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2008年の日記

06/14 22:57 インターネットは、思っていることを文に書いて表現する格好の手段だった。頭の中に溢れる言葉を書き留めることができるなんて、素晴らしい! 今までは、「メモしては捨てる」の繰り返しだったものが、ちゃんと書けるのだから。
インターネットはそういうものだと思っていたし、初期の頃はだいたいそんなものだった。しかし、携帯電話が普及した途端に、話し言葉そのまんまのタメ口で、普通に話すようにやりとりするのが標準になったのには違和感がある。だって、それは何もインターネットでやらなくてもいいものだからだ。
NTたちがそれがおかしいことだとは露ほども思っていないのは、不思議だった。が、今になってその理由が分かった。それはNTたちの普通の会話だ、ってこと。それを携帯を通してやっているだけだから、そのオカシサが分からないのだということ。
人に何かを伝えるのに、学習対象となる話し言葉以外に日常口語表現というものがあり、タメ口という言い方もあることを知ったのはASだと分かって初めてだった私には、そういう言葉遣いをすること自体に覚悟がいる。ましてや、それを話すのではなく書くということには、相当な違和感がある。
06/14 16:42 2ちゃんねるなんてものが存在すること自体がおかしなことだと思っていたら、あれよという間に2ちゃんねるならまだマシになってしまった。
私は携帯の掲示板やブログは一切見ないので、パソコンで「学校裏サイト」なるものを探してみた。恐らく、既に本体は携帯に移ってしまった後なのだろう、かなり古いものが見つかった。本当にその学校の生徒が書いたのかどうかさえ分からない無意味な書着込みがずらり。お決まりの「○○い」関係でなければ、「カワイイ子いる?」の類。これはまるで、高校の教室。バカバカしすぎて本ばかり読んでいた昔を思い出した。
インターネットは情報源としては優れていて、眺めている分にはとても便利な道具だ。が、ここで行なわれるつき合いも、維持しようとすれば結局実生活と同じで主体性と自由度が奪われていく一方だと分かって以来、この中で生きるのもバカバカしいと思って、私はもう何も期待しないし関わらないことにした。入れば入るほど、ニンゲンの醜さが明らかになるだけだ。こんなところに満足を求めるなんて、そもそもの間違い。それで絶望したからと言って、事件を起こされてはたまったものではない。
06/12 23:20 もともと多様性を認めない国民が、多様であるが故の苦悩をくみ取れずにその結果に怒っている。自分たちがはみ出させておいて、それで暴れたと二重にはじき出す。受容力・許容力・包容力のカケラもない。逆に、「なぜ入ってこない」「なぜ同じにならない」と責める一方。
06/12 23:14 「人は、不安が全くなく完全に理解されていれば不適応行動を起こさないものだ」という、新たな絶対受容派が現れているようだ。しかし、人が生きている限り、全く不安がなく完全に理解されることなどありえない。たとえ、絶対権力をもった独裁者であってもだ!(そうなったらなったで、ちやほやしてくれる取り巻きに囲まれていないと不安で、疑心暗鬼から粛正を行なうことになるだろう。)
自分の持てる能力は全て発揮され、やりたくないことはやらなくてよく、それでいて自分は“たいそうな何者かである”という幻想の中で、常に誰かが自分を賞賛し、必ず見守り支えられ続けることはない。しかし、このような自分でない不完全な自分はありえないと本当に思ってしまう人がいなくなることはない。教育と福祉が充実し、最低限の生活を保障するセーフティーネットが機能していたとしても、不満というものはなくならない。
生まれた時代は高度経済成長の真っ只中、まるでアラブの王族の子であるかのように蝶よ花よと育てられ、思春期を一攫千金大絶賛/能力のない者は地を這えという小泉改革に洗脳され、成人したら格差社会。今後は、そこらじゅうに高齢者。保険料を支払うために働き、介護に追われる後ろ向きの未来も垣間見えている。不安感はますます強まり、人はますます信じられなまくなっている。欲求不満耐性がまるでないか、過去に抑圧されすぎた結果としての不満の大爆発時代の、始まりの序章。
06/12 22:41 ケータイ電話が贅沢品だった時代、電話とショートメールだけの第2世代の時代はあっという間に過ぎ去ってしまった。インターネットにアクセスできるようになった途端、文章を組み立てることもなく、いろんな方面から考えることもなく、思ったことをそのままため口で書く凶器になってしまった。面と向かって人に話すには勇気が要るし、相手の気持ちを逆なですると自分の身に危険が迫るので、気を使う。そこにブレーキがかかる。
科学好きでシステム好きなASの技術者たちは、真摯な気持ちで夢のコミュニケーションツールを開発したつもりだったに違いない。まっすぐで純心だから、欲と感情うごめくNTたちがこんな使い方をすることなど予測できなかっただろう。また、適切な療育と環境を与えられず、数々のサインをかなり早い内から出しまくっていたのに危険性に気づかれないまま伸していけない部分を放置され、その結果人格形成にまで影響してしまった人たちを昂揚させる悪魔の道具になってしまうなんて、思いもよらなかったに違いない。
06/10 15:30 ホモ・サピエンスと遺伝子的には2%しか違わないゴリラの方が、ASにより近い。NTというのは、おかしなことを始めてしまった地球上唯一の生き物ということらしい。ASが人間世界を支配していたら、きっと、もっと地球と仲良くできたはずだ。
06/10 15:26 どうやら人類は、無欲なASが真摯な想いで作った道具を欲と感情によって悪用されて、破滅に向かおうとしているようだ!
06/09 22:53 事件が起きる。誰かが悪者としてつるし上げられる。一緒になって竹槍を突き立てれば波風は起きない。しかし、その実態は、増幅された感情の大波が起きている。「ちょっと待て、それでいいのか!?」と疑問を投げかけると、その石を投じた者がつるし上げられる。−これは、恐ろしい社会の予兆。
“匿名の世界に隠れて生きる”ことから隠れていた方が、よっぽど平和。
06/09 22:43 ASにとって、生きていくための手段とも言えるインターネット。しかし、これは感情を増幅させるブラックホール。ニンゲンの醜態をさらす箱。
感情的になるなと書けば書くほど、感情的な反論が来る。
06/09 22:15 視点・論点「誰でもよかった」 精神科医 斉藤環 への???

