同類のカン

  1. 社会性の無さの為に、「正論」を述べて処刑されてしまったソクラテス。(西洋哲学の原点とも言える彼に社会性を与えたのは、弟子のプラトンだった。)
  2. ナポレオン皇帝を、"フロックコートを着たコガネムシ"と形容したファーブル。
  3. 天皇の子であり、位の高い寺の住職だったのにもかかわらず、普段はみすぼらしい格好をしていた一休さん。 (まぁ、この人は、お友達の蓮如上人と一緒に思想に基づいて意図的にやっていたのでしょうけれど。)
  4. 庄屋に生まれながら、家を捨てて庵住まいをした良寛さん。
  5. 放蕩の俳人、山頭火。

実に、彼らの才能はその社会性の無さと表裏一体をなしているのです。この内、良寛さんだけは、アスペルガー的なエピソードがいっぱいあるけれど、この人達のすべてが自閉症やアスペルガー症候群だったわけではありません。ただ、私は、これからの世の中がこれらの天才を育む余裕を失っていることを危惧しています。

とはいえ、私のように何のとりえも無いシタッパの凡人は、生きて生まれなかったか・育たなかったか・虐待されて殺されたか・発狂してしまったかのどれかだったのに違いないから、とりあえず生きながらえていることに感謝しなければならないのだろうけれど…。今は、医学の進歩のお陰で、生まれそこないかけた子どももできる限り生存させてくれるし、近代教育の理念のもとに、生まれてきたすべての子どもに一様に才能をのばす機会を与えてくれます。でも、その実態は、皆が皆やる必要の無いことまでさせられ、人々を平均化しようとしてコンプレックスを与え、かえって、骨抜きにしてしまっているような気がします。

自分の体そのものが不快だったり・自分の体を操作することがタイヘンだったり・物理化学的な刺激に反応してしまってひとつのものをまとまった像として捕らえることが困難だったり・脳内に無駄で過剰な電流が流れていたり・特定のものに異様に固執したり…。その結果、自分の外の事象やニンゲンに注意が向かなくなっている、こんな人たちが、今の時代の教育する側や予想された画一的な反応を期待する社会にとっては邪魔な存在でないわけありません。でも、一方、そうでなければできない発想のできる貴重な財産でもあるはずなのです。

そういう人達のことが、科学的・医学的に解明されつつあると言ってもなお、最終的には親や教育者、いや、人としての一対一の付き合い・係わり合いがものを言うような気がします。

三重苦のヘレン・ケラーに、流れる水の感覚とwaterという単語のスペルを結びつけて、コトバというもの・意味というものを教えてくれたのは、サリバン先生でした。自閉症の子供にも、コトバには意味があり・その意味を共有することで人と人とが通じ合えることを理解しただろうと判る瞬間があります。そして、他人にも自分と同様の「心」や「気持ち」があり、モノと同じに扱ってはいけないことを理解したと思える瞬間があります。

私が、そういう子ども達の世界に容易に入り込めるのは、私の同類としてのカンのお陰です。でも、これは、同類でなければできないわけではなく、適切な距離感と情熱を持ってすれば誰にでも出来ることのはずです。要は、理屈や理論や学説ではなく、一人の人が一人の人に真剣に向き合えるかどうかの問題なのではないでしょうか?


           

「再び、私って何者?」へ   「ペンギン日記」へ    「告知と自覚」へ