感情の障害
「感情」の障害と言うと、自分が注目されていたいとか、自分が中心になっていたいとか、自分が賞賛されていたいとか、恥をかくことを極端に恐れるとか、誰かに見捨てられる不安を過剰に持っているとか、他者に対して恨みや妬みを持つとかいうことを連想するのではないかと思う。しかし、これから検討するのは、こういう"社会的な感情"のことではない。そして、それらが固定化されてその人の"人となり"を決定づけると"性格"に近いものになるし、それが病的になると〔人格障害〕の範疇に入るが、それとも全く異質のものだ。
また、「感情」を顕わにする・「感情」的な人は、"大人気ない"とか"幼稚な人"と呼ばれるし、逆に、「感情」を表に出さない人は、"大人だ"とか"できた人"と呼ばれる。好き嫌いをハッキリ言う人は、怖がられるし、好き嫌いを言わない人は不気味でつかみどころがないと恐れられる。「感情」的に不安定なのは情緒不安定とも言われるし、それが病的になると〔情緒障害〕になる。ここで言う「感情障害」というのは、それでもない。
この〔情緒障害〕というのは、「自閉性障害」児を持つ親にとって、とっても厄介な病態だ。
正常に発達した子どもでも、母子分離不安・特定の物事や人前に出ることを恐がる・兄弟に対して嫉妬するというような一過性の不安状態に陥って、異常な恐怖心を抱いたり・視線をそらしたり・ひきこもったり・癇癪を起こしたり・意地悪をしたり・他害をすることがあるので、「自閉性障害」があることを気づかれずに、それらの〔情緒的〕な原因で起きる問題行動と同じに見られてしまうと、誤まった対応をされてしまう危険性がある。それから、「自閉性障害」児の行動は、不適切な養育や虐待の為に起きる「愛着障害」の症状と勘違いされやすい。遺尿・遺糞・異食・摂食・吃音・自傷・チックなどの異常行動は、「自閉性障害」に合併して持っている症状であることもあれば、養育者に対する不満や情緒的な不安定さが原因になっていることもある。
しかし、健常児の社会的な機能障害というのは、明らかに正常に発達した子どもが・何らかの理由で・社会生活ができなくなってしまうものなので、「自閉性障害」の非・社会性とは全く異質なのだ。なのに、世の中のほとんどの人は「自閉性障害」について無知なので、混同され、誤解を招いている。これは、ゆゆしき問題だ!
ICD−10では、「反応性愛着障害」の症状として、視線をそらす・床にうずくまるなどのひきこもり反応・自分自身や他人に対する攻撃的な反応・過度の恐怖と警戒(「凍りついた用心深さ」)・他児と一緒に遊べない・身体的な発達不全が記述されています。しかし、「自閉性障害」は、以下の5つの特徴によって「反応性愛着障害」と明確に鑑別されることが明記されています。
- 社会的な相互作用と反応性の正常な能力を持っていないこと。
- 養育環境が改善されても、社会的な反応の異常なパターンは改善されないこと。
- コミュニケーションの質的な異常があること。
- 環境の変化によって影響されない、重篤な認知上の欠陥があること。
- 持続的で局限した、反復的で常同的な行動・関心のパターンがあること。
やはり、その成り立ちから説明しないと分からない。
生来の一次的な「感情」というのは、自己が生存するために他者の興味を惹きつけたり、他者に関心を向ける動機になって、自分の存在を社会化する(人とかかわり・かかわられる)ために生物学的にプログラムされているものだそうだ。確かに、新生児は、「快−不快」の感情を、泣いたり・笑ったり・驚いたり・拒否したり・興味を示すという形で表現する。しかも、養育者はそれに対して、空腹やおしめがぬれているというような生理的なサインとして機械的に解釈するだけでなく、人との係わりを歓迎しているというような社会的な意味を付与していく。つまり、「感情」とは、個人的なもののようだけれど、実はとっても社会的なものでもあるのだ。