 もちろん彼らの置かれている状況が、通常の意味では絶望的にはみえません。しかし、それは一面的な見方です。生活を続けていくことの可能性という点から言えば、彼らはまだ、必ずしも「生存の不安」にはさらされていません。しかし、彼らは別の意味で危機的状況にあったとも言えます。それは「実存の不安」というものです。
 自分がなにものか。自分が生きていくことに意味があるのか。そうしたことにまつわる「実存の不安」は、戦後の若者がいだく不安の中心を占めています。
 いまや「生存の不安」はリアルなものではなくなり、「実存の不安」が圧倒的になりつつあります。それゆえかつての若者は、行動によって自分が何ものかであることを証そうと必死であがきました。その少し後には「自分探し」が流行しました。どこかにあるはずの本当の自分をさがして、若者は心理学や宗教にすがろうとしました。しかしいまや、若者は自分探しすら断念しつつあるようにみえます。どういうことでしょうか。

 そこで予測されるものの一つに「名前の格差」というものがあるように思います。
 名前の格差とは、あくまでも比喩的な表現です。システムの中で、自分だけの固有の名前を持つことができる人と、匿名のまま名前を持つことができない人の格差です。目的として扱われる人と、手段としてしか扱われない人の格差、とも言いかえられます。目的としての名前を持つということは、変化と成長の可能性に開かれていることを意味します。しかし匿名の手段でしかないことは、そうした変化の可能性に希望を持つことができないことを意味します。



