著者が9歳から14歳まで(1959年〜64年)在プラハのソビエト学校に通っていたことはこれまでのエッセイの中でも随時触れられてきたところであ
る。そもそも著者がこの一風変わった性格の学校に通っていたのは、著者の父親が当時、プラハにおかれていた国際共産主義運動の情報誌『平和と社会主義の諸
問題』の編集局に日本共産党から派遣されて勤めていたためである。著者が通っていたソビエト学校には、50にものぼる国から同じような立場の子女が集ま
り、いわば一種のコスモポリタン的な様相を呈していた。本書は、このような環境の中で友情を育んだ3名の友人との印象的な交流の思い出と、東欧における社
会主義体制の崩壊という激動の年月を経た三十年後の再会の物語。
性知識について誰よりも詳しかった亡命ギリシア人の娘リッツア(リッツアの夢見た青い空)、チャウシェスク政権の高級幹部の娘で虚言癖がありな
がら皆から愛されたアーニャ(嘘つきアーニャの真っ赤な真実)、クラス一の優等生であるユーゴスラビア出身のヤスミンカ(白い都のヤスミンカ)。彼女達と
のソビエト学校時代の思い出は米原流の記述で楽しい。ときとして政治的要素がかいま見えるとはいえ、同時代を一つの学校で暮らす少女達の混じりけの無い友
情がそこにはある。 なお、「白い都のヤスミンカ」の中で、ボスニア紛争では各勢力とも残虐な行為を行ったにもかかわらずセルビア勢力のみが悪者にされてし まったことに関する言及があるが、これに関連しては、反セルビア勢力の依頼を受けた米国のPR会社が、国際世論をセルビアに不利に誘導するために、セルビ アの悪行の代名詞ともなった「民族浄化」のレッテル貼りを含め、どのような役割を果たしたかを取材した「ドキュメント 戦争広告代理店」もお勧め。 |
梨木香歩の作品は初読。 中学に入ってまもなく登校拒否に陥った主人公"まい"が、一夏を大好きな英国人のお祖母ちゃんの下で暮らし、徐々に自己のあり方をみつめなおしていく物 語。年長の賢者に見守られながら成長してゆく主人公、というある意味児童文学の定番であるが、魔女の家系に連なるというお祖母ちゃんの柔らかくかつ毅然と したキャラクター設定が本書を印象的な作品に仕上げている。自分で決めたことをやり遂げるという自己規律を重視しつつ、「楽」に生きようとすることも肯定 するというお祖母ちゃんの生きる姿勢から、何が好ましい生き方であるかは自ら考え自ら実践していくことが重要、というメッセージがストレートに伝わってく る。"まい"の設定が中学生にしては心持ち幼い印象は受けるが、読後感の良い良質の児童文学作品であると思う。
なお、「西の魔女が死んだ」というのは印象的な良いタイトル。でも、よく考えると「西の魔女」って本来悪役なんだけどね。 |
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非常にリーダビリティの高い作品。上下巻一気に読める。最大の売りである図象学、宗教学絡みの蘊蓄についても、読者の興味をひきそうな結論的な要素だけ
が語られるので、難解さは全くなく、読みの流れが停滞することもない。ただ、そのうらはらではあるが、題材の割に軽い印象の作品となってしまっていること
は否めない。個人的好みとしては、エーコのようにとまではいわないが、もう少し厚めに書き込んでほしいところ。 細かいカットバックを積み重ね、場面場面に小さな盛り上がりを持ってくるプロット展開のスタイルは、ジェフリー・ディーヴァーなどに似ている。ページを めくる手を休めさせない効果はあるのだが、全編、これをやられると少し鼻についてくる。もう少し抑制してもよい。その他、小姑的な文句のつけどころはいろ いろあるのだが(例えば、でてくる暗号がどんどんショボくなる、伏線張りに細工を弄しすぎて興をそいでいる、実在の地名・団体名を使用していることが一種 の限界になっている等)、総体としては、値段分は十分に楽しませてくれる作品であることは間違いない。傑作とまではいえないが、「このミスベスト10」に 入る佳作とはいえるだろう。以前、「王様のブランチ」で、筑摩書房の松田哲夫氏が、本書を「大人のハリーポッター」と評していたが、「ケナ3ホメ7」をう まく衣にくるんでおり、いい得て妙であると感じた。 なお、本書中に引用される蘊蓄的知識の中には、学術面で通説とはいえないものも結構あるので、ここで仕入れた内容を他で引用するときには、別の文献等で裏取りをしておいた方がよい。 【上記と同趣旨の文章をオンライン書店bk1に書評として投稿しています。】 (以下はネタバレ記述ですので反転表示にしてます。未読の方はご注意ください。) 補足的なコメントを若干。
