話をするのが不可能なことについては、人は沈黙せねばならない。
最近、びっくりすることが多すぎる。
- 私みたいな宇宙人(正確に言うと、自分を宇宙人だと思っていた人間)は一人きりだと思っていたら、仲間がいたこと。
- それは「自閉症」或いは「自閉症スペクトル」に属すると呼ばれていて、今では子供のうちからちゃんと「診断」されていること。
- その仲間とは、「共感」できる部分があること。
- でも、仲間と言っても一人一人がみんな違っていること。従って、これが「自閉症」だという典型的な臨床像はないこと。
- かつて、「知性」だけのキャラクター(ドナさんの言うところのウイリー)だけで突っ走っていた頃の自分は、恐いもの無しで自信に満ちていたが、実は全く「世間知らず」の「人間知らず」であったこと。
- それまでは一方的に自分の見た物事を実況中継する為にあったはずの「言葉」が、実は周囲の人が私に向かって話しかけているものでもあったことに小学校5年生の時に気づき、中学2年の時に"他人がしていない振る舞い"を封印しようとし始めて以来、「抑うつ状態」に陥っていたこと。
- しかし、もともとの天真爛漫な「感性」のキャラクター(ドナさんの言うところのキャロル)が依然優勢で、自分が「感覚」的に落ち着いていられる場所以外の所を避けるという「消去法」で、「ここ」しかないという選択しかしてこなかったこと。
- 私にとってはあまりにも慣れっこになっていて、当たり前だと思って負担に感じていなかったたことが「普通」にはない事だった。それは、「状況の変容現象」とか「フラッシュバック」と呼ばれているもので、その恐怖に支配されて活動が制限され、その苦しさから逃れる為に行動を起こしていたこと。
- 自分が「したい」とか「できる」と思っていても、その後にそれが原因で「うつ状態」になるのであれば、「してはいけない」「避けた方が良い」「できていない」のと同じだと認識すべきものだったこと。
- 機嫌の良い人や私に関心を向けてこない人と一緒に居る分にはとても平静でいられるのに、ひとたび「人」の感情を感じてしまうと途端にいろいろ狂い出してしまう。どんなに私の欲求が充足していても、「人」に係わったこと自体が不安定要因になってしまうこと。
- そうして「外界」から侵食されて汚れてしまった「精神」をリセットする為には「音」(具体的には特定の曲をCDのリピート機能を利用して繰り返し聴くこと)、「身体」をリセットする為には「触覚刺激」(具体的には手首を噛むことと特定の物に触れる)が有効なこと。
- 自分では左脳優位で「理」が勝っていると思っていたら、実は「やたらと言葉数が多いだけの右脳人間」で、思いついたままにしゃべり・自分のことを書くしか能が無かったこと。
- 「自閉症」とは知らないままに、ある時期に構造化された生活(TEACCHのではない)を送ったことで社会生活が可能になったとはいえ、人に言われたことと人のしていることをサル真似して法則化した「普通の人間像」という型に、強迫観念的に自分がはまっていただけだったこと。
- 「世の中」に出ることには成功して他人と会話らしきものをしてはいるが、「人」に応える自然な「感情」がない為、特定の「用語」で特定の話題を語るだけで、日常会話用の言葉を持っていないということ。
- 思わぬところから予想外の反響が来て驚いてよくよく考えて見たら、目の前にぶら下げられた課題について思ったことや、それが「何と同じでどこが違うか」書き連ねていただけだったのに気づいたこと。
- 普段は「じへいしょう」の「じ」の字も言えない環境に暮らしながら、「自閉症」児の親たちが自分の子供を「自閉症」と呼びたがらないのは、単に「自閉症」を知らないだけだと思っていた。「自閉症」という名称が誤解されて広まっているなんて知らなかった。(「自閉症」の子供といた時の私はとっても幸せで、自分が「自閉症」だと知って謎解きができたときには嬉しかったのに!)
- 「自閉症」であることが活かせて安定している状態の時にはさほどでもないけれど、不利なことが多くて不安定な時ほどサポートが必要なのに、逆にそういう時ほど足蹴にされると知ったこと。
- 自分が一生懸命追いかけていたのは「自閉症」を語る言葉であり、必死になって取り組んで来たのは、「自閉症」の療育だった。その為に、自己像が分裂してしまったこと。
- 子供たちの為に「自分」のことを語るには楽しいけれど罪悪感がつきまとい、しかもあまりにもありのまましゃべってしまうと「親」の心情を逆なでしてしまうのではないか、という不安が頭をもたげてしまうこと。
- 「普通モード」と「自閉モード」をうまく切り替えることで、暮らしやすくなることが分かったこと。しかし、身体状態の良くない時と精神的に疲れている時は、コントロールが効かない。
- 「自閉モード」の時には、何か一つの「感覚」に意識が集中している。けれど、「音」を聴いてその「音」の波形や上がり下がりという平衡感覚を感じて楽しんでいることが分かったこと。
- 「普通モード」の時は、その意識を分散させているのではなく実は密かに何かに注意を集中させていること、そして一方では不快刺激の多い感覚を遮断していることが分かったこと。(例えば、混み合ったデパートを歩いている時は、BGMや店内放送を聞いていた。触覚は完全に遮断して感じないようにしていた。まるで絵画の中を歩いている感覚にしていた。)
- 人が一方的に講演している時には、人の話を聞きながら木の葉のユラユラやライトから発せられるの放射状の光を見ていたりしている方が、話し手の顔を見つめているよりも不安感が少なくてよく内容が分かる。声の聞き取りにくい人の話しを目をつぶって右耳で集中して聞かなければならないのは当たり前だが、それだけでなく、会話が始まると言葉を丸呑みにする為に同じ事をしなければならなかったことに気づいたこと。(だって、そうしないと何を言いたいのか分からないから。)
- 「話をするのが不可能なことについては、人は沈黙せねばならない。」(ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』より)と言われるように、人は話している主体について語ることが出来ないことに虚しさを感じるようになったこと。
- でも、「話をするのが可能なことについては、やはり人は饒舌になってしまう。」のはやむを得ないこと。
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