絶対的な神の存在よりも実在する我の存在の方が確実に証明できるとするデカルトの「我思う、故に我あり」以来、欧米人は、現実存在としての個=すなわち実存があたかも個として存在し得るかのような錯覚に陥っている。
なんとサルトルは、個の存在を探求した挙げ句の果てに他者の目に行き着く。こんなバカな話があるか! 種としてのヒトとして、何らかの社会に生を受けて初めて個は存在しているという大前提を一切無視して、個人が個人だけの力で存在し、そのすべてが自らの分以上の処遇を受けなければ不満であるという思い上がり。この病(ルサンチマン)が、今、個々の心の中で密かに増殖している。

この期に及んで、まだ実存大事か!? 「足を知れ!」「己自身を知れ!」と言いたい。

それから、「この国はやり直しが効かない社会だから自暴自棄になっている」と言う者もいるが、これも違う。社会が求める人物像があまりにも画一的で、それからちょっと外れると安定した生活手段さえ確保できないという閉塞社会。これに疎外感を抱いている人は、意外に多いのではないか? 
社会的と言われる者は、疎外される恐怖に耐えられないので何とかしてこの社会に踏み留まろうと必死。逆に、社会に認められないくらいなら引きこもっていた方がマシだと思うのも、実はありあまる社会性のなせるわざだったりもする。(太田光、千原ジュニア、ロンブー淳、麒麟川島など。)
それに対して、人々の輪に踏み留まらずともいられる者、人々の輪に入る方が不安が高まる個は、自分なりの楽しみを持ちそれなりの存在感を感じていられる内は、快適な距離感を楽しめる。しかし、いつしか生活のために社会に投げ出され、生きながらこの楽園を追われるという地獄の日々がやってくる。その時抱く否定感覚は、尋常ではない。

多様性の認められない社会だから、自分が死ぬか誰かに消えてもらうかの選択になってしまうのだ。
06/05 07:40 【見つけた! みんなが輝く教育】場にそぐわないのは、独特の考え方ゆえ

タイトルを見て、ようやく理解者が現れたかと期待した。ところが、その内容を見て、愕然とした。

 母親代わりに育ててくれた祖母が亡くなっても、アスペルガー症候群の息子、カズヤは涙ひとつこぼさない。特別支援学校の現役教師である母親は、そう言って嘆きます。
 ですが、カズヤは毎晩、布団の中で泣いていました。人前で悲しみを表現せず無表情でいたのは、「おばあちゃんと4年しか付き合っていない自分が、娘として40年付き合ってきたお母さんと同じか、それ以上泣くのはいけない」と考えたからでした。
 アスペルガー症候群を「人の気持ちや表情がわからない」「対人関係が苦手」ととらえていると、人前で涙をこぼさないのは「いかにも」と思うかもしれません。でも、カズヤの話からもわかるように、それはステレオタイプな理解でしかなく、彼らが抱える本当の課題を見過ごす危険性をはらむと考えます。
 自閉傾向のある人たちがそういう言動を取るのは、そもそも認知に課題があるから。筆者が取材してきた中にもカズヤのように物事を数量化して考える思考パターンを持つ人は少なくありません。彼らの話を聞いてみると、独特の理解の仕方や考え方をしていて、それがベースにあっての言動ゆえ、場にそぐわず、相手の怒りやひんしゅくを買ったりしていました。ここを気づかせる必要があるのです。
 悲しかったが我慢した、と語るカズヤに説明しました。
 「人の感情は何かと比較して考えるものでも、数量化してとらえるものでもない。泣くのを我慢したければ、してもいい。でも、我慢する必要はなく、悲しい分だけ泣いていい。『4年しか付き合っていないから、自分はお母さんの10分の1しか泣けない』というふうに考えていると、失敗したり、他人から誤解されたりする可能性が高い」と。
 「えっ、泣いてもいいの? でも、これ以上お母さんに悲しんでほしくないから、泣くときは一人のほうがいい」
 カズヤは素直な表情でそう言いました。筆者はそんな彼の表情を思い出しては、自分を戒めます。何事もわかった気になってはいないか、と。(教育ジャーナリスト 品川裕香


