私の世界
自閉症の子どもは、名前を呼んでもふり向きもしない、一般の子どものようにこちらの働きかけに反応を示さず、遊びといったらミニカーを一列に並べたり、自動車のおもちゃの車輪だけをいじっていたり、電話帳のような分厚い本をペラペラめくるなど、ひとりですごしています。物音に敏感で、木もれ日の影が風に揺れるのをじっと見ている、牛乳などののみものが特定の温度でないと気に入らない。もちろん、言葉はほとんどなく、何かひとり言を言っているときにたずねても返事をしない、鏡に見入る。普通の子どものように物の形をみたり、その意味を把握するという視覚認知のレベルの行動ではなく、何か光の動きとか、特定の感覚に夢中になっている行動ばかりで、こちらがものごとを教えようとしてもそれを見ない、呼んでもやってこない、それでいて気に入ったテレビの音が聞こえると飛んでくる、見てないようでテレビを消すとさっとやってきてスイッチをいれるなど、いろいろな点で目だってきます。こういった子どもにどう対応したらよいかわからないというのが、自閉症の子どもを預かる保育現場の声だと思います。
中根晃著『自閉症児の保育・子育て入門』(P42)
私には、上のようなことをしている子どもたちに、どうして"どう対応したらよいかわからない"のかが、わからない。
だって、名前を呼ばれたってこっちに用事がなければ振り向く必要なんかないし、ミニカーがきちんと並んでいるのは気持ちが良いし、それだけで感動してしまうほどそっくりそのまま小さくなっているものは原寸大の大きさにして見てみたいものだし、葉っぱが風に揺れているだけでうれしくなってしまうし、ぶら下がってチラチラしているものを見ると「全部合わせたらどうなっているのだろうか?」と想像して繋ぎ合せるのに精一杯になるし、チカチカしているものはその中に自分が入り込んでしまうし、飲み物の温度が違えば味が違っちゃうし、いつもいつもいろんな物語が頭の中に溢れていて忙しくて仕方ないのだから。その「私の世界」を他人に妨害されて迷惑しているのに、どうして、その上返事をしなければならないのだろう?
傍からは"奇異"と見えるこれらのことの全ては、決して「理由」のない行動ではないのです。私(たち)の世界には、「普通」と呼ばれている人たちには見えない光・聞こえない音・味わうことの出来ない感動・知られていない法則が満ちていて、それが私(たち)の〈こころ〉をとらえて放さないのです。でも、それは体感するものだから「言葉」にはならない。しかも、外界で交わされている言語で伝えようとしているものは、私には「価値」がないものばかり。ただ、その中で「魅力的」に感じられるものにだけ反応すれば事足りる。(特に私の場合は、出来ないことがあまりなかったので、人にとやかく言われる前に先回りしてやってしまった。居たたまれない状況からは、正当な理由をつけてスルリと逃げた。)何故、それ以上に何かを教わらなければならないのだろうか?
でも、知覚過敏による不快刺激が多い人・認知の障害と神経症状が重い人にとっては、「世の中」とは騒音とまぶしい光と悪臭に満ちて、全てのものが部分と断片にズタズタに分断されているカオスのようなものと想像されるので、余裕なんかあるはずありません。そんな世界に独りポツンと浮遊していたら、だれだって混乱しパニックを起こしてしまうでしょう。逆に、(私のように)知覚が快刺激に過敏な場合は、とっても楽しくて美しい「自分の世界」に文字通り"囚われて"、出て来るのがイヤになって当然でしょう。それが、俗に「手のかからない・おとなしい子ども」と言われる由縁なのだから、皮肉なものです。
知覚と神経が「普通」と違っている。にもかかわらず、「自閉症者」は、それなりに自分が"するべき振る舞い"を学習し、不都合がないようにその場に収まる方法を身に付けようとしているのです。自分なりに一生懸命、外界の「情報」を読み取って応えようとしている真摯な〈宇宙人〉なのです。たとえその結果が、部屋中に紙を撒き散らしたり、そこらじゅうを水浸しにしたりなんていう、無秩序で不可解な行動であったとしても。
そこで、まず第一と第二の要望です。
〈人〉と違う在り方をしていることを、理解して欲しい!
〈人〉と違っている素晴らしい人として、愛して欲しい!
「くだらないことはやめろ」「おかしなことをするな」なんて、むやみやたらとそっちに引っ張り上げようとしないで、ちょっとでいいからこっちに降りて来て、何が見えているのかな?・何を感じているのかな?・何が楽しいのかな?・何に囚われているのかな? という観点で見て下さい。きっと、必ず何らかの「理由」があるはずです。
そうして、そういう「障害」なんだから仕方がないと諦めないで、そういう〈人〉として社会に生きていく為の妥協案を呈示して下さい。例えば、「紙を撒き散らす楽しさ」を十分に認めた上で場所を限定するとか、「次から次へと落ちてくる水を眺めている楽しさ」は分かるけれど時間を区切るとかいう風に。少なくとも時と所をわきまえるのは、必要なマナーですから。それを、「どうして出来ないの」とか「どうして分からないの」と責めるのではなく、出来ない・分からないのは仕方ないけれど、教わって出来るように・人の指示には従えるように方向付けをしてあげて下さい。
しかしながら、傍らに在るものが〈人〉であるとなると、そこに居る・それがこちらに係わってくる・何かを話しかけてくるというだけで、既に「私の世界」を脅かしてしまう。つまり、〈人〉が〈人〉に対して存在しているという在り方が、自然に出来ていない。それよりも、自分自身の感覚や秩序が優先していて、その中に収まっている限りにおいて〈人〉と共存できるという在り方をしている。「自閉症者」にしてみれば、〈人〉と暮らしているのに"そこに私はいない"、周りに〈人〉がいるのに〈人〉として"存在しているのではない"、自分がその〈人〉たちと"同じだとは思っていない"のです。
共通項が少なければ、「共感」することも出来ません。なのに、人間として生まれたからには、〈人〉として生きていかなければなりません。その為には、戦略が必要です。≪孤立型≫の人たちは、周りの人たちとほとんど係わっていないかもしれない。けれど、外界を自分なりに解釈して、意味付けをしようとしています。≪受動型≫の人たちは、周りからの働きかけに対して、自分が何かをしなければならないことも、何とかして応えなければならないことも分かっています。≪積極奇異型≫の人たちは、むしろ自分から係わっていくことには熱を上げますが、人から係わられると拒絶したり逆に従順になり過ぎたりしてしまいます。
というわけで、第三の要望。
〈人〉と違う係わり方をしていることを、認めて欲しい!
〈人〉と離れた場所にポツンと独りで居ても、「寂しそう」だの「可哀想」だのと言わないで欲しい!
「いつまでもよそよそしい」とか「他人行儀だ」とか「仰々しい」とか「シカトするな」とか、言わないで欲しい!
本日の壁紙は「私の世界」、挿入線が「息子の世界」でした。
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