どうしたら人の気持ちが解かるようになるかって?
わたしは昔、うるさくて唐突で無意味なまわりの音が自分の耳に入ってこないように、歯ぎしりをしていた。同じメロディーを繰り返し歌ったり、ハミングをし続けたりするのも、同じことだった。自分で自分をたたくのは、一定のリズムを作り出して、何の一貫性もない他人の動きが侵入してくるのを防ぐためだった。だからわたしは、ジョデイのかわりにそれらのことをしてあげた。おかげでジュデイ自身は自由になることができ、本来自分が必要としていたことや、したかったことに、手を伸ばすことができたわけなのだ。
ドナ・ウイリアムズ『こころという名の贈りもの』(P44)
ある教育関係の会議の障害関連の分科会の打ち合わせで、作業療法士の人に「自閉症」児が「どうすれば人の気持ちが解かるようになるか教えて欲しい」と聞かれた。まだ本番ではないので、答えはしなかった。いや、答えられなかった。だって、その答えは、ズバリ「そっちから来て!」なのだから。「人の気持ち」を解からせるのではなく、「そっちが、こっちの気持ちを解かってくれなきゃ!」「同じ"コトバ"でしゃべってくれれば、"同じ"だ・"通じた"と思えば、きっと続きをしゃべるから!」と、今になって私の頭の中で答え続けている。
「自閉症」者が〈宇宙人〉なのは、人と違う感覚・知覚を持ち、心の構造が人と違うから。そして、一人一人が汎性のない・人と違う在り方をしているから、「自閉症」者は一人一人ちがっている。だから、一人一人が違うコトバをしゃべっている。例えば、私と息子はピョコピョコ飛び跳ねるのが「人に何かを要求する」ことを意味している。私は心に葛藤があると、手をヒラヒラさせるけれど、息子は("手かざし"はするが)それをしない。でも、息子の同級生の自閉症児U君は、私と同じように手を振る。(※人がイライラして何かを叩くのとは全く違う動きなので、よく幻奇的と表現される。)
「自閉性障害者」は、得てして≪精神≫と≪身体≫が未分化だから、身体的なこと・感覚的なことが"コトバ"になっていることが多い。そう思ってみれば、何を考えているか「言葉」で人に訴えることが出来る健常者よりも、よっぽどバレバレでミエミエなのだ。ただ、その"コトバ"を解釈する理論と理解できる柔軟な頭を持ち合わせている人が、少ないだけで。
あまりにも強烈な〈人〉に関する記憶がフラッシュバックして「感覚」的なショック状態に陥ってしまうと、パニック発作を起こしてしまうことがあるかもしれない。でも、〈人〉といることが何となく「感覚」的に受け入れ難くて、ボーッとしたりだるくなったりする、なんてことは日常的に起きている。そして、知らず知らずのうちに、声を出していたり体のどこかを触っていたり指を噛んでいたりする。
ただ、爪噛みや指で音をたてたりするくらいなら普通の人でもみられることなので、人の気に障ることはあっても"異常"とは思われない。けれど、鼻をほじるというような汚いこと、大声を出すとかあからさまなロッキングのような目立つこと、自傷や他傷といった人のしない常軌を逸したこと。それから、上の引用例のようにそれだけで手いっぱいで肝心の用事が出来なくなる。となると"問題行動"になってしまう。
でも、それらは皆"意味"のある"コトバ"だと思って下さい。きっと、何を訴えているかが解かるはずです。基本的に、≪精神≫と≪身体≫が直結しているので、〈人〉という不確定要素がそこにいるという≪身体≫的混乱を収拾して≪精神≫的な安定を得る為に、≪身体≫で解決しているのです。
しかし、その前に、何が・どう「自閉性障害者」を脅かしているかが解からないと、「い〜みないじゃーん!」です。つまり、上の引用の「うるさくて唐突で無意味なまわりの音が自分の耳に入ってこないように」と「何の一貫性もない他人の動きが侵入してくるのを防ぐため」に当たる部分、が解からないことには何にもなりません。そちらからの歩み寄りが必要だというのは、そこのところなのです。
