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句碑寺の構想について

平成4年3月誌

                                                       俳諧浄土寺主管
                                                山 田 咲 花(正覚寺閑栖亮因)


前段省略……当正覚寺裏山一帯は、かつて大和の隆弁僧正遍歴のみぎり、『山城の嵐山に似たるとてその名を伏せる』と言う 「間の山(嵐山)」があり、その「間の山」に歩を進めて詠んだと云う西行法師の、 「吾妻路や間の中山ほどせばみ心の奥のみゆばこそあらめ」と言う歌碑や、その西行の腰掛けたと言う「腰掛石」が遺っています。又、 俳句寺構想の裏には、最も好都合な人として、元貴族院議員書記官長であり、当時、日本に於ける民俗学研究で名高い、彼の民俗学権威者、柳田国男先生が大正7年の八月、正覚寺に他の知識人と共に十余名にて、 十日間滞在し、帰りに遺して行った、当時の有名な一句 「山寺や葱と南瓜の十日間」 がある事でした。又、当時、神奈川県天然記念物調査委員、加山道之助(俳号可山)は、たびたびこの地を訪れて 「薫風や人の創めの石の神」 の一句を遺しています。まずこれらの句碑建立が最初の基となり、そして更に、これについては、平素、私と別懇の宮崎良雄氏が石材を、 そして、石工は相模湖町の前場梅吉、幸吉石材店が、それぞれ寄進し句碑建立の足固めと成りました。然しながら、句碑寺の構想も遠い夢と思っていたのでしたが、それらが、急に俳句熱が全国的に旺盛となるや、 思い掛けなく人脈もありて、結社「暖流」主宰の滝春一先生(元読売新聞俳壇選者)の句碑、 「初蝶やいのち溢れて落ちつかず」又、横浜の「椎の実」主宰の山口十九巣先生の 「観音霊場津久井札所は花六分」句碑等が建立され、次いで、正覚寺裏山には相模湖町俳句会五周年記念として、各会員の句碑建立が成される訳であります。これには 不満の方もあった様ですが、これが、私の俳句寺構想の将来の布石と成りました。所謂地元の俳句寺でもなく、檀信徒優先の俳句寺でも成しと言う、一般社会を受容するという実感を俳句同好の諸氏に与えへたいが 為であったのであります。又、これが何れ将来の「俳句寺、句碑山」が世に出るきっかけをつけたのでありますが、俳句寺構想は未だその日は遠い事でありましょう。しかし、その犠牲に報いんが為にこれらの事は 常に念頭を離れません。敢えて私は犠牲と云わせて貰って自責の謝意を表すものであります。それが一面私の俳句寺構実現への励みと想成っているのであります。ここで俳句寺が何の正覚寺の為になるのかの疑問に 答えて置く必要がありますので、それに触れますが、俳句は禅宗としても全部とは云わずとも一味の禅として珍重していますし、仏教の自浄其意の精神 にも基くものとしてこれを説教し、又、その俳句愛好者は、 宗教信者の如く、世に尽きる物ではない事、然らば、俳句寺をして正覚寺に参拝する人も永久後を絶えないと言う事でありましょう。

   ………後略………

 以上、俳句寺の由来としてご参考願いたいと思っておりますが、何分、俳諧浄土寺主管 (平成20年8月12日、99歳にて没)が、数年前、過去を振り返り、思い出し、感じるままに、ペンを走らせて、書き記した文章との事であります、誤記、乱文にて読みにくい個所もあったと思いますが、ご容赦頂き、 すこしでも 俳句寺由来について垣間見て頂けたら幸いに存じます。

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