1 荒俣宏の解説からもわかるように、本書の基本プロット中には歴史陰謀論ファンにおなじみの「レンヌ・ル・シャトー」由来の部分が相当程度ある。「レンヌ・ル・シャトー」を知る読者にとっては、本書中に全く言及がないことが非常に不自然な印象を受ける。
3 設定上の基本的な疑問。イエスの血統が重要らしいけどそもそも、2000年前から続いている血統だとすると、同程度の血の濃さを有する人は膨大な数がいるんじゃないだろうか。なぜ、ソフィーは特別なんだろうか? 4 「最後の晩餐」のイエスの隣はマグダラのマリアだという説は、少なくともアカデミズムの世界では認めら れていない。イエスの近くに描かれるひげのない若い青年は最愛の弟子ヨハネであると決まっている。もちろん、表面上、ヨハネであることにして実はマリアを 描いていたのだというのが主張だろうが、宗教美術学者で支持する人はほとんどいないだろう。 5 イエスとマグダラのマリアが結婚していたということの真偽を証明することは不可能であるが、ほとんどの専門家は否定的。 |
著者は英国人のと結婚した英国在住の作家。優れものの2冊のエッセイ、「イギリス人は「理想」がお好き」、「イギリス人は「建前」がお得意」
に続く第三弾。「理想」、「建前」の2冊は、日本人の英国論が英国賛美に傾きがちなのに対し、身の回りの事象を巧みにひきあいにだしながら、主として英国
の社会制度の問題点を論評したものだったが、本書では、「制度」ではなく、英国「人」自体に観察眼を向けている。舅・姑をはじめ身の回りに暮らしている人
達の描写でありながら、普遍的な英国人像として感じさせるところは著者の着眼と描写のうまさだろう。しかし、英国の離婚率が4割だというのには驚いた。ま
た、結婚は嫁入りではなくて婿入り。嫁・姑問題ではなく、婿と(嫁の)両親の関係が大きな問題というのもおもしろい。辛口ではあっても悪口にはならない、
根底に暖かさを感じさせる軽妙な語り口の良さは健在。 なお、著者が狐狩りと捕鯨を同視する趣旨の意見を述べている箇所があるが、私は捕鯨再開支持派(IWCけしからん派)なので、この点についてだけは賛同しかねる。もっともこれは本書自体の評価とは全く関係ないので、念のため。
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5編の連作短編。
全編に登場する「陣内」は、言いたいことを言い、やりたいことをやる、言動の首尾一貫性はなく、辟易させられることが多いが、なぜか惹きつけられてしま
うという人物。物語は鴨居、永瀬、武藤、優子等陣内を取り巻く人物の視点で語られる。5つの物語は独立しながらも相互に緩やかに連環する要素を含んでい
る。帯にあるように短編集のようにみえる長編といってもいいのかもしれない。 将来さらに活躍するであろう作家を掴まえて「旬」などというのは、ある意味失礼なことかもしれないが、現在の伊坂幸太郎にはそういいた くなるだけの勢いと瑞々しさがある。本作は第131回直木賞候補作。今回は「空中ブランコ」(奥田英朗)に譲ったが(第129回の「重力ピエロ」に続いて 二度目の落選)、デビュー以来、秀作連発なので、そう遠くない将来に直木賞受賞は確実だろう。 |
まずは、こんなにうまく物語を構
成できるんだなあと感心。「金持ちの実業家と女性画家」「"神様"を解体しようとする男と記録係としてスカウトされた信者」「愛人とともにその妻を殺害し
ようとする女性精神科医」「リストラされた中年男とうらぶれた犬」「独特のスタイルを持つ泥棒と挫折した大学時代の同級生」の5つの物語が独立して展開さ