孤立した〈自分〉だけの世界の住人である「自閉性障害者」にとって、〈他人〉の存在とは常に突拍子のないものであり、感覚的・精神的な脅威になっていることを解かって下さい。そして、そのことに配慮してもらえさえすれば、決して〈人〉に係われない〈宇宙人〉ではないのです。
その光は、心の闇と沈黙という長いトンネルの果てに、やっと見えてきたものだった。意味が「聞こえず」、意味が「見えず」、自分自身の経験したことさえ感じられないという、長いトンネルの果てに見えてきたものだった。あの光が出口だ。絶望の闇の中に生まれた希望だ。わたしはうれしさのあまり、そこいらじゅうをはね回った。顔には自然に笑みがこぼれた。(P126)
全く会話が出来ないような重度の「自閉性障害者」に限らず、認知の障害がなくて言語理解に何の問題も無い軽度の「アスペルガー障害」であっても、同じ事が言えます。というのは、その"コトバ"は他人と〈意味〉が照合していない独自の"用語"でしかないということが、往々にしてあるから。でも、抱えている問題の次元は全く違うものであっても、〈人〉と意味の通じる"コトバ"を交わせる喜びそのものは、軽重比較のできないものです。
十分に会話が出来る場合では特に、使っている言葉の〈意味〉に注目して、そのうちで他人と〈意味〉が照合している"コトバ"を利用して話し掛けてあげて下さい。そうすればきっと、本当の会話が成立して、孤立した〈こころ〉に窓を開けることができるはずです。そうすれば、ドナさんに起きた↓のような変化を、誰もが経験できるようになるでしょう。
内的な経験を伴わないただの「意味」は、「意味」の伴わない内的経験と同じほど、空虚なものだった。会話を楽しむふりはできるようになったが、相手と一緒に会話を楽しむという感覚は、まったくわからないままだった。「自己」と「他者」が同時に存在し得るという感覚も、まったくわからないままだった。(P124)
誰と誰がどう関係しているかとか、どうやって誰かを知るようになったかとか、誰かの身の上話がどうであるとか、そういったことは、わたし独自のシステムでできていたファイルの棚には、まったくどうでもいいことだったのである。(P126)
人がなぜ会話を楽しむのか、わたしにはわかり始めていた。そうして、自分が失ったままでいたものが何であったかも、時折きらっと見えるような気がした。(P126)
「どうやったら、人が怒るのを止めることができますか?」わたしは聞いた。実際には、それはどうやったら人の声の調子が変わるのを止めることができるか、ということだった。人がなぜ顔をしかめたり、声をダンスさせるように揺らすのかも、知りたかった。それはどちらもわたしの気持ちを動転させることなのに、人はいっこうにやめようとしない。(P132)
ミラー夫妻は、ことばというものは、親密さを作り出すための道具でもあると、わたしに教えようとしてくれた。わたしが、「世の中」での親密さの定義を共有していない人間だとは、気づいていなかった。なぜわたしは、それを喜んで受け止めるのではなく、むしろ避けなければならないのか。一番よくわかっているのは、わたし自身だ。(P136)
ああ、以前の方が、ずっと楽だった。以前は、人の言ったことで傷ついたりはしなかった。傷つく自己さえなかったから。(P142)
しかしわたしは、親しさには息苦しくなるし、責められているようにも感じる。だから怒りを感じた時に、親しさのような相互関係にあるものを、感じることができないのだ。またわたしは、触れられることに恐怖を感じ、感情のこもった話しぶりにはいらだつ。人々は保証を表わしているつもりでも、わたしにしてみれば、自分自身のやすらぎを完全に傷つけられてしまうのである。(P147)
人の中にやすらぎと安全を見出し、他の人をも支えるというのは、少しも変でもなければ、筋が通らないことでもない、とわたしは思った。・・・(中略)・・・しかしあらゆることの果てに、わたしはついに、なぜ人が互いに振り向き合い、支え合うのかを、知ったではないか。(P150)
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