったけど。わたしは、そのとき、神様の椅子なんて、思い出し
もしなかったわ」
頑なに、泣きつづける子供を抱きしめている奈津子を見ていると、彼女がそう言
っているような気がした。
これまでの道筋のように、額に寄せられた小さな皺が。きゅっと結ばれた唇が。
そう語っていた。
ここはわたしの場所じゃない。わたしだけが、神様の椅子に座っていない。と。
彼女はまだ、あの頃の頑なな自分にしがみついていて、まわりの柔らかな空気に
触れることさえもできないでいるのだ。
電車の窓の向こうには、桜並木が見えた。
薄桃色にけぶった大気が、風のように通りすぎた。
まだ五分咲きといったところか・・・肌寒いが、そろそろ花見がはじまる季節
だ。
電車の、子供の叫び声を轟かせて、何事もないように桜並木を横切ってゆく。
世界は、変わらない。
季節は、きちんきちんと巡ってゆく。
そして、ぼくたちは、いつまでも、誰にも頼らないで生きていけるほど無敵では
いられないだろう。年老いてゆくほどに、その思いは、もっと大きなものになって
ゆくのだろう。
だが、それはおそらく、ぼくたちが考えているほど、屈辱的なものではないのか
もしれない。
自分の負の部分を認めて晒すことで。
他人の掌は、もっと柔らかく、自分に触れてくるのかもしれない。
みんな、あなたが大好きなのよ・・・
そんな言葉を、ふっと口にできるくらいに軽やかに。
人は、そのすべを知りながら、ぼくたちに触れてくるというのに。
ぼくたちは、まだ、その椅子に腰掛けることを躊躇しているのだ。
***
次の駅に止まった瞬間、ボールが跳ね返るように軽やかに、奈津子は席をたっ
て、乗降口に走った。
隣りの中年婦人にそそくさと頭を下げ、泣き叫ぶ子供を抱きかかえて、降りてゆ
く。
奈津子が降りるべき駅のようには到底思えなかった。
彼女は、この密閉された空間で、負い目を背負った自分を受け入れることができ
ずに、逃げ出してしまったのかもしれない。
その様子を呆然としながらも、反射的に章一は奈津子を追いかけた。
閉まろうとするドアに、両の二の腕を打ち付けながら、章一も何とか電車から飛
び降りる。
改札口に向かい道のりの、5メートルほど先を奈津子が歩いていた。
抱きかかえた子供と、大きなバッグにバランスを崩しながら。それでも少し足早
に歩いている、奈津子。
けっして声をかけようとは思わなかったのに。
彼女を見ていることしかできないと思っていたのに。
話さなければならないことが、たくさんあるように思えた。
彼女を励ましたかったわけではない。
ただ、自分の来た道筋を、すべて話さなければならないような、そんな衝動に駆
られたのだ。
売り払った家。出ていった妻と子供。死んでしまった父親。いつまでも元の水準
に戻すことのできない自分の稼ぎ。
そして、帰るごとにひとりでしんとテレビを見るアパートの、それでも心地よく
暖かいこたつの温度。
スーツを着て会社勤めをしている自分の外見からは見えない、負い目を。
何もかも、奈津子の前に並べたてたかった。
そうだ。もう、若い頃のように無敵ではいられない。
そうして、そんな自分の負の部分を、見せてしまいたい相手が目の前にいる。
そうすることで、自分たちが神様の決めた椅子に座れるのかどうかさえわからな
いが。
心臓の鼓動とともにその衝動が、大きく膨らんで、章一をつき動かしていった。
改札口でキップを渡して、奈津子が左に曲がってゆく。
追いかけて、左に曲がり。
章一は、奈津子の肩に、ぽんと手を置いた。
こがゆき