れ、細かいエピソードを通じて、最後にそれぞれがきれいにつながってゆく。物語相互の時間進行の関係をぼかすことによる構成の妙が徐々にあきらかになり、
例えていえばジグソーパズルをやっているみたいな心地よさがある。最後の方になってくると残りピースが少なくなってくるので、そうかそうかこの話のあのエ
ピソードは、こちらの話のこのエピソードに対応しているのねといった案配。結果としてできあがってみると、物語中でも言及され、表紙にも使われているエッ
シャーの有名なだまし絵を思わせる構成となっているという凝り方。見事というしかない。
構成の妙だけでなく、一つ一つの物語が短編としても十分読める内容。キャラクター造型がうまく、会話がスタイリッシュで格好いい。最後の締めく くり方は、誰もが予想する予定調和的なものだが、こういう核心部分を妙に照れずにストレート勝負するのが伊坂作品の魅力。読後感がよくて元気が出る。 なお、本書では「オーデュボンの祈り」の主人公を思わせる人物への言及や近作の「チルドレン」の冒頭話「バンク」を想起させる記述を滑 り込ませている。また、本書の主要登場人物の一人は「重力ピエロにも登場してくる。このように作品内のみならず、作品相互間における関連づけを行う傾向は 本書に限らず、著者が好んで行うところである。そういう意味では、伊坂作品は全体として仙台を舞台とした一つのサーガを構成しているといっていいのかもし れない。 |
同名のPS2のゲームをゲームマ
ニアで知られる著者がノベライゼーションした作品。本書は、オリジナルのゲーム(名作との評価が高いらしい)を経験したことのある者とない者で全く評価の
視点が異なってくるのではないかと思うが、私はゲーム未経験者なので、単純に一つのファンタジーアドベンチャー作品として読んだ。物語は、生まれつき頭に
角をを持った少年ICO(イコ)が、古からの掟に従い、贄として霧の城へ送られる。イコは、霧の城で少女ヨルダと出会い、ヨルダを霧の城から助け出すべ
く、敵と戦いながら霧の城の謎を解き明かしていくというもの。
さすがに宮部みゆきだけのことはあり、ストーリーテリングは達者。大部の本を最後まで飽きさせずに読ませる。しかし、イコにしろ、ヨルダにし ろ、敵役の霧の城の主にしろ、主要キャラクターの描写が平板で読んでいて感情移入できるような魅力が感じられないのが大きなマイナス。さらに、ゲームとは 切り離して一つの物語として読んだ場合、なぜ「霧の城」なのか?というのがよくわからなくなってくる。まあ、大前提として「霧の城」という<ゲーム=場の 設定>ありきなのでこのような問い自体が本来無効なのだが、やはりゲームを経験していない者にとっては、このなぜを問いたくなるのである。そういう意味で は、良くも悪くもゲームに縛られている小説である。 なお、途中の章で霧の城の過去の歴史が物語られるにもかかわらず、その後の章でヨルダ自身は依然として完全に過去を思い出せないという 設定になっているが、物語中に提示されている主要な「謎」(この場合、霧の城の過去)について、読者にとっては既に既知となっているにもかかわらず、主要 登場人物が未だ知らないという設定でストーリーが進行していくのはやや違和感がある。この種の物語においては、謎を解き明かしていく過程で常に主要登場人 物と読者の事実認識の程度を同一にしておく方がよいのではないかと思う。 |
肥満、マザコン、注射フェチ、子
供がそのまま大人になったようなトンデモ精神科医伊良部一郎。前作「イン・ザ・プール」に引き続き、本書でも絶好調である。伊良部のもとを訪れる患者(被
害者)達はといえば、被害妄想によりパートナーを信頼できなくなったサーカス団のスター(空中ブランコ)、先端恐怖症で刃物をまともにみることもできない
ヤクザ(はりねずみ)、義父でもある教授のカツラをはぎ取りたい衝動にかられる大学病院勤務医(義父のヅラ)、イップスでまともに送球ができなくなった三
塁手(ホットコーナー)、作品の基本設定が以前に使ったことがあるものではないかとの不安が払拭できない嘔吐症の作家(女性作家)といった面々。
