ほんとのところ

 

最近、ちょっと物分かりが良いようなことを言い過ぎてしまっているので、今日は反省してみようと思う。それに、いっしょに出来ないはずの専門用語が、ゴチャゴチャになっているところを整理する必要も感じています。

 

「アスペルガー症候群」らしい。親戚にアスペっぽい人が

多い、不安・強迫神経症の人もいる。知能は高い。

子供たちの父親 「注意欠陥障害」らしい。この家系は三次元的な空間の認

知に優れていて、"職人"的な感性を持っている。その為、

「学習困難」で、社会性も欠けている。

私の子供のひとり 診断は「注意欠陥・多動症」。

だけど、「アスペ」らしきところが多分にあって、なおかつ、

「学習困難」でもある。少なくとも高機能ではない。

「多動」が落ち着いてきて穏やかにはなった。他の問題は、

目立たなくなっても、改善されたわけではない。

もうひとりの子供 一緒に病院に連れて行った時に、「この子もひどい。」と言

われた。このところ、「注意欠陥・多動症」がピークに達し

ている。日常生活習慣の習得と言葉の理解に難がある。

「ペンギンくらぶ」の子供達  いわゆる自閉傾向という程度の「自閉症」。「学習困難」が

ある。社会的認知の障害も大きい。

「遊び場」の子供達 上記の子供達の同級生。健常な近所の子供達。

 

 

こういった面々がひとつ屋根の下に集うような家が、理想的な「家庭」だとはとても言えないでしょう。「機能不全家庭」じゃないかと言われても仕方ありません。

そもそも、あまり害は無いけれど人に安らぎを与えない・イヤなヤツである私がいるだけでも十分なくらいです。そこに、手放しできない子供が二人いるなんて。さらに昼間は、障害のある子・ない子が始終出入りしているときている。そして、本当の戦争は、その子たちが帰ってから始まり、二人の子供が寝るまで続くのです。つまり、我が家は、年中無休・二十四時間営業の≪本人≫たちのルツボというわけなのだ。

「そんな子供達がアダルト・チルドレンになったらどうするんだ?」って?

でも、うちの子供達は、「精神的には幼児のままで、大人的な言動(処世術)を身につけてしまうような社会性」など持ち合わせていないのです。幼児性がぬけないのは、情緒でなくて認知や情報処理の過程に起因するものだし、そもそも、社会的な文脈が読み取れないから苦労しているのではないか。それよりも、もともとの障害をこじらせて二次障害を起こさないようにするのが大変なのだ!すなわち、「愛されていない」実感から起きる、過緊張や不安といった…。

普通の家庭とは違って、「Play Room」があると、子供が自由奔放にのびのびとできます。障害児には、興味があること・得意なことを伸ばすのに役立つし、そうでない子供達にとっても、子供たち自身が影響し合って育つ環境が自然に出来ます。それに、少子化の進む核家族のように「少数の子供が少数の大人とが閉ざされた空間の中で向き合う」という息苦しさもなければ、放任された子供のように「大人の目の行き届かないところで、甘えられない寂しさと子供じみたサル知恵をふくらませる」余裕もありません。

とはいえ、障害があって「できない」からといって「やらなくいい」とは言えないから訓練しているなんて、それだけでも、温かみのある家庭とは程遠い。いや、事実、そうなのです。その上、子供が集まるとなれば、トラブルも起きる。それは、社会性に欠ける人同士の衝突だったり、社会性の有り余った子供と欠けている子供の間の行き違いだったりするけれど、ただただ聞き分けの良い・お世話役のオトナでいる訳にはいかない。私的空間なはずの「家」がこんな風に公共の場になり、教育の場でもあるというのは良くないと言われるかもしれない。

それでも、昨今の家庭事情では、親子の間で共感できる部分があるのは"幸せ"な部類に入るらしい。ゲームを通じて共通の話題があるばかりか、「障害」という共通項まであるのだから。親子で同じ≪疎外感≫を味わえるなんて、不幸だからこそ味わえるシアワセではないだろうか! 

本当のところ、アスペの私には、「自閉症」の要素が無い「注意欠陥障害」や「学習障害」には違和感があります。頭では解っていても、全面的に容認できない部分がどうしても残ってしまいます。その件に関しては≪本人≫にはなり得ないから、仕方ありません。でも、普通の人よりは親近感はずっとあります。どんなに「いいひと」でも、しょせん、普通の人は普通の人につく、やはり、本音で喋って安心なのは多少なりとも≪群れない≫要素を持っているものだ、としみじみと思う、今日このごろです。

私は田舎に住んでいて、日頃は、バラエティーの少ない限られた人にしか会えない窮屈さを感じています。でも、たまに都会へ行くと、エゴとナルシズムが服を着てとげとげしく歩いているようで、寂しい気がします。「体」と「心」がシンクロしていなんて、まるでエヴァンゲリオンみたいだけど、現実に存在していない人間の方に親近感を感じてしまうのは事実です。書物の中の人物・死んでしまった人の作品・架空のキャラクターというような。

まぁ、身体的にはどこも欠けていないけれど、運動能力・知力・身の回りのこと・人情…といった、いろんなことが「できない」というのは、不利に違いありません。マイナスから始まる人生には、辛いことがいっぱいある。でも、だからこそ見えてくるものもたくさんあります。例えば、生命の危機もないのに、「ここに・こうして生きている」実感を味わえるし、ねずみ色一色だったところに赤い色が加わったとかいうことに感動できるし。それは、とっても幸せなことです。


                   

「他人を平気でいじめる人困らせる人」へ  「ペンギン日記」へ    「トラウマ」へ