25才までのイノチ
−そういえば、今まで自分に関する具体的なことは何も書いていなかったことに気がついた−
生後25年経った或る日、意識状態は一点の雲も無い晴天のようにあっけらかんとしていたのに、全く動けなくなってしまうという身体症状が出るほどに精神的に破綻していた私が、ずっと見守ってくれていた師匠に言ったこと。
「そういえば、今まで一度も世の中で生きていなかったことに気がつきまして、家に帰ってやり直そうと思います。」
その時に貰った返事は、「いいところに気がついた。でも、あなたには、嘘がつけなくて、生まれたまんまの赤ん坊のように天真爛漫、という良いところもあるからね。」だった。
今から思えば、良いところ"も"と言われたのは、トットちゃんが「君は、本当"は"良い子なんだからね。」と校長先生に言われたのと同じことで、現状は"良くない"という意味だったのだが…。
それまでの私は、
- ドナさんのように、光の粒子の一斉放射を浴びてひっくり返ってしまうほどひどくはないけれど、奥行き知覚がない上に空間の光の軌跡が全部見えてしまっていて、あらゆる物に実在感が無いという、視覚過敏。(その中で、きっちりとした角度・線対称や点対称などの形・古代文様だけが、浮かび上がって見えていた。)
- 不快刺激が少なく、パニック発作などの神経症状も無いので大きな混乱はなかったけれど、平衡感覚とほぼ一体化した快刺激だったために、音が聴こえて来ると他のことが一切出来なくなってしまうという、聴覚過敏。(その実は、特定の曲の・特定の音の要素にだけ反応していた。)
- 発達性協調運動障害のために、操作性のよくない身体を持って人と同じように行動することに精一杯で、それがとっても苦痛だったこと。
- [自分が固執していることだけを→聞いてくれそうな人にだけ]夢中になってしゃべるという形でこちら"から"なら係われるのに、人"に"係わられることを拒否して自然に集団から離れ、何でもかんでも先回りしてやってしまっていたという、かかわり障害。
- 字の読み書きも就学前に習得してしまい、[読解力もないのにパズルを解く感覚で通ってしまった国語力]で[自分の状態を言い表わす言葉探しをするだけの哲学書や精神医学書]を読破していたお陰で、自分の語学力のなさに全く気づかなかったという、言語認知力の障害。
- "わたし"という自我の基盤もないのに、一才前からまるで実況中継するかのように自分から見えていることや自分の頭の中によぎったことを言葉に変換してしゃべりまくっていたのに、小学校の高学年になるまで、本当に人に対して"会話"というものをしたことがなかったこと。それから、直接話し掛けられてもいないのに、人が話している会話から"他人が私を評価していること"に気を使わなければならないことも知らなかったという、コミュニケーション障害。
- ありとあらゆるものに、法則や順番や秩序や決まりを見出してそれだけを拠り所にして、ニンゲンや世の中を情報化していたことが、こだわりの障害と呼ばれるものだった。いつしかそれが、自分自身の感覚や感情をすべて押し殺してしまうという、強迫神経症になっていたこと。
- 個人的な「感情」は人一倍豊かでとっても感受性が強いのに、社会的な感情や欲求が無いために、考えていること・感じていること・動機や要求が人と異なっていて、他人との間にほとんど共感性がなかったこと。(自然科学的な冷静な視点で書かれた「動物記」や、他人に媚を売れなかったために処刑されたり自殺してしまった人のことを書いた本ばかり読んでいた。)
- 学習能力が高かったので、同じ場面で誰かが言っていたことをセリフのように丸暗記したり、本に書いてあった解説やテレビを見ていて小耳に挟んだことなどを丸呑みにして、とりあえず他人の真似をして学校という構造化された社会を乗り切っていた。しかし、家に戻ると、ホッとして自分の思ったことをそのままズケズケしゃべっていたら、それを母親に指摘されて日中に人と接触した場面の外傷体験の想起の連鎖(フラッシュバック)が始まり、抑うつ状態になっていたこと。
というわけで、学校では問題行動を起こさず、学業成績も内申点も良かった私は、一流大学に入学できました。
こういう状態だったので、普通なら誰からも教わることなく生れ落ちたと同時にできていることが欠けたまま、ニンゲンのことも世の中のことも本当には何一つ知らなかったし、生きていくために必要なスキルも全くないままでした。「人は人と係わって人と共に生きているのだから、人に対して存在している"ワタシ"というものがある」、つまり、ニンゲンはとっても"社会的な動物"であるということさえ知らずに、卒業の時期を迎えてしまいました。それで、いかにすれば、正当な理由をもって、不可解で・不合理で・楽しくもなければ必然性のないことばかり起こる"社会"に出なくて済むか、"社会人"になることを免除されるか、ということを真剣に考えました。その結果、出"社"拒否ならぬ出"社会"拒否の悪あがきをしました。
でも、自分のやっていることが人と違うことに気づいて、手を振ったり・首を振ったり・独り言を言ったりするのをやめた中学2年生の頃から、何となく「自分は25才で死ぬ」と漠然と思っていた、その通りになりました。というのは、その時に気がついたのは、「自分ひとりだけが他の人と違っている」という事実だけで、「いったい・何が・どう違っていて→どうすればいいか」が判った訳ではないし、それでも「そのまま行くこと」しか考えていなかったから、行き詰まる予感のようなものがあったのです。
しかも、大学に入ってから後は、私が息苦しいのは「文字の世界にだけ生きている」からと勘違いして、「『生活という哲学』を学ばなければならない」という結論に到達してしまいました。しかしそれも、ニンゲンとしての自然の想いとか共通認識と掛け離れた、実体のない観念的な至上命令に強迫的に固執していただけで、基本的には何も変わっていなかったのです。お陰で、「自閉症」という根っこの部分が未診断・未治療であったために、愛着形成不全のまま野放しにされて青年期を過ごすことの"危険"を十分に味あわされました。
確かに、自分が100で世の中が0という「自閉症そのままの私」は行きつくところまで行って、冒頭に書いた事件に至り、25年経過したところで死にました。
それから、人の言っていることの通りに思念するだけではなくて、人のやっている通りに行動して人に係わっていなければならないという、自分が0で世の中が100という「普通になりたかった私」は、10年持ちませんでした。といっても、その前半の5年間は、一人前の社会人"ごっこ"をすることが面白かった。それから後半の5年間は、息子という仲間が「丸出しの自閉症」でいてくれたお陰で、それに真正面から立ち向かうだけで良かった私は、最高に幸せでした。
その後の5年間は、もうほとんどヌケガラ状態で、いかにすれば自分のようにさせずに済むかという執念から、自閉症児の療育に固執していただけです。この分野で世界一立ち遅れた辺境の地で、診断されていない子どもたちの療育をたった独りでやって来ました。と言っても、それは自分の羽根を一本一本抜いては錦の織物を織っていたあの鶴のようなものでした。その一方で、地域社会という組織にいやおうなしに組み込まれ始めたところから、精神的には再び完全に破綻してしまいました。
やっぱり本当にあった具体的な出来事は、書くことができませんでしたね。だって、だいたい、パニック発作を起こして精神科医のメアリーのところに担ぎこまれる前の、ドナさんと一緒だから。
でも今は、「アスペの会」の先生方と(薬と)、リンコさんをはじめとする仲間たちと、アスペの子どもを持つ理解ある親たちに救われています。今度も、夢か幻のように消えてしまうかもしれないと思いながら…。(いや、消えちゃうかも知れないのは、アスペの仲間たちと理解者たちではなく、自分の方なんですがね。)
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