物事を数量化してとらえている人に「数量化するな」と言うのは、アメリカ人に英語で考えるなと言うのと同じだ。アメリカ人に向かって、そんなことは言えないはずだ。なのに、なぜ相手がASDだと、気づかせてあげなければならないと上から目線になるのか!?
相手が数量化して物事をとらえているのなら、「数値が1であろうと10であろうと、葬式では泣いて良い」と、なぜ言わないのだろうか!?
それから、単に情が薄いのだと誤解されないようにするために、感情を人前で表したくないという気持ちまで間違いだと言うのか!?
そして、それを社会的な失敗と言うのは、「祖母の葬式に泣く孫はイイヒトだ」という日本人の価値観の押しつけではないのか!?
こうやって、特別支援の名の下に全否定されていくのだとの感を新たにした。

autistic thinkingはこの国には存在しない、あるいは存在してはいけないものらしい。

05/21 15:20

私は、ニンゲンよりゴリラに近いのだと思った。

爆笑問題のニッポンの教養

FILE037:「私が愛したゴリラ(前編)」2008年5月13日放送
山極壽一(やまぎわじゅいち)/爆笑問題(太田/田中)

太田:我々普通、笑ったり泣いたりしている方が楽しいというか、幸福なような気がしているじゃないですか。
山極:喜怒哀楽な。喜怒哀楽。でも、喜怒哀楽はゴリラにもあるわけ。喜怒哀楽の表現が違うということだね。もう一つ、それをお互いに共有出来るかどうかっていうところが違う。笑うっていうのはさ、伝染するじゃん。泣くのも伝染するでしょ。だからお笑いっていうのは商売として成り立つわけじゃん。それがね、動物の世界にはないわけよ。みんなで一緒に笑ったり、みんなで一緒に泣いたりが。
田中:それあったら、本当にそれこそ笑っちゃうね。猿山でサルがみんなでケラケラ笑っている状況があったら。
山極:だから共感っていう世界は、やっぱり人間が独自に開発した世界やな。

FILE037:「私の愛したゴリラ(後編)」 2008年5月20日放送
山極壽一(やまぎわじゅいち)/爆笑問題(太田/田中)
一体ヒトはどんな特徴を持った生きものなのか?お笑い界のトップランナー・爆笑問題と世界のゴリラ博士こと山極壽一・京大大学院教授が語り合う2回シリーズ・後編は、いよいよその佳境へと進んでいく。前編のキーワードは「共感」であった。ヒトにとっては取り立てて珍しくもないこのココロの有り様にこそ、ゴリラとヒトの違いは顕著に表れるらしい。ゴリラは他の仲間が何を感じているのかあまり考えようとはしないが、他のゴリラが気になることはなる・・・。これに対してヒトは他人が何を考えているか推し量らずにはいられない動物であるという。「共感とは人間が独自に開発した世界やな」と山極教授。遺伝子の違いはたった2%に過ぎないというゴリラとヒト。その世界は微妙にすれ違う。「ヒトがヒトである理由」とは一体何なのか?
前編に引き続いて、後編も舞台は日本で最初にゴリラの赤ちゃんが生まれた“京都市動物園”。普段はゴリラが遊んでいる屋外のグラウンドで、爆笑問題と山極教授が人類進化の謎に迫る!
05/17 19:54 土よう親じかん「クラスメートは“発達障害”」 
  教育テレビ 5月17日(土) 午後9時30分〜10時
  【再放送】 5月24日(土) 午後2時30分〜3時

▽発達障害の子を持つ親の学校への不安、クラスメートとなる子の親の疑問に丁寧に答えながら、一緒に育ってゆくためにどんな知恵を出し合っていけばよいのか、話し合う
LDやAD/HDなどのいわゆる「発達障害」の子どもたちを、通常の学級を含めたすべての学校で支援することになった。しかし番組の掲示板には親たちから、「先生が、理解がなく無関心」「相談しても何もできないといわれた」などの声が寄せられる。番組では、発達障害の子を持つ親の学校への不安、クラスメートとなる子を持つ親の疑問に答えながら、一緒に育っていくためにどんな知恵を出し合っていけばよいのか、話し合う。

