−いち・いろいろ−

1番目の

「自閉症」者は、ひとりひとり違います。いろんなタイプのいろんな人のいろんな話しを聞いたり本を読んだりして、そこから自分の子ども(あるいは、自分自身)に共通する部分を参考にして下さい。そして、ひとりにひとつずつのプロフィールを作ってください。

「高機能自閉症」の存在が明らかになり、「自閉症」体験を語れる人たちが増えても、それぞれが自分の"場合"はこうだと言っているに過ぎません。例えば、アインシュタインのような優れた業績を残したような人物でない限り、ひとりの「自閉症」者そのものに興味を持たれることはないので、「ここは同じだけれど、あれは違う」といった資料的な役割を果たせば十分です。

そして、ひとりひとりが統計上の数としての1でしかないし、そうやって集計された数字を拾って様々な研究が進むでしょう。そして、後に続く人たちの役に立つのか、それとも後に続いてくる人を無くするための方法論が確立されるのか、いったい世間が何を望んでいるのか、どっちに向えば良いのか私には分からない。ただ、とりあえず現実に存在している(実存している)事実があるだけです。

2番目の

本当に助けを必要としているのは、多分私たちではありません。今なお、たったひとりで地上に残されたE.Tの子どもと思っていて、本気で自分の本当の家族のいる母船に交信しようとその方法を必死に考えている人が、たくさんいるのです。みんなそれぞれに「E.Tウチヘデンワ」と、声にならない声・言葉でない言葉で呼びかけているはずです。

でも、だれも聞いてくれない。それどころか、「意味」の通じていない「言葉」で指示されて、こちらの「言葉」の「意味」が通じていないことは無視されている。そんな袋小路にいては、「自分はたったひとり」だとか「宇宙人」だとか「生きている価値のない人間」だとか「悪い子」だと思うしかないでしょう!?

それが、自分ではどうしようもない「障害」で周囲に理解されていなければいないほど溝が深まっていくものだと分かった時点で、実は半分救われているのです。更に、「仲間」がたくさんいるとか、医学的治療の対象になっていることとか、自分の「言葉」で話して「意味」が通じる≪場≫があることを知ったなら、それでもう「たったひとり」の"1"は消えてなくなります。

けれど、一方的にしゃべるか一方的に聞くかのどちらかだし、自分では勝手に「この人」と「同じ」と言いたがるくせに、人から「同じ」だと言われると「違う」と言いたくなる。というわけで、やっぱり、ひとりひとりが"1"のまま存在し続けるしかありません。ただ、お互いに事情が分かっているから文句は言いません。

3番目の

「自閉症」児がよくかかるビョーキに、「一番病」というのがあります。文字通り、「何でも一番じゃないとイヤ!」「どうせ一番になれないものは、最初からやらない!」「自分で一番になれると判断したことだけに参加する」というものです。

私の息子のこれがひどかった頃には、2匹のカエルを走らせるゲームをして、勝ったり負けたりしていいことを何ヶ月もかけて分からせました。また、勉強していても○でない度にパニックを起こすので、「初めから間違えずに出来る人なんかいない」とか「教わって出来ればいい」と言い続けています。

しかし、人と話が出来るようになっても「会話」が持続しないのは、自分の言ったことがそのまま通らないという状況が許せないからでしょう。それが、誰も興味や関心がなく誰も知らないようなことならば常に自分の独壇場だし、みんな知っていてもそれ以上に知識として正確で詳しければ誰からも否定されない。逆に、自分の方が完全に負けていれば、言葉は全て教条的になり新たな知識として記憶に集積される。ところが、対等の立場になると、二者択一ではなく折衷案を新たに作らなければならない。・・・それが出来ない。

その他のいろいろな

こんなイチイチうるさいことを言うヤツは、やっぱり「この世」ではオバケです。でも、とっても明るくて自信ありげで偉そうにしているから、誰もソーウツだなんて気づかない。


                  

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