苦痛な感情
「心の理論」を獲得する前の自閉症児は、他人の感情に気づきにくく人を自分の道具扱いするとか、怒っている顔と疲れている顔の区別がつかずに一方的に恐れてしまうとか、他者の感情理解が困難なことはよく知られています。かといって、いつまでもその次元に留まっているわけではなく、成長と共に「共感」できるようになるものもあるし、学習や想像で補っていくものもあるでしょう。
自閉症スペクトル障害者は、一般に、情緒的にとても不安定です。というより、極端に走りすぎて、とっても分かり易い変化を見せます。自分自身の喜び・驚き・恐れ・悲しみ・怒り・苦痛といった基本的な情緒は、すぐに表情や行動に表れるし、自律神経が失調したりするので、すぐにバレてしまいます。それに、他者の感情については、特に、自分の身の安全に係わってくる"嫌悪"と"好意"に関する身体上の変化(顔つき・歩き方・身のこなし)にとても敏感です。ただ、自分の抱いた感情や感情を持った他者に対する反応の仕方が尋常でないので、温かみや豊かさに欠けることは認めますが、自分に感情がなくて他人にも無関心な冷たい人間というわけではないのです。
例えば、うれしい時。自分から進んでしたことの結果が良かったとか、欲しいものが手に入ったとかいう場合、主観的な感情を隠すのは難しいので、見るからにそうとわかる表情をするし、分かってくれそうな人にしゃべりまくったりします。こちらのうれしさを一方的に伝えることには、とても熱心です。他人のしてくれた行為がうれしい場合でも、「うれしい」とか「ありがとう」とか言いまくります。でもそれ以上に、相手にとって"言われたらうれしいだろうな"と思えるような気の利いたお礼は言えません。ましてや、うれしくもないのにうれしそうな表情をするのは、とっても苦手です。あからさまにうれしくないと顔に出してしまうか、不自然なうれしさを演出しすぎてしまうかのどちらかです。
しかし、ちょっと高等で複雑な"感情"となると、もともと持ち合わせていないことが多いようです(だから、私もここに列記できません−ものの本によると"愛着"の問題らしいのですが)。また、同一の人物が違う表情をしていることをどう捉え、心の変化をどのように理解し、いかにしてそこから真意を探るか、あるいは、性格を読み取るか…、これはもうお粗末としか言いようがないくらい低レベルです(どうやらこれも、私が、場面ごとに区切れているデジタル人間だということに関係があるらしい−つまり、デジタルな場面をアナログ化できない)。
しかも、真の問題は、他者の感情を理解できるかどうかということではなく、状況に応じてその場にいる人達の気持ちを汲んだ(社会的な)言動ができるかどうかということなのです。もし、文章や写真などを見て、感情を理解できたり共感できたとしても、実際の対人関係の中でできなければ、あまり意味のあることとは言えないのです。自閉症スペクトル障害者はこの点に関しても、とても不利な条件がそろっています。例えば、他者がいてもどうしても主観が優先してしまうとか、記憶が途切れてしまうとか、うまいコトバが浮かばないとか、自分自身が平静を保てないとか…。
この情緒的な幼稚さと対人関係のまずさが対をなすものだというのは、とっても分かりやすいと思います。人と人との一対一の感情を共感することさえも困難なのです。ましてや、特定の集団や文化に所属する成員が共有する感情=情操となるとお手あげなのです。だから、人と会話を続けていくにはタイヘンな努力が要ります。その為には、小耳にはさんだ誰かのコトバを真似るか、誰かに"なりきる"かしかありません。それでも、ひとたび素に戻ると、誰かと口をきいたというだけで、自己嫌悪に陥ってしまいます。
恐らく、この件に関しても他のすべてのことと同様、鈍感・普通・敏感と人それぞれだろうし、場面や状況によっても違うということを前置きして、私自身の特殊事情を打ち明けてみたいと思います。今からここに書くことの正体が何なのか、本当のところ私にもよく判っていないのです。
大人になって忘れようと努力している皆さん方には申し訳ありませんが、もし、どこかに私と似たような子供がいたら、その子を理解する為に少しでも役に立ってくれたらという願いを込めて書いているので…。
私の場合、自分の脳内情報が優先して、自分一人だけの世界に飛んで行ってしまう「自閉」状態でいるか、他人の心情に影響されて、圧倒されたり同化してしまって自分が無くなってしまう「自開」状態でいるかのどちらかで、その中間を保つのはとっても困難です。たとえ、自分と他人が共存する瞬間がほんの一瞬あったとしても、「自閉」状態に戻った時に、他者に関する記憶はゾンビ化して襲ってくるので、結局均衡は崩れてしまいます。
