2005年の日記(1)
06/28 | 10:35 | ASDの子どもは混乱と混沌の世界に住んでいると、勝手に思われているようだ。そして、そこから救ってやるみたいなことを言う人もいる。不安や恐怖が大きいと大騒ぎするので、何だかとてもたいへんそうに見えるらしい。が、それは本人にとって心地よい環境を作ってくれていなかったり、せっかく落ち着くところを確保しているのに強制的にそこから引っ張り出したりするからいけない。本当は、天国にいる幸せなお子ちゃまだったりするというのに…。 でも、いつの日か、自分のまわりにはニンゲンという生き物がいて、その生き物は自分と同じものらしいと感づいて同じように行動しておかないとマズイらしいと気づいた時から、楽園を追放される。そして、自分の考えている事を言ったり、自分にとって楽なように行動したりするとひんしゅくをかうことを強く意識し始めた途端に、いきなり地獄に落ちる。(いち早く気づいてしまうASは、かなりしんどい。) 大切なのは、元々の天国を保持したままでこの地獄を生き抜くことだと私は思う。そのためにまわりがしなければならないこと、本人が身につけなければならないことの両方がある。それをコツコツやるのが、私の仕事。 |
06/24 | 10:15 | 専門家でさえも、ASを説明するのに「人の気持ちがわからない」のではなくて「人と違う観点で人と違うモノの見方をしているのだ」と言ってくれる人は少ない。だから、そういう本に出会えるとうれしくなる。私は、たとえ人と同じように生活でき・人と一緒にいられていても、“違い”を認めて欲しいと思っているからだ。 しかしこの国の保護者は、学校に説明する時でさえも“違う”と言うことを嫌うそうだ。なぜなら、“違い”を認める=“差別”されることになってしまうからだという。更に、ASの良さを、科学的論理的思考ができる人・コンピューター脳の持ち主と言って賞賛してくれるのは学者・医者といった一部の人に過ぎないのも大問題! なんたって、ここは感情的な東洋農耕民族の島。ゲルマン民族の国じゃない。一般向けには、下手に言うと危険。 |
06/21 | 15:29 | アレルギー対策で定期購入しているヨーグルトのお陰で、腸が丈夫になった。慢性的な疲労は、CoQ10と高酸素水のお陰でかなり改善している。が、このところ半年ほど、家の中に閉じこもってノートパソコンに向かって仕事をしていた。疲れるのでお茶をガバガバ飲みながらお取り寄せのスイーツなんぞをむしゃむしゃ食べていたら、体重5Kgオーバー/体脂肪10%オーバー/体水分量15%不足という、かなりヤバイ状態になっていた。(基礎代謝の数字で見たら、なんと70才台!) これでは、血液ドロドロで危ないだけでなく、これから子どもたちを地球博に連れて行かにゃならんのに体力が持たない、と言うより、椅子に座ってパソコンのキーを打つのもかなり辛い有様で、毎日ウォーキング(激安自走式ルームウォーカー使用)・ストレッチ(スポーツメールやはなまるでやった体操をコースにしたもの)・筋トレ(体感ボクシング)に励んでいる。今やっと、体重3Kgオーバー/体脂肪9%オーバー/体水分量13%不足というところまで、改善した。とりあえず、椅子に座っても痛くない。 しかしまだ腕が痛くて上げられず、キーを打つのがつらい。そもそも、置き場所の関係で、ノートパソコンを目の位置に合わせざるを得ないことも原因のよう。それでも、体感ボクシングゲームを使って、カロリー消費だけを目的にして適当にパンチするようになってから、かなり楽になった。そこで気がついたのは、腕が痛いのは背筋や肩甲骨周辺部だけの問題ではなく、上腕の筋力の問題も大きいらしいこと。 もっとも、極度の自律神経失調症、鬱病・病後の肝機能障害、骨折と、50〜70才ぐらいに起きることを先に体験しているので、リハビリの最中。とはいえ、もともと体力も筋力もないので、今後は、相当意識し続けなければ、要介護認定もないのに起きていられなくなってしまう可能性が大なので、必死である。 |
06/19 | 18:26 | これは一般の話で、発達障害だからということではない。 今は、バブル前のような「自分が動かなければ、家の中に物がない。家には金がない」「子どもは自分より小さい子どもの世話をしなければならない」という時代ではない。逆に、「自分が何もしなくても、物は豊富にある」「親は子どものお世話をしてくれるし、子どものためには当たり前のように金を工面する」「子どもがわがままを言い張れば通る」「兄弟がなかったり近所に小さい子がいなくて、人の世話をする必要がない」時代なので、身のまわりにあるすべての物は人がかかわっているからこそ今・ここにあることと、自分以外の誰かのことを思いやることを意識して教えなければならないはずだ。今の親の世代が上記の認識を欠いていて、“働かなくても食える”“自分は誰かにお世話されて当然”という状況を作ってしまったことがニートを生んでいるのではないかと、私は思っている。 が、そもそも、その親を育てた一つ上の世代は、物がなく仕事に明け暮れなければならなかっただけでなく、アメリカ流の自立させる子育て法をうわべだけ真似して、自由意志の尊重と言いながら実質は教育的指導を放棄するようなやり方をしてしまった。そればかりか、自分と同じ苦労をさせたくないと、金と物を与えすぎた(それからバブルになったお陰で、孫に対してはさらにひどくなった)。同時に、学歴社会に突入して、生きるための智慧でも何でもない学校での勉強を極めて入試に勝つことが良い就労の条件という、砂上の楼閣を生んだ。(その神話は、今なお根強いので、紙上テストの世界ランクがちょっとでも落ちるとすぐに目くじらを立てる。一方で、生きる力はかなり前からそれよりもっと低下していたりにもかかわらず、成人式がめちゃくちゃになったりとんでもない犯罪が増えて始めて気づく有り様。) そして、いつの間にか、子どもは勉強していればよい・玩具業界が次から次へと繰り出す商品に飛びついて遊ぶのが仕事みたいになっている。学校にいる間は目一杯遊んで卒業したら働けといったって、働くための基礎を全く作っていないのだから、無理というもの。どの世代も、今の社会を生きるための智慧は教えても、今の社会に欠けているものを意識して教える必要性を感じていないところが大問題だと思う。 |
