私とあなたの間

  1. 全か無か思考(少しのミスで、完全な失敗と思い込む)
  2. 一般化のしすぎ(たったひとつの事例を、すべてにあてはめてしまう)
  3. 心のフィルター(そればっかり考えてしまう)
  4. マイナス思考(良い事でも、悪い方に考えてしまう)
  5. 結論の飛躍(他人の心を読みすぎる・しかも、誤まった先読みをする)
  6. 破滅化への拡大解釈と、自己の過小評価(いつも、自分は悪いと思う)
  7. 感情的決めつけ(そう感じているだけなのに、事実だと思ってしまう)
  8. 〜すべき・〜せねばならない思考(自分で自分を縛って息苦しくしていると同時に、他人にも当てはめ、"その通りでない"と怒る)
  9. レッテル貼り(一度決めつけた印象を、変えようとしない)
  10. 自己関連付け(失敗の責任を自分一人で負ってしまう)

さて、これは何でしょうか? 

 

これは、うつ病の「認知療法」で、"してはならない"とされている、誤まった思考法です。       

参照: 認知療法(BANBAN's HOME PAGEより)
  認知行動療法の基礎(Y−TAKA メンタルクリニックより)
  勉強を楽しくするテクニックよりうつ病と認知療法と教育

人が人と係わり合う、などという人として当たり前のことをする時に、上記1〜10のような考え方を頭の中でしているなんて、バカバカしいと思うでしょう。でも、してしまう。と言うより、こういう思考回路が、生まれつき私の頭に埋め込まれていたのです。

それは、ある日・ある時・突然、やって来ます。ちょっとした出来事がきっかけになることもあるけれど、だいたいは、絶好調で、いい気になって浮かれた直後です。喜びの有頂天から、まっさかさまに落っこちます。調子に乗りすぎると危険だと警戒していても、やっぱり、ハマッテしまいます。「今度こそ、大丈夫」と思ってかかったはずなのに、「また、やっちゃった」の繰り返しです。その周期は、長い事もあるし、ほんの数時間の間に起きることもあります。

落ち込んで、「すべてが終わり」という文字が頭の中を埋め尽くし、最悪のシナリオを描き続けている時の私は、確かに"うつ"状態です。でも、私は「うつ病」ではありません。でも、"うつ"状態の人が囚われているこの思考法は、パニックを起こしている時の、私の頭の状態とよく似ています。しかもそれは、あまりにも天真爛漫で・無邪気で・純粋で・お人好し過ぎて、人に騙された失敗経験をした結果、なってしまったわけでもないのです。

自分のやろうとしていた通りに物事が進まなかったり、途中に予定と違う用事が入っただけでも、一時的にパニック状態になります。さすがに、それで落ち込みはしません。が、相手が「人」だと、どうしようもなくなります。何でも、始めから「こういうものだ・こうするぺきだと決めつけて」かかれば、ほんのちょっとでもその通りでないと、とたんに「終わり・もうダメ」になってしまうのは当然です。だから、色眼鏡やフィルターをはずして、"あるがまま"受け止めてみました。

けれども、やっぱり、起きます。

一方の端からもう片方の端まで、極端に走るこの波こそが、積み重ねてきた努力や経験を、ブチブチと切り離し、私から「人生」を奪って行く張本人なのでしょうか? これは、もう、潮の満ち引きのようなもので、避けられないものなのでしょうか? これを防ぐには、余計な事に手を出さず、何が起きても知らん顔している以外に、方法は無いものでしょうか? それとも、何も起きず、誰もいないところに逃げ出すしかないのでしょうか?

かと言って、社会的に好ましくない行動をするような事もありませんから、ドナさんのように、戦って打ち勝つ必要もないような気がします。あとは、こんな自分を愛するしかないのでしょうか? 

そう、私には、日常生活に不都合な行動障害がない。それに、社会に受け容れ難いような、明らかに不適切な行為をするわけではありません。だから、「自閉症」ではなくて、「自閉症スペクトル障害」なのです。しかも、厄介な事に、「自覚」して開き直り、≪自閉的≫なままこの世に居座ろうと覚悟を決めてしまったのです。

 

 

思えば、私がまだ「自分一人の世界」にいた頃、私の頭の中にあったのは、物的な世界でした。

小学生の頃の私は、社会的に孤立していたわけではなく、家族や友達に囲まれ、それなりに係わっていました。でも、頭の中には、常に、自分のシナリオがあり、私は監督でした。いや、少なくとも家の中では監督でないと怒りました。そして、明らかに監督には成れそうもない家の外=学校では、おとなしくみんなと同じにしていました。ただ、一日に一回、家に帰ってから夕飯ができるまでの間、動物の人形を思いのままに動かして「自閉的ファンタジア」に浸っていられる時間がありました。その時ばかりは、周りで何が起きていようとも自分一人きりだったし、自分の描いたストーリーは必ず思いのままに実現しました。