〈人〉が"群れる動物"なのは、バラバラに成長した者同士が・自由意思で契約を結び合って「集団」を形成するからではない。既に、誕生した瞬間から、社会的な相互作用を持ち・「感情」を「共感」し合うことで、「集団」の成員になり・「文化」を継承していく。例えば、「社会的参照」というのは、「受容」される行動と「嫌悪」される行動を学習することだ。それから、「賞罰」によって、「喜び」と「恐れ」の「感情」を強化するのは、子どもの教育の常套手段だ。また、どういう時に人は「怒り」「悲しむ」か知ることで、自己の行動を統制するようになる。それに、「驚き」と「期待」のない人間関係は、つまらない。しかも、日常生活でそういうセンセーショナルな体験が起きるのは、人生の一大事ともなりかねない非常事態なのであまり起こって欲しくないものだが、他人の噂話やドラマという形で、ちゃっかり擬似体験している。
〈人〉と〈人〉は、「感情」に動機付けられて、接近したり回避したりするし、相手の「感情」を操作することで自己の心象を良くしたり・要求を通したり・繋がりを保とうとする。気の弱い人は、相手の「感情」を逆なですることを非常に恐れるけれど、気の強い人は、相手よりも強い「感情」を示して押し切ってしまう。更に、社会的な「地位」や「価値」を高めようという動機が強い人は、「恥」とか「軽蔑」というような社会的な上下関係を含んだ「感情」を過剰に意識して、人より優位に立とうとする。日本人は特に、知識とか思想で動くことよりも、「感情」的に満足できることを重視する民族なので、尚更、その傾向が強い。
『心理学』の教科書的に言えば、「感情」は単なる内的な"心理的な感じ"や"生理的な変化"にとどまらず、行動に表現されるので、最近では「情動」と言うそうです。そして、「情動」の発達とは、単に感情を抑制できるかどうかということではなく、社会的な文脈の中で適切に表現したり制止できるようになることを言うのだそうです。それによって、人間関係が成立したり崩壊する、重要な要素になるわけです。
それから、「用語」を厳密に使い分けると、以下のようになるとされています。
- 感情:喜怒哀楽の反応と表現(人との係わりにおける自己表現)。
- 気分:行動を起こす欲求の動因となる(動機付けをする)。
- 情操:社会的な価値観や意味付けを含む(興味や意欲を増減する)。
『みるよむ 生涯発達心理学』(塚野州一編著)より
しかし、活動水準が低すぎるか高すぎるかのどちらかになりやすい「発達障害」児は、そういう一次的な感情の表出の次元で、既につまづいている。ほとんど泣かなかったり始終泣いていたりしていたのでは、「泣く」という行動は何かのサインとしての役割を果たしにくい。人に反応する感情表出が少ない、しがみつこうとしないというような、協応してくれない子どもに対して、養育者はやる気をなくしてしまうかもしれない。哺乳力が弱かったりすれば、育児に不安を感じるだろう。かと思えば、ひとたび興奮しだすと、ほとんど抑制がきかないほど過激になり、なかなかやめようとしないので、戸惑ってしまう。
特に、身体的な知覚に障害があったり、自他の区別がついていないというような「広汎な発達障害」がある「自閉性障害」児だと、「快−不快」の知覚そのものが歪んでいて、共通の感情体験を持っていない。従って、共通認識を持つこと自体が阻害されている。全く人と係わりを持とうとしない「孤立型」では、それが顕著になる。しかし、人と係わることのできる「積極奇異型」でも、他者との相互交流を通じて、社会化されたり文化的な価値を学習していくことがないので、"かかわり方"は自分で勝手に決めている。客観的な存在としての自己の、性的特性・役割特性・地位特性を引き受けようとしない。結局、他者と同じ「社会的感情」を持ち、それを言葉を通じてやりとりすることができない。
「自閉性障害」者は、精神分裂病や分裂病質人格障害ではないので、「感情」は平板ではないし、社会化されない個人的な「感情」は豊かに持っている。だから、顔に表情が全く無いわけではない。ただ、その「感情」に互換性がないので、何らかの欲求をかなえるための行動に結びつくどころか、逆に、誤解されたり叱られたりしてしまう。「受容」「嫌悪」「怒り」「恐れ」「喜び」「悲しみ」「驚き」「期待」といった、基礎的な「感情」はちゃんとあるのに、その内容が主観的過ぎて相手に通じなかったり、その「場」の社会的な状況にふさわしくない「感情」を喚起してしまったりして、社会的な意味を持つ表情や振る舞いができないのだ。
