≪孤立化≫から、≪個性化≫へ
だいたい役所のすることというのは、スローガンを掲げて連呼するだけの無駄な会議やOO大会というのが多い。官僚が頑張れば頑張るほど余計な報告書が増えて、現場にかける時間とエネルギーを吸い取って行くのが世の常である。彼等の仕事から机上の作業を無くしたら、彼等の仕事と税金が随分と減るだろうと思う。
それはともかく、決してスローガンや呼びかけの一つに終わってしまって欲しくない役所仕事の一つに「次代を担う青少年について考える有識者会議」というのがある。[青少年による凶悪犯罪・薬物乱用・いじめ・登校拒否・性をめぐる問題などの、青少年が直面している極めて深刻な問題についての有識者会議]という趣旨からして、憂慮すべき事態を打開するための提案に終始しているこの報告書の中に、ほんの少しだけ明るい見通しを述べている部分がある。
(3) 前向きに生きる青少年
青少年の現状には非常に憂慮すべき点が多く、青少年をめぐる様々な問題の中には、すべての青少年に共通するような問題もある。ただし、ごく一部の青少年による非行等問題行動のすべてを青少年一般に当てはめて考えることは、かえって問題の本質を見失わせるおそれがあることにも留意しなければならない。
自由や個性を尊重されて育った現代の青少年は、社交性豊かで、なにごとにもものおじしないといわれている。オリンピックなどの大舞台において、プレッシャーをはねのけ、むしろ、それを楽しみながら自分の力に変えて活躍している若者などはよい例であろう。
また、新たな情報を取り入れていくことにも積極的であるといえる。ポケベル、PHS、携帯電話、パソコン等を通じたインターネットなどは、既に青少年の日常生活になくてはならないものとなった感があり、これら高度に発達した情報通信機器を使いこなし、大人が考えつかなかったような新しい使い道を発見したり、そこから得た情報を活用して自らの可能性を切り拓いている。
さらに、阪神・淡路大震災や日本海の原油流失事故の際に見られたように、青少年の社会貢献に対する関心の高まりも見逃してはならない。ひと昔前までなじみの薄かったボランティア活動が今日のように脚光を浴び、また、社会生活の中で不可欠な活動として定着しつつあるのも、人の役に立つ喜びを実感しつつこうした活動を支えている青少年によるところが少なくない。
柔軟性に富み、活力に満ちた青少年は、いつの時代にあっても、将来の担い手として期待される社会の宝である。
しかしながら、現下の青少年を取り巻く状況をこのまま放置すれば、青少年の非行等問題行動の状況がますます悪化するおそれがあり、我が国の将来に禍根を残すとの認識の下でね早急に対策を講じる必要がある。そのことにより、自立した青少年が、自らの夢を実現するために創造性とチャレンジ精神を存分に発揮できる、また、そのためにも伝統や文化を大切に受け継いでいくような社会になることを望むものである。
今の時代は、個人の才能をいかんなく発揮させるためにどんな努力も惜しまないし、すべての可能性に進むべき道が用意されているとも言える。確かに、≪個性≫を開花し、氾濫する情報やモノに溺れることなく自ら生き方を選択して時代を切り開いている若者達の仕事ぶりには目を見張るものがある。何をするにも、知識もレベルもけた違いだし、堂々と「自分のため」と言い、「自分の力」を誇示できる彼・彼女等をうらやましく思う。しかも、プレッシャーに負けることなく自分の為に楽しみ、自分の力を最大限に発揮できるなんて、素晴らしいの一言に尽きる。
しかし、こうした≪個性化≫に成功した例はほんの一握りで、ほとんどは個人主義のはき違いの産物とも言える≪孤立化≫に留まってしまっているのではないだろうか。自己中心的で他人に関心が薄い人が増え、数多くの選択肢が認められていて、やりたいことができて、個人の時間が持てる、というのはある面では居心地が良い。かくいう私もこの恩恵を受けて暮らしているひとりだ。私の子供達も、私が子供時代に強要されたイヤなことを押しつけられることなく楽しい学校生活を送っている。≪個人≫の≪自由≫が認められる世の中にいられるのは幸せなことに違いない。
