『もう闇のなかにはいたくない』

パソコンを通して、僕は言葉を獲得した!

2歳のときに、自分のなかに閉じこめられてしまった少年ビルガー。重度の自閉症と診断され、いままでひとことも口をきかず、ただビー玉を毎日もてあそんでいるだけだった。ところが、18歳のときに、パソコンを使った療法にであい、奇跡的に内面を綴るようになる。長い沈黙を破って、彼は驚くべき速さで言葉を獲得していった。独特の文章で綴られた日記には、想像を絶する自閉症の孤独とひたすら向かい合い、そこから必死で抜け出ようとする、繊細な少年の心が表わされている。ドイツで出版されると、孤独の真の姿を知る詩人と絶賛された、感動の手記。

−ビルガー・ゼリーン著(草思社刊)−表表紙より。

この本の内容について、私からとやかく書きたくありません。是非、買って、多くの人に読んでいただきたいからです。ここでは、相変わらず、このタイトルに関連して"私のこと"を書くだけですから…。というのは、実は、私もこの1年を通じて、これと全く同じ経験をしているから。

確かに、私は外見上は、ちょっと人と違う服装をしていたりいつも同じ格好をしている(必ず色違いの洗い替えと2セット買うので)という点を除いて、特に何も変わったことのない、普通あるいはそれ以上にちゃんとやっている人です。普段は全く普通に生活しているし、それなりの仕事や役職の務めを果たしています。私の日記を読んで、私をとってもオカシナ人だと思っている人もいるかと思いますが、実際に会ったら虚構で塗り固めて自閉症を演じている詐欺師じゃないかと疑う人もいるでしょう。

しかし、私がこうやってパソコンに向かってとっても流暢に文章を書いているからといって、気安く声をかけてもらっては困るのです。相変わらず、私は、面と向かって自分の気持ちや考えていることを人に話すことができません。"自己開示"と"他者との交流"を要求されただけで、シャッターを降ろしてしまいます。といっても、何のことはないつまらないことの方が、私にとっては難しいし不快です。苗字で呼ばれたなら良いけれど名前で呼ばれたとか、大人が私の部屋に許可なく入って来たなんてことがあると、「なに、この人!」とムカツクばかりか、一週間はイヤな気分になってしまうところなどは、少しも変わっていないのです。

ましてや、「日記、読みました」などと言われると、ほとんど恐怖でさえあります。この日記に関して何かコメントしたい人は、「読んでます」ではなく「僕・私もこういうところが同じです」でなければならないのです。ということは、共通点のある≪本人≫あるいは、そういう≪本人≫の気持ちを知っている親じゃないと困るのです。ただ、子供のこと・ゲームのこと・「自閉症」その他の発達障害に関すること・世の中に対する意見・人間観察と分析についての結果報告なら、ぜ〜んぜん平気です。いや、それどころか、こういうことならウルサイくらいに喋るし書きます。


こういうところは、子供の頃から少しも変わっていません。私は、好き嫌いというより食べられるものが少なくて、食事や給食の時間はとってもイヤでした。そんな私に、母は毎日「おいしいから、食べなさい」と言いました。で、私にはそれがとっても苦痛でした。{自分にはオイシイかもしれないけど、人にもオイシイなどと何で勝手に決めつけるんだ!}と怒ってさえいました。それをただのワガママだと思いたければ、どうぞ思ってください。

こういう場合「せっかく一生懸命作った人の気持ちを踏みにじるのか!」と自然に怒ったり、「おーいしい!」と言ってムシャムシャ目の前で本当に美味しそうに食べたりしてくれれば、{そうかなぁ?}と思って口をつける気にもなったのに…。でも、大抵の人は、勝手に"あちら"の世界の言葉で話しかけておいて、「通じない!」「なんてヤツだ!」と怒って説教するのですから、私にとってもほとんどがチンプンカンプンだったり、{何で、解ってくれないの〜}と叫びたいことの連続でした。

というわけで、私は常に≪自分≫を括弧にいれてウワベだけの人付き合いをして来ました。なんてことを書くと、「私もいつも本心を人に言えずに、人に合わせてばかりいました。」などと共感してしまう人がたくさんいる出てきそうです。でも、本心とかいうそういう次元の事ではないのです。私は、人と接触したり関心を向けられるだけで「イヤー!」なのですから。

例えば、ドナさんの本を読んで、そこで語られている"言葉"に共感する人は多いでしょう。なにも、自閉症やアスペルガ―症候群の関係者でなければ読んではいけないとか、何かを感じてはいけないという決まりはないので、同じ人間としていろいろなことを思ったり参考にしたり、大いにして欲しいと思います。でも、私は以前、NHKでドナさんを取り上げたドキュメント番組を放送した時に見て、ドナさんが今でも「自閉症」が残遺している人だと言うことを知っています。もし「自閉症」を本当に知ろうと思ったら、そういうところを抜かしてしまったら本質を見誤ります。

ともあれ、私は、"あちら"の世界と"こちら"の世界では言葉の意味と文法が違うことに気づかないままに、いろんなものを混同したまま来てしまいました。"あちら"と"こちら"をうまく分けて、折り合いをつけさえすれば良かったところを、どちらかを否定して無にすることしか考えませんでした。まず、始めに"あちら"の世界を葬り去って"こちら"の世界を実現させようなどというとんでもないことを企てて挫折し、次にその逆をやってほとんど自分が壊れる寸前まで追い詰めてしまいました。そのまま突き進んだら、恐らく本当に発狂していたか他の身体的な病気になっていたかのどちらか、というところまで…。(あいにくと、自殺する勇気がないので。)

それを救ってくれたのは、パソコンだったのです。

私は、生まれて始めて≪自分≫のことをあてもなく≪誰か≫に向かって書きました。でも、私が、この日記を平静な気持ちで書いているなんて、思わないで下さい。「不立文字(ふりゅうもんじ)」という言葉の前に、文字上の関係や数学的整合性ばかりを追っかけて生きるのを止め、音に聞き入ったり形に見入ったりして半日潰してしまうのはイケナイことだと、自分で自分を殺してきた人が、今やっと自分を取り戻しているのですから。


確かに、私はビルガー・ゼリーンのように、完全な闇の中に閉じ込められたわけではありません。いつも、開けたところに・人々と一緒にいました。こんなことを書くと怒る人がたくさんいるかもしれないけれど、でも、"境遇"は一緒なのです。これだけ喋れて普通なのに、やはり閉じこめられています。一体どうして、何に閉じ込められているか判らない"何か"に。そして、やっばりここから出たいと思うより、「そっとしておいて欲しい!」という気持ちが優先しています。

何故、私が感覚的に普通じゃないのに"普通"にしていられるか、昨日から今日にかけてずっと考えていました。そして判ったこと。ドナさんとの一番の違いは、私の場合は「快刺激」が多いということです。例えば、ドナさんならパニックを起こしてその場から遁走してしまわざるを得ないような色や光といったものが、私にとっては心地よいので、見入ってフリーズしてしまうのではないでしょうか。「快刺激」への反応が強くても奇異な印象は与えないけれど、世の中が「不快刺激」に満ちていれば落ち着いてなどいられるはずはありませんから。


          

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