また、そういう「感情」の「共感」性に障害がなくても、「注意」に欠陥があれば他者の「感情」に気づかないし、「認知」に歪みがあればその場の状況を把握できなかったり規則や規範を理解できない。注意欠陥多動性障害や学習障害や知的障害にも「社会的な認知」の障害が伴うのは、そういう理由なのだろう。しかし、「自閉性障害」でなければ「社会的な感情」は正常にあるので、情緒障害や反抗挑戦性障害になりやすい。(この観点から見れば、純粋なADHDとPDDに合併しているADHDの違いは、歴然としている。)
「自閉性障害」児に限らず、ほとんどすべての「発達障害」児にソーシャルスキル・トレーニングが必要なのは、そのためだ。まず第一に、顔の表情や身振りや仕草といった非・言語的な感情表現を正しく解釈することを教えなければならない。それから、社会的な文脈によっては、同じ表現でもそれが表わす意味(要するに、その時の相手の気持ち)が同じとは限らないことも、教える必要がある。さらに、人が言語的な表現をするのは、単に自分の感じたことや体験したことや事実を伝えるだけではなく、相手の期待や気持ちに応えたりすることであるとか、人は他者の発言によって何らかの「感情」を喚起するものだということも。
そして、相手との関係が変われば同じ内容でも言い方を変える必要があること。いわゆる、モノの言い方・モノの言いようは、単に社会的な地位や立場によって決まっていることもあれば、相手に応じて変えた方が良い場合もある。それは何故かというと、正にこの「感情」を逆なでしないためなのだ。相手に役職があって、自分より目上だと決まっている人には、「ていねい」な言い方をしなければならないというのは、非常にわかりやすい。でも、自分の方が上だからといって、いきなり「命令」や「指示」をすればいいというものではない。人にモノを頼むには、「依頼」や「質問」という形を取らなければならないこともある。それから、内容しだいでは、自分の意図に反して「自慢」や「批判」をしていると取られてしまうこともある。
まあ、こんなことを"教えて、できるようになる"ならば、誰も苦労はしない。教えても教えてもなかなかできないから、「障害」なのだ。また、逆に、人との「かかわり」が無いのに「社会的な認知」と学習能力に欠陥がなくて、一見、非常に大人びていて・理にかなった行動をとることができる「自閉性障害」児(行動障害のない高機能自閉症児)に至っては、全く介入の余地がない。それどころか、"神童"扱いされてしまうだろう。他者の「感情」を逆なでするような言動を繰り返す場合でも、他者の「感情」に協応した反応ができない場合でも、どっちにせよ、人と社会的に相互に作用し合って仲間関係を作ることができないことに変わりはないのだ。
では、人と居られないことはないのに人と繋がっていない状態というのは、どんなものなのだろうか?
「自閉性障害」者が社会生活ができずにひきこもってしまうのは、元々の社会性のなさに起因するもので、情緒的な欲求不満による反社会的な適応障害ではない。それから、「抑うつ」状態になりやすいのも、孤独感や絶望感が原因なのではなく、生来"自分に備わっていないもの"(人と人との心理的な繋がりの証としての、社会的な相互反応)を強要されるからだ。だから、一見、全く陽気で鬱状態の徴候がないのに、「抑うつ」状態が長く続いていることがあるのだ。
自分の言動によって他者が何らかの「感情」を持つことと、他者の「感情」にかなった言動をするように期待されているのだと分からないことが、自分と他者との結びつきを形成することを妨げ、心理的な距離を拡大してしまうという発達上の重大な障害になるなんて! こんなことが、知覚過敏や接触防衛反応以上に、人との「かかわり障害」を重くするなんて! 「感情」の共感性がないだけでなく、それを求めもしないことが、人と人との距離を遠くする一番の原因になるなんて!
