宇宙人は楽しい!

と思わないと、やってられまへんで〜♪

相互的な社会関係の質的な障害が常に存在する。

コミュニケーションにおける質的な障害も普遍的である。

ICD−10「自閉症」の診断ガイドラインより。/もう一つの診断基準は、"狭小で反復性の常同的な行動・関心・活動"。

この基準が出来たのは、今から8年前、行動特徴(〜している人)で判断するDSM−4の記述に比べて、こっちの方が実態をついているように思う。でも、ウイング博士は30年以上も前から気づいていたことだし、「アスペの会」では、もう10年近くもの間、何百人もの高機能自閉症の子どもを見て来ている。IQが高くて、普通の子どもと全く変わらないような子ども達も、ちゃんと診断されてフォローを受けているを眺めているのは、楽しいものだ。

しかし、自分のことを、ちょっと変わっているだけの"ヘンな人〜♪"だと思っていたものが、実は「社会性の障害」だったなんて今更言われて、驚かないはずがない。とはいえ、これを突き付けられて、今までずっと「私の言うことなんか、誰も聞いてくれない」「どうせ、解かってもらえないに決まっている」「よほどの成功を収めた人の体験談でもない限り、人の身の上話など聞くに値しない」としか思えなかったことの説明が、あっさりとついてしまった。(実は、私はものすご〜いオシャベリで、いつ・どこででも、話を聞いてくれそうな人を見っけては一方的にしゃべりまくっていたのだ。)

生まれて始めて、話の合った人・私のことを解かってくれていると思った人が、精神科医や臨床心理士だったなんて! これは、やっぱり悲しむべきことなのかも知れない! 生まれる前から「自閉症」だと解かっていたウチの子どもとは、えらい違いだ。こうやって育つと、ちゃんと愛着も形成されるし、今では"ごっこ遊び"までやっている。「自閉症」治療というのは家族の問題でもあることを痛感する、今日この頃である。

しかしながら、私が今までやって来たことは、モノの見事に「自閉症」との闘いだった。人と「共感」できなくて「会話」が成立しないから、人と接触した体験のほとんどが外傷体験になり、そのフラッシュバックの苦しさから逃れる為に坐禅をやった。こだわりや知覚過敏を〈悪しきもの〉として排除する為に、自分(我=が)を抹殺した。人としての立ち居振舞いや人としての発言を覚えるために、人の言いなりになった。テレビの対談番組を見ては、その解説を教条的に鵜呑みにした。哲学書を読んでは、自分の状態を言い表わす表現だけを探し続けた。

そうして、私が今までせっせと作り続けて来たモノは、全てが「自閉症」の残骸を張り合わせた断片から出来ていて、社会にとっては大きさの合わない"要らない部品"だった。それを今、取り出しては広げている。確かに、一度は身を切るような思いをしなければならなかったし、毎日が薄氷を踏む思いだけれど、とりあえずそれが私の生甲斐になっている。

しか〜し!

「自閉症」の解説をすることで、社会に繋がろうとしているなんて、やっぱり間違ってるのかなあ〜?

私は、「自閉症」をこうやって克服したなんていうシンデレラ・ストーリーじゃないと、社会は受け入れてくれないのかなあ〜?

でもねえ、出来ないものは出来ないのだから、仕方がないのだ!!!

やっと、先生方の助けを借りてどん底から起き上がったばっかりだというのに、これを全部やめて以前に戻ったら、今度こそ本当に命がないだろーな!

ホント、「宇宙人は楽しい!」と思わないと、やってられまへんで〜♪


        

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