しかし、≪自由≫の名のもとで目先の「カネ」だけを追ってきたこの国は、今、その大きなツケを払わなければいけなくなってしまっている。よその国の「右へならえ!」で、うわべだけ取り入れた自由主義には以下の点が欠けているのではないだろうか。
- 自分の≪個性≫を認めることは、他人の≪個性≫を認めることとセットになって始めて成り立つこと。
- 自分の≪自由≫と他人の≪自由≫を共存させる為にはルールが必要なこと。
- 人のすることは、直接の関係はなく迷惑もかけていなくても、間接的に係わり合っているものだということ。
- 経済的に自立することが≪個人主義≫なのではなく、自分の意志で決定し、同時にその言動に責任を負う≪自律≫ができていなければならないこと。
他人の気持ちや他人の立場など考えもしない≪個人主義≫の社会は、ただ、孤立した人々が集まって暮らしているだけの集合体に過ぎない。「よこならび」「人並み」をよしとして、自分の意志で決定することさえできない人々が経済的にだけ自立している集団を≪社会≫と呼べるだろうか。こうした戦後の「和製・自由主義」「和製・個人主義」の旗の元に育った人達が親となった今、その子供達の現状は、とても手放しできる状況ではないではないか。
かつて、高度経済成長の波に乗って、個室を与えられ、自分一人の空間の中で「人に迷惑をかけなければ何をやっても良い」と感じながら育った人達にとって、欲望や感情などというものは押さえるものでなくおう歌するものであり、「がまん」は美徳でありえない。欲と迷いは多ければ多いほどモノが動き、金になる。そんな風潮に乗って、かつて人の心を支配していた規則や規律は見直されるというより切り捨てられる一方だ。「こんなガマンはもう二度としたくない」という愚痴めいた主張が脚光を浴び、大手を振って歩きまわっているように感じているのは、私だけだろうか。
私達のような≪社会性≫の欠陥という障害を持った者にとって、生まれ持った≪社会性≫を成長と共に捨ててしまうようなこの時代を手放しで歓迎してばかりはいられない。一人一人が≪自由≫で互いの≪個性≫を認め合って互いに干渉し合わないというのならば、たいへんにありがたい。けれど、そのひとりひとりが≪孤立≫していて、自分のことしか関心がなく、自分のことしかしないばかりか、自分の為に他人を食い物にしようというこの世の風は、私達の「むきだしの心」にはとても辛く当たるのである。
どんな種類の障害だろうと、「障害」があっても一人の人間であり人間としての思いは同じだけれど「障害」の為にどうしても人の助けを借りなければならないこともある。本人達には「障害」がありながらも社会に共生しようという前向きの姿勢が求められるのも、人々がお互いに思いやり理解し合う≪社会≫があってこその話ではないだろうか。
人としての道=倫理を身につけることがなく、≪社会≫の一員という意識が欠けたまま育った世代というのは、心はコドモのまま体だけ大きくなった大人と言えるのではないだろうか。いま流行りのアダルト・チルドレンに限らず、時代全体が子供化しているような気がする。かつての日本社会が、オトナ的な論理で≪社会≫を楯にとってヒトの心を封じ込めてきたのに対し、というかその反動で、今度はコドモ的な感情で≪社会≫を成り立たなくさせようとしているのではないだろうか。
どちらにしても、相変わらずこの国の人々はこの国的な発想を抜け出てはいない。それは、
- 自分がしたイヤな思いは、もう二度としたくない。自分の子供や親しい人にもさせたくない。でも、他人がするのは構わないという「嫁イビリ」の理屈。
- 自分がイヤな思いをして我慢してきた経験を、他の人がうまく乗り切ったり・回避したり・楽しんだりしているのが許せない。つまり、人の幸せを素直に喜べず、人の不幸に同情してひそかな喜びにするという「判官びいき」の理屈。
- 波風を立てるようなことはしたくない、自分一人だけ浮きたくない。けれど、一緒にやる仲間がいれば何でもやってしまうという「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という考え方。
