身体性学習障害
「身体性学習障害」なんていう用語は、本当にはありません。簡単に言えば、言葉や文字といった「言語」的な学習能力とは違う、「非・言語」的な学習能力のことです。ただ、「非・言語性学習障害」と表現してしまうと、これを診断名として使用することが妥当かどうかという論争に巻きこまれてしまうので、敢えてこういう言い方をしてみました。
さて、他者の身体(表情・身振り・手振り・しぐさ・姿勢・恰好・服装・声のトーン…)を通して他者の「心」が読めない事に悩むのは、ごくごく普通のことです。それから、子どもに「どのようにして"心"を発見させるか?」とか、「どうすれば、思いやりのある(愛他的な)子どもに育てられるのか?」という『心の理論』の研究は、何も「自閉性障害」の謎を解明する為に始められたものではありません。『心の理論』がない子どもの例として「自閉性障害」児が対象にされ、それ以来、「自閉症」を説明する理論の一つになったのです。
また、「注意」の欠陥が重篤なADHD児(多くは、LDを合併している)でも、『心の理論』はちゃんとあるのに、他者がいることに気がつかなかったり、他者の行動の意味が分からなかったりして、ソーシャル・キューを見落としてしまうことがよくあります。こういう子どもは、人の気持ちが全く解からないわけではないし、社会的な欲求や感情がないとか、社会的な相互作用がないというわけでもありません。単に、注意が向かない、或いは、解かっているけど自分の感情が優先してしまっています。
(解かっていて、ワザと〔故意に〕人の気持ちを逆立てることを言ったりそういう行動をするのは、「反抗挑戦性障害」です。ADHD児が、「注意の障害」のためにしてしまう行動を「悪い子」として非難され続けると、合併しやすくなります。こうなると、自己の不満感が肥大してしまうので、「思いやり」どころではなくなってしまいます。)
発達障害児が〈人〉の「心」に気づかないのは、まず最初に、「心」以前に身体の問題があるからです。自分自身の身体知覚や身体図式を持つことに困難があったり、空間の認知が悪く自分の身体の位置が分からなかったり、人との距離感が分からなかったり、人の動きを予測してそれに合わせて自分が動くことができなかったりします。これは、身体性の学習障害の一つ、「発達性協調運動障害」に関連することでもあります。
それから、人の行動の意味が分からないとか、一つ一つの動作にどんな意図がこめられているか分かっていないとか、表面的な見た目の面白さに囚われて心情が推測できないとか言うような、情報の読み取りの悪さといった要素もあります。それは、「注意」の問題のこともあるし、言語化して説明しなければ分からない場合(それこそ、発達検査で「言語性IQ」>「非・言語性IQ」であるという意味での「非・言語性学習障害」)もあるでしょう。
しかし、『心の理論』課題で知ろうとしているのは、他者の身体を通して他者の「心」や「気持ち」を読み取れるかどうかということではありません。
また、『心の理論』を獲得したからといって、「おもいやりのある子」にもならず、「人の気持ちが分かる子」にもなりません。それは、どうしてでしょうか?
『子供はどのように心を発見するか−心の理論の発達心理学−』では、このように説明されています。
子供が人の考えや欲求、感情、知覚について話せるようになると、情報を他者と分ち合う、つまり人に物を見せたり出来事を話したりできるようになる。また共感できるようになる。つまり、人がなぜ悲しんでいるのか、どうやって慰められるのか理解できる。そして「人は、欲しい物が手に入るとうれしいだろう」と理解できる。またのちには、「人は〈欲しい物が手に入る〉〔たとえば注文したピザがもうじき届く〕と思うとうれしいだろう」と理解できる。あるいは「人は〈欲しいのだと分かった物が手に入る〉と思う〔たとえば届いたピザは欲しくなく、ケーキが欲しかったのだと気付き、ケーキを買いに行こうと思う〕とうれしいだろう」と理解できる〔欲求と経験の複雑な相互作用が発達とともに理解される〕。
ただし、考えや欲求、感情を理解できても、必ずしも愛他的行動につながるとは限らない。他の要因も働くからである。いっぽう、こういう理解は、マキアヴェリ主義のずる賢い策略という目的にも利用できる。すなわち心的状態の理解は、人を欺いたり、嘘をついたり、物を隠したり、秘密にしたりするためにも必要なのだ。五歳までに、子供はこういうことをぜんぶできるようになる。(P239)