それと同じように、感情も次の極端な二つのパターンにハマッてしまうことが多いのです。そして、そのどちらの場合でも、他者からの関心を私に向けられた時と同様にシャッターがおりてしまって、ニンゲンに関する情報をシャットアウトしてしまう結果となってしまうのです。
- 欲や高等感情を持っているニンゲンを見てそれらに触れてしまうと、とたんに、「醜い」と感じて怒り始める。そうしてスイッチを消してしまうどころか番宣も見れない番組の例ー「渡る世間は鬼ばかり」。
- 死・悲しみ・不当な扱いをされている人から何かを感じると、「同化」してしまって苦しくなってしまう。そうしてスイッチを消してしまうどころか番宣も見れない映画の例ー「火垂(ホタル)の墓」。
どういうわけか、日本人は上の二つのパターンが好きなようです。連日のワイドショーの話題はほとんどこれですが、そんなものを見て共感する楽しさを理解するのは私にとっては微分積分を解くことより困難です。また、かつて無いほどの高視聴率を記録した「おしん」には、おしん本人とおしんをいじめる鬼はばあの両方が出ていて、日本人好みに仕上がっていたのでしょう。流行っているらしいので見始めてはみましたが、すぐに挫折してしまいました。
そんな風にドラマ仕立てにしなくても、ニュースにだってスイッチを切らせる映像はたくさんあります。例えば、子供をなくしたお母さんがいるとします。下の例のうち、どちらも見られなくなってしまうことに変わりはありませんが、×がついているのは怒ってしまうもので、○は同化して苦しくなってしまうものです。また、葬式に集まった群集が集団で泣いていても反応は起きませんが、そのうちの一人がアップになるとダメになります。
- ただ、普通に泣いている。 ○
- 名前を呼んで、泣いている。 ○
- 「どうして死んだの、帰ってきて」と叫びながら泣いている。 ×ー死んだ人が行き返る訳がないと思ってしまう。
- 「犯人を殺してやりたい」と叫びながら泣いている。 ○
- "泣き女"(一種の風俗・風習です)が、悲しさを盛り上げて人に涙を誘おうとしている。 ×
- 自分の過失で死んでしまったのに、「どうして止められなかったのか」と誰かに責任を転嫁するようなことを言いながら泣いている。 ×
こういう映像を放送することの是非はよく問われているので、我慢して見ている人は結構いるのでしょう。怒りと苦しさで居たたまれなくなってしまうのは、ただちょっと感受性が強くて敏感なだけなのです。私はただ、人が仲良く楽しそうにしているのを見ていたいだけなのかもしれません。でも、そのお陰で、私のニンゲン理解はそれ以上先に進めなくなってしまうのです。
テレビならスイッチを切ればいいし、日常生活の中ではたいていは仕事や用事の為に人と会うことが多いので、毎日毎日"感情センサー"が稼動しているわけではありません。ただ、過去にこのセンサーに引っ掛かってしまったニンゲン(自分も含めて)の記憶がゾンビ化して襲ってくる≪フラッシュ・バック≫が四六時中やって来るのが厄介なのです。
そういう時、音楽を聴くと、汚れてしまった魂を音が浄化してくれるし、歌詞のコトバが慰めてくれます。ゲームをすると、美しい映像と音楽があり、人類全体の命運をかけるという非日常の状況下でニンゲンで無いモノ同士の関係の中に身を置けるので、現実を忘れさせてくれます。また、自分と共感する部分の多い自閉的な要素を持った人達が他にもたくさんいること、その人達に実際に会って夢や幻ではないことを確かめただけで、とても心強い支柱になります。
でも、現実の私は、こういうことに無知な人々に囲まれて生きて行かなければならないのです。しかも、こんなできそこないの人間にあこがれる人は誰もいないし、普通の人間達に何かを主張したって、聞いてもらえる見込みも報われることも永久にないと知ってしまったのです。かといって、もう、自分を捨ててまで普通の振りをするのはコリゴリです。そうしたところで、分からないものは分からないし、できないものはできないし、不自然なものはやはり滑稽なだけです。どっちにしたって四面楚歌なのです。
軽度発達障害者と健常者が、お互いに認め合い・歩み寄る道を誰かが切り開かないことには、この苦しみは永遠に続いてしまうでしょう。世の中は、相変わらず「そのうち普通になるのに大騒ぎしすぎだ」という意見か「しつけがなっていないだけだ」という常識のどちらかに偏っています。どっちにしても、話を持ち掛けることさえできない人の方が数が多いし、強いのです。
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