幸せと不幸の間
「自閉症」は、言葉と行動と学習能力の障害だと思っているあなたに。
言葉の遅れと問題行動が落ち着いて、生活に必要な技能とスキルを身に付けさえすれば、周りの人はホッとするかも知れない。そこから先のことは、困るのは本人だけだから、誰も研究しようとさえしないだろう。
「自閉症」のためにいろんなことが出来なかった人は、自分が「自閉症」で「それは、できなくてもいいことだった」と判れば、安心するだろう。
でも、「自閉症」だと知らなくて、ニンゲンの振りをして悪戦苦闘してきた人は、「やらなくてもいいこと」「できるはずもないこと」を無理してやって来てしまったことに愕然とするしかない。他者との照合が全くないのだから、おかしいのは他者の方だと思っていたら、実は自分一人だけが違っていた。でも、もう既にそこから逃れることもできない。
障害を軽くしてやったら、生活できるようになったら、本人も幸せになるだろうと思って育てている人もいるだろう。しかし、障害は軽くても・生活ができても、間違いなく不幸になる本人もいるのだ。
「自閉症」だと判らなくすることを目標に掲げて訓練に励んでいる人もいるだろう。でも、「自閉症」に見えない「自閉症」なんて、これほど不幸なことはないのだ。
「自閉症」でも一人前に成れることを喜ぶ人もいれば、「自閉症」なのに一人前にやらなければならないことを悲しむ人もいるのだ。
みんなと仲良くできるようになりたいと思っている人もいれば、もうニンゲンは「ゴメンだ!」と思っている人もいるのだ。
いかにして「普通」になったかを誇らしげに語る人もいれば、いかに「普通」になりたくなかったかと訴える人もいるのだ。
しかし、世間は、「自閉症」でも一人前に成れた人・人と仲良くしている人・「普通」になった人しか賞賛しない。可愛くて・特殊な技能を持った人しか表に出そうとしない。何故なら、それが「世間」から期待される「自閉症」者像だから。
「自閉症」者の幸不幸は、障害の軽重には関係ない。
どういう環境に置かれるかなのだ。
本人に何ができて何ができないかではなくて、
どういう人に出会えるかなのだ。
「誰かの役に立っている」と信じられることなのだ。
しかし、日本では、
全てにおいて逆の扱いを受ける。
私は「自閉症」だから、「こういうことはできません」とも、
「こういう風にして下さい」とも言えないのだ。
いや、その前に、
「私は自閉症だ」とも言えないのだ。
だから、「できること」だけさっとやり、
「できないこと」からはそっと逃げるように教えるしかない。
こんなところにいたのでは、
良いことなんか、何も無い!
早く、この国を、どうにかして!
こういう人が生まれないように排除してくれていた昔の神の方が、よっぽど慈悲深かった。生命を維持することだけに躍起になって、助かった後のことを考えないニンゲンは、悪魔だ。
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