五歳までにこういうことが全部できるようになったニンゲンたちに、小学校5〜6年(もっと早い人も遅い人もいます)でやっとそれが分るようになる「自閉性障害者」が太刀打ちできるはずがなーい!!! と、叫んだところでどうしようもありません。
それだから、学童期の「自閉性障害」児の多くは、全く悪気も意図もなく非・社会的な行動や発言を"してしまう"のに、「欲求」や「感情」を引っ付けて解釈されて「悪い子=反・社会的な子ども」扱いされてしまうのです。いや、どちらかと言うと、五歳までに『心の理論』を獲得した健常者に騙されたり嘘をつかれたりして、被害者になることの方が圧倒的に多いと思います。それから、『心の理論』を獲得した思春期以降は、一生懸命に人の気持ちを推測して人の為に何かをしようとするのに、ことごとく的外れ・場違いで、逆にどんどん人から孤立してしまう結果になります。
「自閉性障害」者の場合、かなり遅れ馳せながら『心の理論』を獲得して、やっと行動は落ち着くけれど、その反面、もともと持ち合わせていない「欲求」や「感情」や「他者からの視点」を理屈でカバーしようとするので、抑うつ状態に陥りやすくなってしまいます。『心の理論』を獲得したからといって、〈人〉の「心」が本当に解かるようになるわけではないのです。
では、『心の理論』をうんぬんするのは、いったい何が目的なのでしょう?
『子供はどのように心を発見するか−心の理論の発達心理学−』では、こう説明されています。
われわれの教育制度で成功するのに必要になるのは、[子供]が言語と思考を内に、自分自身に向けるということである。子供は、自分の思考過程を、思慮深い方法で方向づけられるようにならねばならない。ただ話すだけではなく、言うことを選び、ただ解釈するだけでなく、可能な解釈を比較検討しなければならない。子供の概念体系は、ますますそれ自体を表現できる方向に拡大しなければならない。(P251:マーガレット・ドナルドソンの著書からの引用)
状況にふさわしい行動を自分で意識的にとれるようになるのは、こういう、「思考の内言と外言を使い分けることができるようになる」という言葉の発達の時期と一致するそうです。そして、健常児の場合、それもやっぱり四歳半前後だそうです。
ふむふむ、「アスペルガー症候群」の思考内語をしゃべってしまう傾向・「自閉性障害」全般に見られる音声つきの独り言・「ADHD」児の多弁症などは、確かに音声言語の使い分けができていない状態です。しかも、こうした「言葉」の発達と自己の行動調整とが連動しているというのも、同じです。ただ、その時期が非常に遅いということを除いて。
しかし、「社会性」がないと一口に言っても、周囲に「注意」が向かないこと(ADHD)が原因なのか、それとも『心の理論』が欠如している(『心の理論』課題通過以前の「自閉性障害」者)ためなのか、「かかわり」「コミュニケーション」「感情の共感性」の三つ組みの「障害」(生涯にわたって続く、『心の理論』によっても補償されない「自閉性障害」の本質)に根ざすものなのか、というところで問題の所在が随分と違います。
通常は、子どもは五歳までに二次的なシステムになる。それまでに子供は、〈心とは独立した現実〉の概念と、〈この現実についての人の信念〉の概念を獲得している。「同じ現実についても、人によっては異なる信念をもつことがあり、信念は変化することがある」と認識する。この前提をもつことによって、〈話し合い〉が可能になり価値あるものになる。また、「人は自分の知識を、知覚や伝達によって構成し、異なる感覚様式からは異なる情報が得られる」と理解する。(P244)
話し手が不完全な表現をして、聞き手がちがう絵を選ぶ状況を子供に見せ、「何が悪いのか」(失敗は話し手のせいか、聞き手のせいか)を尋ねた。すると五歳では、「聞き手がまちがって選んだのが悪い」と言う傾向があった。ところが、七歳までに、たいてい「話し手が不確かなメッセージを言ったのが悪い」と言うようになった。(P249)
やっぱり、「話し合うこと」「伝え合うこと」「知り合うこと」という、「人と人とが互いにかかわり合う≪社会的相互作用≫」ことが障害されている(できない)という、いつもの"壁"に行き着いてしまうんですねえ!
だからね、空間での身体の位置関係が認識できても、他者の表情やしぐさの意味が理解できても、自分以外の他者の「心」に気づいて行動調整ができるようになっても、「自閉症」は「自閉症」なんです。なんてったって、"自分の身体"と"自分の存在"自体が「社会的」でないんですから。
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