飼い殺しにするのだけは、やめて欲しい

一口に「自閉性障害」と言っても、知能のレベルは様々だし他の障害と複合していることがあるので、現れ方は様々です。言葉が遅れているかしゃべれても意思の疎通が難しい・パニックになりやすい・着替えなどの身辺自立ができない・多動・読み書き計算ができない、というようなとっても分かりやすい症状を持つ者ばかりとは限りません。

上と逆のケース、つまり、(一方的にだけど)べらべらしゃべりまくる・感情を表に現わさない・おとなしい・教えてもいないのに文字や数字を覚えてしまう・見よう見真似で何でもやってしまう(ただし、教えようとすると拒否する)ような場合、多少不器用で運動が苦手だとか"こだわり"が強いとかいうところで他の子供と違うことをしていても、ちょっと変わった子供としか思われないでしょう。

またそれに、特定のものにしか興味を示さないけれど意外なことを知っているとか、時々ズバリと的を得たことを言うとか、本ばかり読んでいる、なんてことが加わると、単に"頭の良い子供"("性格の悪い"がつくでしょうけれど)でしかなかったりするでしょう。

でも、情緒的に不安定でちょっとしたことにも耐えられない、かと思うとかなりなことを我慢していたり、まるっきり他人に依存して指示が無いと動かない、かと思うと衝動的に突っ走って人の意見を全く聞かないというように、両極端な二面性があったりするはずです。つまり、とっても取り扱いの難しい子供(大人になっても同じ)なのです。

そこで、ほんのちょっとでも「自閉」のケがあることが分かったら、是非ともして欲しいことがあります。

  1. 何かにこだわったり興味が限定されていることを、困ったこととして頭ごなしに否定しないこと。
  2. やめさせるのではなく、時と所をわきまえるように教える。自分で分からなくても、人に言われて出来れば良しとすること。
  3. その際、言葉通りに受け取るので、本当の意味が伝わっているかどうか十分留意すること。
  4. 「こんなこと、教えなくても分かるだろう」とか「そのうち気がつくだろう」と思うようなことこそ、教えないといけないこと。
  5. モノの考え方や好みが、社会的には好ましくないモノである場合は特に、"個人の楽しみ"に限定するように正しく方向付けること。(抑えつけるだけだと、かえって危険な方向に走ります。)
  6. できるだけ小さい内から手伝いや仕事などの役割を与え、他人の為に何かをする習慣をつけること。(本当の気遣いができなくて形だけ身に付いていても、十分役に立ちます。)
  7. 一人で任せられない・危ないからといって、守りの体制にしないこと。むしろ、積極的に突き放すことも必要です。
  8. 能力的な問題が無いにもかかわらず体系的な知識や技術を習得出来ないのは、本人の努力が足りないせいではないと理解すること。(目の付け所が違っているとか、能力的な偏りや能力間のアンバランスがある。)
  9. 一番肝心な、「人間への興味」と「人の気持ちへの共感」が欠けていることを常に念頭に置くこと。その為、せっかく得た知識や技術が役に立たないことが多いこと、つまり、習得できても人のニーズに応えるように使えないことが往々にしてあると、警戒しておくこと。

もしも、一生食べていけるだけの財産と人脈を用意できるというのなら話は別です。が、こういうことを一切せずにぜ〜んぶ逆をやってしまうと、つまり、肝心なことを見落とす、または、その内なんとかなるだろうという誤まった目測を立ててしまうと、実質"飼い殺し状態"で放置することになってしまうのです。その結果、なかなか社会に出れない≪本人≫は、その家族ともども右往左往したり悪あがきをしなければいけない破目に陥るでしょう。


多少の困難や苦労があっても、努力したり紆余曲折の結果出来るようになるのならば、つまり"克服"できるのならば、もともとそれだけの能力があるのだから「障害」ではないという考え方、お説ごもっともだと思います。特に、「ちゃんと自立して生活できるようになるのに、何をそんなに大騒ぎするのか」とか「甘ったれるな」という意見があるのも、重々承知しています。でも、それで無理を重ねれば、立派な精神障害者を一人産み出すことになるのです。掛け違えたボタンは、一生修正されることはないのです。でも、早い内に気づいてあげれば、掛け違えたら掛け違えたなりに楽しむ方法を教えてあげることが出来るのです。

それから、私がこんなことをベラベラしゃべりまくっている(長々と、しかもしつこく、あっちこっちに書きまくっている)のは、何も私を優遇して欲しいからではありません。もし、自分のことだけを考えているのならば、せっかく収まるところに収まってそれなりの役目も果たしているのに、自分の正体をばらして不利になる"こんなこと"をしているはずもありません。もっとも、やっていることは、しょせん余計なお世話かもしれません。けれど、かつて私が歩いてきた道をいま正に歩いている子供達がいる限り、このお喋りは止まらないでしょう。この子達を見ていると、思わず抱きしめたくなってしまうくらい、いとおしいので…。(ま、傍らで嫉妬の目でこちらを見ているお母さんたちが怖いので、実際にはできませんが。)

今までさんざん同じことを繰り返してきたのにまた、性懲りも無く「おだてられて2階に登り、はしごをはずされて戻れなくなる」ようなことをしているのは自覚しています(どうやら、現在地はF10らしい)。ただ、子供のことならいくらでも質問に答えます。それから、私も一緒だという大人達とお話するのは良いんです。でも、大人から私に相談を持ち掛けられても答えようがなくて…。だって、一番困っているのは私自身なのですから。


           

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