患者達は、診療室を訪れるやいなや、まず問答無用で太いビタミン注射を打たれ、その後何がなんだかわからないままに、治療どころかはたからみて いると遊んでいるとしか思えない伊良部の天真爛漫、はた迷惑な行動に引きずり込まれることになるのだが、伊良部の破天荒な行動に振り回されているうちに、 患者自身が自らに課していた抑圧に気づき、結果として回復していくことになる。読んでいる方も、滅茶苦茶な過程に笑いながら、結果にはなんとなく納得して しまう。そういう意味では、伊良部先生結構名医だ(まちがってもお世話にはなりたくないが)。相棒の無愛想で露出過多、Fカップの肉感的看護婦マユミちゃ んも実にいい味出している。伊良部先生はともかく、マユミちゃんとはお友達になってみたい。 前作の「イン・ザ・プール」では、水泳中毒、持続的勃起、携帯依存症などちょっと癖のある病気が中心だったが、本書ではどちらかといえ ば精神医学の教科書に載っていてもおかしくないような症例が中心。ギャグ的な会話の運びなども前作に比してソフィスティケートされている。しかし、そのこ とにより、物語としての破天荒さが若干薄れ、展開がやや型にはまってきているきらいはある。といっても、あくまでも前作に比べて。通常の感覚でいえば十分 にぶっ飛んでいる。前作共々お勧めできる作品。ただし、笑いやすいタイプの人は、間違っても電車の中で読まないように。 第131回直木賞(平成16年度上期)受賞だが、落選(第127回)した前作とセットでの受賞といってよい。本来、奥田さんおめでとうございますというべきところ、本作については伊良部先生おめでとうといいたくなってしまう。 |
雑誌編集者の沢田康彦が主宰する
メール&ファックス短歌友の会会報誌「猫又」に集まった様々な歌を気鋭の歌人、穂村弘、東直子の両名が沢田も交えた対談形式で行う論評、第二弾(第一弾は
「短歌はプロ訊け!」(本の雑誌社))。穂村の理論に裏打ちされた緻密な読みと相対的により感覚的な東の読みの重なりとズレがおもしろい。二人の評を読み
すすむうちに、一つの歌が持つ世界がどんどん広がっていく驚きと心地よさを味わうことができる。穂村が披瀝する技法についての解説も説得力がある。読んで
いてなるほどと頷かせられる。
「猫又」は、非常に幅広い人達が同人として集まっている。なかには我々が名前を知っている有名人もまじっており、その人のイメージと詠まれた歌を照らし合わせて読むのも本書の楽しさの一つ。例えば、漫画家の吉野朔美。 [( )内はお題] 「傷だらけ蒼い草には力ありお花の蜜に癒されたふり」 (草) 彼女の作品世界と通底するものがそこはかとなく感じられる。前著に比べると登場場面が少ないのがやや残念。もう一人、元「週刊プロレス」編集長のターザン山本。
「我れ思うこの一言なくして我れはなし如月弥生菜の花の道」 業界的には毀誉褒貶ある人だが、この歌からは打たれても叩かれても自らの信じるプロレスの姿を追い求める孤高の人という印象を受ける。最終章では長与千種、尾崎魔弓等特別参加の女子プロレスラーの面々の投稿があるが、これがまたどれもいい味を出している。 一般に広く知られているわけではない同人についても、例えば、穂村がある同人について「なんか歌に素敵さのオーラがありますよね。(中 略)継続して読んでいくと、『素敵である』というイメージが着々とインプットされていく。」とコメントしている箇所があるが、全くその通り。この例に限ら ず同一作者の歌を何首も読んでいるうちに、徐々に詠み人に対するイメージが膨らみ、さらにそのいわば勝手に形作った詠み人のイメージを歌に投影して読んで いる自分に気づく。 とまれ、実作する人も、鑑賞するだけの人も、さらにはこれまで短歌に接したことがない人でも楽しむことができる内容。クラフト・エヴィング商會の瀟洒な装丁に山上たつひこの装画がよくあっている。上述の第一弾「短歌は...」ともあわせ強くお勧めしたい。 【上記と同趣旨の文章をオンライン書店bk1に書評として投稿しています。】 |