これでは、足を引っ張り合うばかりで何も変わっていかないし、イジメの輪を断ち切るどころか永遠に「しかえし」の繰り返しである。このように、≪自分≫と違う≪他人≫を認めようとしないコドモのココロのまま≪孤立化≫する人々の前には、変わっている・オリジナル・ユニークという≪群れない≫ことを信条としながらも≪社会≫とのつながりを求めるアスペの存在などはうっとうしく、格好のイジメの対象になるのは容易に想像される。
いま、この国の人々に必要なのは、「いい意味でのオトナになる」ことなのではないだろうか。ひとりひとりが違っていて・互いを認め合って・互いに思いやり合うことのできる≪社会≫が実現してこそ、アスペがアスペを主張していこうというこのHPも存在価値を持てるのである。
最後に、先の報告書で、「いま・なすべきこと」として述べられている部分を要約して、終わりにしようと思う。といっても、抽象的な一般論でしかないのは残念だ。その中で具体的対策として挙げられている事柄はまだ何も実行されていない。「もっと・子供を!」の政府広報CM以外、行政は何も効力のある政策を打ち出してはいない。確かに、最近学校を通じて伝わってくることの中には、この報告書の内容に関連すると思われることが多数あるけれど、未だひとりひとりの意識を変革するには程遠いと言える。
(1)基本的認識
- 大人や社会全体の歪みが青少年に投影しているとの観点から、我が国のこれからのありかたの問題としてとらえる必要がある。
- 戦後50年の我が国社会のあり方が問われている。「自由」「人権」と「公共の福祉」「規律」のバランスをもう一度検証するべきである。
- 社会全体の規範が低下している。大人社会の享楽的・拝金的・自分本位・思いやりや愛のなさが青少年に反映するのは当然。
- 時間的・空間的にゆとりがなく、じっくり悩み、試行錯誤の過程を経てそれを解決するという経験を重ねることができなくなっている。
- 青少年が主体となって、自らの問題として考え、取り組む機会を多くすることも必要。
- “地獄への道は「善意」で敷き詰められている。” “悪いことは悪い”ということをはっきりさせ、真剣に叱り、厳しく罰し、子供に課題を突きつける態度が大人にも社会にも必要。また、子供と真剣に語り合うことが重要。
(2)少子化への対応
- 家族関係の希薄化をもたらす少子化への対応は不可欠。「子育ては社会全体で支援する」という共通認識を持って家族の就業と子育ての両立を図る必要がある。
- 男性中心の社会制度を改めること、父親の教育への参加も必要。
- 子供が一人で豊かさを独占できるようになって、プライバシーや自由が家庭内では満たされている。その為、子供の欲求を際限なく膨らませ規範意識や忍耐力を失わせてしまっている。一方、学校は相変わらず集団を前提としたシステムのままである。中高生に個性に応じた選択の自由が認められて良い。
- 保育所をすべての子供を対象とした公共サービスとして活用すべきである。
(3)具体的対策の基本的方向
- 「親」としての成長を促し、母性・不正を豊かに育むような支援システム作りが必要。
- 父母をはじめとする地域の人材を学校教育に活用することが重要。多用な職業観や価値観を育む取り組みが学校で行われるべきである。
- 社会生活のルールを守り、人間が人間らしく生きていくという、規範意識を育む必要がある。
- 学校内に子供の悩みや不安の相談に乗ったり、気軽な話し相手になったりできる人を配置する必要がある。
- 自然や本物に接する「自然体験」、異年齢児との交流やグループの中での「生活体験」が必要。
- 学校外・放課後の青少年の居場所作りが必要。
- 青少年の問題行動に適切な対応をする必要がある。
- 国際化・地球化する社会の中で、異文化に開かれた学校になる必要がある。
- 教育産業の商業主義の行き過ぎに対し、教育的観点を持って行動することを望む。
- 社会環境の浄化。
上記、太字になっているところは「ペンギンくらぶ」の活動とこのHPの主張と重なっている部分です。「ペンギンくらぶ」は、もともとは「自閉症」「学習障害」などの特殊教育の場でした。しかし、全ての子供たちは「個別教育」を望んでいるし、みんなが安心してお金を使わずに集まれる「居場所」も必要としているのです。
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