やがて、中学生になり、カーペンターズとビートルズに出会い、イエス・ELP(エマーソン・レイク&パーマー)といった、当時プログレッシブ・ロックと呼ばれたジャンルへと足を踏み込んでからは、人形遊びを卒業して、音楽が私の「世界」になりました。この音たちは、一日中頭の中でグルグルと回り続けていました。そして、帰宅すると、私はしばらく、ヘッドホンで外界を遮断して「音たちの世界」に浸りました。何度も何度も、同じ曲を聴きました。時期ごとに狭い範囲の中でお気に入りの順位があり、限られた選択肢の中から、その日の気分に合わせて選ぶのです。ただし、新しいレコードが仲間入りした時は、気に入ればそればっかり聴きます。しばらくして飽きてくると、今度は順位のどこにそれを入れるか悩みます。大幅な入れ替えがある時は、2・3日それに懸かりきりになって、音楽を聴く暇もありませんでした。

当時の私は、世間で何が流行ろうと、クラスの話題がどうあろうと、自分からは、これらのロックグループの音楽とメンバーの事しか話しませんでした。物質的で異様な物に執着するような事はなかったけれど、明らかに限局した狭い範囲の興味しか持てずに「常同行動」にふけっていました。こんな時期に、「人間」に注意が向くはずがありません。

しかし、お喋りだったせいで、私はよくボロを出しました。その当時は、どうしてか全然わからなかった。けれど、口を開くたびに、私が私一人の世界にいたことがバレていたのでしょう。とにかく、人と会話する時に、自分が何をどのように言ったら良いのか、さっぱり分からない。お陰で、「もう一生、黙っていよう!」と決断すると同時に、「自分の言葉」は世間では通用しないと、充分に学ぶ事ができました。例えば、絶対・一番・決まっている・〜に違いない・あたりまえ…、といった言葉は、すべて打ち砕かれていきました。そして、それらの語の前に「自分は」とか「自分にとって」という語句をつければいいことを知りました。でも本当のところ、「どうせ、自分はここに生きてはいないのだから、どうでもいい」と思っていました。

他者の「心」に気づき、自分がどう見られているか気になり始めたのは、ちょうど、この時期だったのでしょう。それは、「心の理論」を獲得したと言うような、劇的なものだったのでしょうか? どちらにしても、物よりも人に関心が向くようになったのは、確かです。そして、人と係わろうとして、思うようにいかず、「どうせ自分は理解されない」「この世に居場所はない」と思う度に、"うつ"状態でいる時間が長くなっていきました。しかも、自分の「想像力の欠陥」が原因だ、なんて知る由もありませんでしたから、ますます、現実からかけ離れ、思惟だけの世界に逃避して行きました。

それでも、抽象的な観念の操作が苦手なタイプの人だったら、現実の世界に留まり続けるしかありません。学生時代にひどい「いじめ」に遭う人達は、そういう人たちなのかもしれません。私は、逃げ込むところがあったので、学校と言う場に籍を置いている限り、大きなトラブルもなく過ごせました。そして、人は自分を裏切るものだと決めつけて、自分が常に外にいる孤独を楽しんでいました。本当は、人に好かれるように努力するべきところだったのでしょうけれど。自分が正しいと思いこんでいたお陰で、「人はそれぞれ"違っている"から、お互いに尊重し合って干渉しない社会を創ろう」なんていう、素晴らしい信念の持ち主になってしまいました。

私は、カナー・タイプでいた時期が一度もありません。目につくような行動障害もありません。確かに、程度は"軽い"のでしょう。でも、読解力はないし、語学もダメ、人間関係も保てない、根気もない、というわけで、学問の道にも進めませんでした。もっとも、自分でやめてしまわなければ、できたはずなのに…。自分で自分の経験を否定して、可能性を断ち切ってしまうのが、最大の欠点です。

 

 

パニックは、自分の能力や他者の言動が、自分の思った通りでなかったという「物−自分−頭の中の計画書」との間にギャップがあった時に起きます。対人関係が原因で起きると、確実にこじれます。といっても、ほとんどが一人芝居です。例えば、人の表情を読み違えて、嫌われたと思い込む。疲れた顔と不愉快な顔の区別がつかないのです。そして、食ってかかる。また、ある時は、"待つ"ことができないばっかりに、相手からの反応が遅いというだけで、ダメだと思ってしまう。つまらない理由で、しょっちゅうパニックになり、"うつ"状態に陥ってしまいます。

普通なら、他人が自分の思い通りでなく、しかも、善悪の秤にかけて、×とでた相手を攻撃する場合は、"怒り"になり、時には正当な"意見"にもなります。ここで、自分に怒りを向けることができれば、"向上心"にもなります。平静でいられる時には、こういう通常の反応もあって、私のHPの他の部分はそれを反映しています。しかし、突然、落ち込んでしまうのです。そして、最後はやっぱり、逃避です。

というわけで、私とあなたの間は、永遠に開いたままです。そして、辿り着いた結論が、私自身はそのままで、「自閉的ファンタジア」の世界に公然と逃げ込むことだったなんて。結局、中学生の時から、少しも進歩していないのかな? そんなこともないと思う。その間に起きた出来事は、とっても有意義だったし、私にしかなし得ない特権だったのだから。

でも、自分が「自閉的」じゃなかったらどんな人生だったろうかと考えはしない。けれど、「もう少し早く気がついていたら…。」という悔いは、どうしても残ります。

 


                   

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