4月に始まったばかりの番組なのに、もうこのテーマ。いやはや、時代は変わるものだ。

しかし、内容はいつまで経ってもあまり変わらない。…それが現実。
04/25 20:56 ただ、最初、日本の法曹界が発達障害をあまり知らなかった頃、法廷戦術として精神鑑定を持ち出しすぎた嫌いがある。触法行為に至った理由の解明、発達障害と当時の精神状態との関係、刑事責任能力を問えるかどうかといった点を、冷静に判断しなければ、理解されにくい。相手によっては、感情的なわだかまりを募らせるだけになるだろう。
しかしだからといって、単に罰を与える、罪の意識をもたせればいいはずがない。医療的措置を施しながら社会性を習得する教育を基礎から行える更正施設(いわゆる医療刑務所)の数をもっと増やして、刑に服しながら再教育するという司法的措置をとるようにしないと、、両者とも納得できないし何の進展もない。
04/25 16:54 ネット上ではほとんど診断名がそのまま出るものの、テレビや新聞では“発達障害”とされることが多いのであまり騒がれないことの多かった事件関係の報道。なぜか今回は、診断名が見出しに書かれた。しかも、ある特定のニュースサイトでは、センセーショナルなロゴまで作り、その報道に関する内輪の掲示板の遣り取りと協会のコメントを載せた後追い記事まで書いている。(炎上したわけではなく普通の書き込みなのに、大議論などと表記している。)
テレビ局や新聞社には、発達障害の知識がある程度浸透しているのに対して、ネット方面には説明がされていないし、恐らく個人の思い込みや書き込みを止めることはほぼ不可能に近い。また、反社会性人格障害と混同した記事が書かれるのではないかと危惧している。
しかし、協会側の 「アスペルガーと犯罪との因果関係ははっきりしていないため、私達は名前を出すのは自粛して欲しいと訴え続けてきた。しかもまだ簡易鑑定の段階だ。一般の人が犯罪に走る率に比べ、障害を持つ人の率は圧倒的に低い」という抗議の仕方では一般の人は納得しないだろうということも予想できる。「発達障害だから犯罪を犯したのではない。生来の障害への無理解と二次的な障害のために、そのような行為に結びつく精神状態に追いつめられてしまうことがあり、その場合、そこに至る経過と理由、行動そのものが、常識では説明がつきにくいことがある」と、私は言う。
04/22 15:41 確かに、マイノリティとしてNT社会に生きていくためには、NT化したり迎合したりしなければならない部分もある。NTの感情が分からないと疎外され、不利益を被ることは事実だ。
人の心を動かし、金を出させることが現代の処世術であることは認めなければならない。しかし、功利主義・経済優先主義の下にあって、ニンゲンの感情は善であるとはとても思えない。
NTのおかしなところはおかしいし、日本人のおかしなところもやはりおかしい。それはそれとして、曲げることはできないし、怒るところは怒るべきだ。
04/21 16:35 NTのふりをする方法だけを教えたところで、精神的に破綻するのは目に見えている。かといって、自分を取りもどす療養ならともかく、ASの中だけあるいはヲタク仲間だけで通用する道を用意するだけでは生きられない。
ASを否定せずに、NT社会にも妥当性をもって生きる隙間を模索中!
教育界・医療界にどっぷり浸かっていると、世の中が見えない。(はじかれたといった方が正確だろうけど、こちらも、その気はさらさらない。こちらからお断り。)
04/21 11:02 最近、肝の据わった当事者のブログが随分と増えたので、密かに覗き見るのを楽しみにしている。
特に好きなのは、ここ
03/03 21:50 理念ができる。予算がつく。組織図ができる。組織図の下にとりあえず人員を配置する。組織外の者を排除する。組織の権威が生まれる。組織の成果を宣伝する。組織防衛する。良心的な個人がやっていた時よりも、機械的になり、質的に低下する。