振り返ってみれば、「心の理論」獲得前の体験は、たいていこんなものだった。
- 人に誉められる経験を一度すると、同じパターンで何度も何度も執拗に「誉めてもらおう」として、終いにはうるさがられた。
- 私は"鏡"が恐かった。しかし、「開いている三面鏡を、閉じてくれ!」と頼んだことはあっても、「鏡が恐いから、手を繋いでほしい。」と言ったことはない。
- 夜になると、自分の背後の空間(「闇」)に何かいるように感じて恐かった。でも、だからといって「一緒にトイレについて来てほしい。」と頼んだことはなかった。ただ、「闇」が恐いので、通る箇所の電気を全部つけて歩いた。
- 「正確さ」以外の価値観は全くなかったので、鋭角であるはずの部分が鈍角になっている数字は"間違い"と認識した。その字に読めれば、見る人に判れば良いのだ、とは思わなかった。
- 同級生が先生にいたずらをしようとして、教室のドアに黒板消しをはさんだことを告発しに職員室に駆け込んだのは、チョークの粉が振りかかった服や髪の毛を想像するのが耐え難かったからだった。先生が可哀相だとか、良い子の点数を稼ごうとしたのではなかった。
「心の理論」を獲得した後だって、人に「怒られないように」「嫌われないように」気を使うようになったのではなく、既に「全ての人は、私のことを怒っている」と思って脅えていた。私はキチガイなのだから、「自分一人だけが、他の人と違っている」し、「私の言うことは、解かってもらえない」と確信していた。しかし、その一方で、「自分の考えの論理的な正しさは、いつかきっと証明されるはずだ」とも信じていた。
いや、「一人でいること」が辛いと思ったことはないけれど、「心の理論」を獲得したお陰で、「人といること」はほとんどの場合、確実に外傷になった。そして、それをフラッシュバックという形で何度も何度も追体験して、不安と恐怖を自己増殖していた。つまり、慢性的に負の感情に支配されていたので、「感情障害」になってしまったのだ。ただ、元々、活動水準にムラがあって、ボーッとして全く動かないか興奮して止まらないかのどちらかだったから、それがそのまま「気分」に反映して、「感情障害」の中の「双極性障害(躁鬱病)」になった。躁状態の時には、活動性が亢進して全く「恐れ」を知らず、積極的に人とかかわり、饒舌だった。しかし、鬱状態の時には、罪障感と無価値観に囚われ、立っているのも辛いほどの無気力状態に陥っていた。
私は、十分に人の気持ちを考えていたし、人の真似をして同じように行動していたので、人が恐いなんて思ったことがなかった。むしろ、人は好きだった。しかし、それは、人を研究するのが好きだったのであって、基本的には人との相互作用がなかったなんて、夢にも思わなかった。逆に、人については知り尽くしているとさえ思っていた。
元々、私は全ての人を裏切っていると思っているので、愛着対象者などというカテゴリーに属する人はいないから、それから遺棄される恐怖はない。人がいる場所では、自然に人から離れるようにするので、独りでいることは恐くない。未知の人の方が話しやすいので、初対面の人に対する不安感はない。全て、その逆なのだ。人といなければならないこと・良く知った人との会話、こちらの方が、私には脅威なのだ。感情的に見放されることよりも、生活できなくなること・援助がなくなることを恐れている。人と積極的にかかわれる躁状態の時には、「調子に乗せられて暴走してしまい、呆れられて梯子を外されること」を、周期的にやってくる鬱状態の時期には、「ある日突然、自分の方から関係を切ってしまうこと」を、常に警戒している。
互換性の無い「感情体験」しか持っていないことが、自己自身の存在さえも不安定にするのは、不幸なことかもしれない。けれど、相互に「共感」して関係を保とうという動機がない分を、社会的な相互作用を訓練する学習によって補えと言われても困るのだ。だって、他者の「感情」を感じること自体が「恐怖」なのだから…。
やっぱり、存在の「袋小路」は、行き止まりになるしかないのだろうか?
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