若手のギリシア考古学者による、新機軸の古代ギリシア紹介本。 古代ギリシアの初期(前6〜7世紀)からローマ勢力下におかれた後期(前2世紀)までの前後約500年間を対象として、各時代毎に有名・無名の7人の人物 を語り手として設定し、基本文献にとどまらず近時研究が進んできた法廷弁論資料なども用いて、その人物を巡る事件を物語るという構成。読者の理解を助ける ために、各物語の前に概括的な背景説明を置くとともに、後には物語の設定等について解説を置くなど工夫している。古代ギリシアの社会の雰囲気を同時代人の 目線で物語ることにより、より生き生きとした形で読者に訴求していこうという試みは評価できる。物語構成の必要上とはいいつつときとして著者の仮説がやや 大胆にすぎる点や、物語の運びが多少ぎこちない等の点は、著者の意欲を汲んで目をつぶるべきだろう。 なお、副題に「ユートピア神話の打破」とあるが、我が国においては欧州に比して著者が強調するほど古代ギリシアを理想視する風潮はないのではないか。そ の点で副題にはやや違和感がある。また、物語の内容で触れられている古代ギリシア世界の地理的広がりをより実感できるよう、冒頭に付されている地図につい てはエジプト、カルタゴまで含めた広域図があった方がよい。 |
世界一安全な国といわれた時代が
過ぎ去って久しい。連日のように凶悪な犯罪の報道がなされ、社会の安全性について意識せざるを得ない状況に我々は直面している。本書は、このような人々の
治安状況に対する不安とセキュリティ意識の高まりを背景として、都市の監視機能が高まっていくことに対する建築家の立場からの問題提起の書である。 本書には、近年現実に生じているセキュリティに関わる様々な社会的事象が取り上げられている。監視カメラ、セキュリティビジネス、自警団、学校の要塞 化、ホームレスの排除等々。著者がこのような「過剰に」セキュリティを求める社会的状況に明らかに批判的であることは記述の端々からうかがえるのである が、しかし、著者は自らの明確な見解を本書では打ち出さず、あくまでも社会的事例の紹介に重点を置いている。治安状況の悪化が(その程度についてはいろい ろな評価があるにせよ)否定できない中で、どのように批判的視点と解決の方向性を打ち出していけばよいか著者としても躊躇しているようにも思える。これは ある意味良心的な態度であると思う。 おそらく一昔前であれば、建築という観点からは、本書でも触れられている「開かれた」方向性を支持し、「閉じた」方向性を批判するということで済ますこ ともできていたであろう。しかし、開かれた構造の中で、例えば、池田小事件が起こり、また一般住宅を舞台としても様々な殺傷事件が起こっている中で、単純 に「閉じた」構造を批判することでは問題は何も解決しない。また、最近急激に増えている仕切りつきのベンチは、装飾性の隠れ蓑の下に横たわることを防ぐの がその本質的機能であり、端的にいってホームレスを排除するための装置であることを本書は指摘するが、これも同様である。「排除の構造」を批判するのは容 易であるが、実際に身近な公園にホームレスが居住することを望ましいと考える人は多くはないだろう。異質なものの「排除」を社会が容認しているのである。 私個人としても、一般論としてはこのような漠然とした不安感を背景に都市の管理性、排他性が高まっていく状況は好ましいとは思わない。しかし、いざ、身 の回り数mの自分の家、自分の家族を考えた場合に、「安全」を希求する思いは強いし、そのために多少のセキュリティツールが身の回りに整備されていた方が 安心であることは否定できない。結局、「安全・安心の確保」により得られるものとそれを確保するために逆に失うもののバランスをどうとるかということに帰 着するのだが、結論が直ちに出ない、また単純な結論を出すことがそもそも難しい問題である。しかし、少なくとも、このような問題を常に意識しておくことは 重要であり、本書は小著ではあるが、この現在進行形の重要な社会問題について、我々に意識させ、考える契機を与えてくれるという意味において好著である。 【上記と同趣旨の文章をオンライン書店bk1に書評として投稿しています。】 |