さあ、何のことでしょう。
02/23 22:23 (↓の続き)
自分で自分が認知症と言える人は認知症ではないとか、認知症の自分のことを手記に書けるはずがないと、つい最近まで医者や介護の専門家にさえもみなされていたというところなども、発達障害と共通点が多い。
02/23 19:37 最近、NHKで認知症の特集をよくやっている。認知症の人に現れる初期症状の内のいくつかを、私は既に日常生活を成り立たせるための戦略としてやっている!(例えば、カレンダーのゴミ出しの日すべてに印をするとか。これは、紙のカレンダーにもやっているが、PC上、特にリマインダー機能付のカレンダーで、バッチリだ。)
02/02 22:11 中学以降は全くニンゲン界と掛け離れた思考生活をしていたので、今やっている『土曜かきこみTV』は、小学校高学年以降のホモサピエンスの生態を知るのに役に立っている。もっとも、中学に入ってからズレたのではなく、初めからずっーーーーとズレていたのが、中学以降に決定的になったというのが正しい。
今日は、イメチェンの話題だった。学校でも家庭でも、また友だちとの関係・集団との関係の中で常に自分の位置づけを気にしていて、なんとかそこに踏み留まっていたいと必死に努力するホモサピエンスたちの思いを聞いていると、まるでサル社会のサルたちの行動観察記を読んでいるようで面白かった。
ニンゲンたちがこんなことをしているなんて、初めて知った。と言うか、今までこちらが「つまらない」「おかしい」と思っていた行動こそが、あちらの最大の関心事だったことに驚いた。しかも、それを「やめたい」とも思わず「無理してやっている」わけでもないし、(孔子の言葉みたいに)年を取れば分別が付いて卒業するものでもなく、逆に学習を重ねていくものだという現実に直面した数年前、これが原因でこちらは鬱病になり対人恐怖症にもなったのだった。
しかし、自分がそうなりたいとか今から追いつこうなんて全く思わない。みんながみんな時代の流れに乗り、みんながみんな人に好かれることばかり考えていたら、その時代の過ち・その集団の間違いに気づき・正すことなどできないからだ。
01/25 16:40 長男が小学校にいた頃、教職員組合主催の「『ゆとり教育』に反対するPTA会員の声を集める」集会に、そうとは知らずに義務的に行ったことがある。その場で、「発達障害があるので、土曜日が休みだと補習ができるので助かっている」と私は発言した。そのために、“ゆとり教育”に賛成していると思われてしまった節がある。まだ特別支援教育という言葉さえも生まれていなかったし、発達障害児の指導のできる人がいなかった当時は、本当にそれで救われていたのだから仕方がない。その時、小学校に入学したばかりの次男は完全にエジソン状態(TBSドラマ『エジソンの母』と全く同じ状態)だったため、なおのこと救われていたのも事実だ。
私がずっと言っているのは、学習指導は一人一人の発達特性に合わること、集団生活は年齢相応の社会性が身についていることを前提にするのではなく社会性の発達を促す場にすることであって、弁証法的に二転三転する文部科学省の方針がどうであれ、そんなの関係ない!と言いたい。つまり、下に合わせると言った覚えはないし、真ん中に合わせろとも言っていない。まして、上を切り捨てるなんてとんでもない話だ。(あくまでも均等な集団指導をうたわなければならない文部科学省的には、廣瀬先生が報告したように「特別支援教育で学力向上も 小学算数、半数が実感」というような方法論を示さなければならないのだろうが、私は一個人なので「個に合わせた集団教育」を訴えている。しかし、私のやって来たことを見届けてくれたのはほんの数人の教員たちだけであって、他の人たちにとっては全くの無でしかないので、これまた仕方ない。)
実態はどうあれ、今では、特別支援教育という言葉が小中学校で一般的に使われるようになってきたようだ。TBSのドラマではADHDやASといった言葉は敢えて使わないようにしているみたいだが、もしかしたら特別支援教育はエジソンのような個性天才を潰してしまうのではないかという考えがあるのではないかとかんぐってみたくなる。逆に、こういう子がいても、杉田かおるのやっている役の父兄みたいに大騒ぎしないで暖かく見守って欲しいと言いたいのかもしれないが、これもよくわからない。(私は現実的なドラマは一切見ないので、番宣しか見ていない。ちなみに、『山田太郎物語』とか『鹿男あおによし』のような荒唐無稽なドラマは見る。)
中学校はプライドが高いので、いま私は学校に関われない。従って、実際に行われている特別支援教育がどんなものだか私は知らない。ただ、個に合わせた教育をするという観点で子どもを見たらどうなるか考えてみたくなる。例えば、ヘキサゴンでブームになっているお○○さんタレントたちがせっかく個性的・かつ明るく育っているのに、こういう人たちを特別支援教育の網にかけてしまったら(日本人的な表現にすると、障害児扱いしたら)ただの凡人になってしまうのではないかと主張する人がいたとしたら、こう反論したい。
お○○さんタレントと呼ばれているのは、単に学力テストができないとか言葉や知識を正しく覚えていないという意味でしかない。しかし、タレントである以上、全く何の才能もないタダの人であるはずがない。演技ができる、歌って踊れる、運動神経抜群で裸馬にも乗れる、何となく人を和ませる、人に愛される、といった能力を持ち合わせているのは言うまでもない。そんなことを言いたいのではない。近頃よくお○○さんタレントが、クイズ番組ではなくトーク番組に出るようになっていろんなことが分かってきた。例えば、
つるのたけし:写真眼に近い視覚優位人間
里田まい:空気感と空間記憶で記憶する身体感覚人間
こういう能力をしっかりと評価せずに、単に学力の向上だけを目指すような特別支援教育だったら、それは違うんじゃないかと、私も言うだろう。
01/11 10:38 ここ半年ばかり、いったいこの国は発達障害を理解し隣人として受容れることができるかどうか探るために、政治や社会関係のニュースを集めたりブログを見たりしている。
冷戦が終わって東西問題が解消する崩壊に向かい、世界は(東西思想が融合し不都合を消化するかたちでの)社会民主主義が主流になり、南北問題の解決に向かうのかと思いきや、世界はグローバル化の名を借りた市場原理主義・新自由主義に席巻され、その反動としての国家主義が台頭しと民族問題が噴出する、とんでもない方向に進んでしまった。まるで時代が逆行するかのように、今まで築き上げてきたものがどんどん崩れていく。少子高齢化・人口減少がものすごいスピードで加速しているこの国は、内需の縮小と産業の空洞化が進んで、世界から取り残されつつある。そこにもってきて、長年にわたる失政と官僚の腐敗のために、雇用・医療・年金・介護の不安が増大し、貧困と生活困窮者の層が拡大している。
こんなご時世にあって、従来型の福祉国家では経済的に破綻することは分かり切っているので、少なくともモラルハザードを起こさず経済的にも循環する最低限のセイフティーネットの整備が必要だと訴えてみた。しかし、これを主張すると、特定の政党支持者ほど辛辣な攻撃をしてくることが分かった。そして、特定のイデオロギーに偏ったマスコミを批判すると、そのシンパから脅迫めいた言葉が公然と浴びせられることも分かった。それは、左右どちらだろうと、自民だろうと民主だろうと、それは変わらない。世の中で最も大人であるべき政党支持者のこの幼稚さには、呆れてしまった。(北欧型の福祉や教育を目指したところで、この国で採用されることはまずありそうにない。)
一方、発達障害への対応の遅れをあざ笑うかのような事件の多発している。かつて発達障害者をそれとは知らずになんとなく許容してきた精神風土が失われつつあるのは明らかだ。ここに、特別支援教育の必要性はますます高まっているのに、この社会にうまく組み込まれていく保障がない。特に、発達障害児・者とトラブルを起こした相手がモンスター(ペアレンツまたはモンスター自身やクレイマー)だったら、また、発達障害児の側がモンスターペアレントだったら、療育どころではなくなってしまう。

そんな中、家出した発達障害児を住民・父兄・民放局が協力して探そうとしたニュースなど、(見つかったのは事故を起こしたからで、その人たちがではないが)かつて内輪でしか公表できなかったことが堂々と報道される変化も見られるようになった。ブログなんかも、特別なものではなくなった。
でも、やはり当事者と関係者の間でしか盛り上がっていない感はぬぐえない。