06/13 | 21:44 | 研究室や治療室の中だけにいるのなら、理論上の100%を追究していればよい。しかし、人は生きているので、いまいる人員・経済状況・利用できる社会資源の最大公約数的な成果が得られれば、その支援は成功したと言ってよいと思っている。(世間的には、最小公倍数的な成功をおさめている人だけが脚光を浴びるだろうけれど、それは単なる希望の星であって希有な例でしかない。) |
06/02 | 17:03 | ASDの人にはこうして欲しいと本に書いてあっても、実際にできるのは親か本当の専門家しかいない。親がそのようにしてくれず、本当の専門家に巡り会えなければ、痒いところに手が届くような対応を経験することがなく、ニンゲンは信頼に足るものだと学習する機会もない。 しかし、たとえ適切な対応を受けて育つことができたとしても世の中はまったくそうなっておらず、世の中の人は得てして正反対の不当な応対をするものだということと、それに怒ったりストレスにしたりするのは割に合わないが実際には怒れるしストレスもたまるので、それをどのように解消するかをセットにして教えていかないと、世の中に対して過剰な期待をしてしまうことになる。 (世の中に対して過剰な期待をさせられてストーンと落とされて放っておかれるのはかなり辛いが、ASDの人をそういう目に合わせている張本人のNTにはその自覚がなく、じたばたしていると捨てられるから、気をつけろ!) |
06/02 | 14:07 | 「診断なんてどうでもいいと言っている人がいる」とある業界誌に書いてあったが、私は何も診断がどうでもいいと言っているわけではない。「診断を求めてさ迷っている間に子どもはどんどん大きくなって、やらなければならないことをしないままに時間だけが過ぎていくので、できること・効果のあることは何でもやりましょう!」ということだ。 |
05/31 | 08:34 | 世の中のほぼすべての人を敵だと思っていて、つまり自分の味方は誰もいないと思っていて、世話してくれている人(通常は母親)に依存してかろうじて生きているASDの人が、この国にはたくさんいるはずだ。そういう人は、インターネットでゲームなどにはまっていたとしても、自分がそのような状況に置かれていることを認識しておらず、今後の見通しもないまま日々を過ごすのみで、自分の現状を訴えたり助けを求めることも知らずにいる。(掲示板に書き込みをしたり自助グループを作れる人たちとは、重症度・こじれ度のレベルが全く違う。) 今では、これがASDの一番の問題だと分かっているから、英米ではそうさせないようにするための研究がなされていて、本が続々と出版されている。そういう本を読むたびに、すでにそうなってしまった人たちのことを思うと、やりきれなくなる。 |
05/30 | 09:56 | その場で、他人の言ったことを瞬時に理解して即座に受け答えする能力はないが、いつまでも頭の中で対話し続ける才能はある。 |
05/29 | 10:19 | 次男の様子を見て、世の中にどうしてこんなにイベントが溢れているか理解できるようになった。行事があると、わくわくして元気になるなんて、私と長男には考えられない。だいたい、いつもと違うことがあると聞いた時点で絶対に抵抗・拒否反応を示す。 私は、突然言われると怒ってしまうので、予測可能なものは先に調べて待ちかまえる。そして、納得した後は情報をかき集めて入念な行動計画を立てる。その日が来ると、あれやこれやの不安と心配で楽しめない。それ以前に、ついていくだけて身体的にたいへん。しかし、長男の方は、突然の変更に対処できないだけでなく実行能力障害のために計画と準備をさせなければならないが、現場ではかなりウキウキ・ノリノリ。 |
05/28 | 18:49 | 我が家御用達のかかりつけの耳鼻科(長男の触覚過敏などを理解してくれて、カエル本や『アスペルガー症候群を知っていますか?』を持っていった病院)に久しぶりに行ったら、初診用の問診票に「何らかの成長発達障害がありますか?」の欄ができていて、ダウン症の次に自閉症の項目があった。(ADHDはなかった。たぶん、その他のところに書くのであろう。) わぁいヽ(∇⌒ヽ)(ノ⌒∇)ノわぁい♪ \(^-^)/バンザーイモヒトツ\(^o^)/バンザーイ |
05/28 | 08:59 | ↓のことは、教師にも精神科医にも見えない。なぜなら、教師や精神科医は職業的に↓は御法度だからだ。(逆に、教育現場では、ひところユニセックスを強要したことさえあった。)だから、これらの人たちが療育や治療をしつくしても実社会には適応できない。 学者や医者にASDの人が多いのも、同じ理由かもしれない。 |
05/28 | 08:54 | 最終的には、実社会に適応することは、その時代・その文化で求められている男らしさ・女らしさに適うことと同じなのだと思う。それが今は、男として・女としての社会的・生物的な義務や責任を果たすだけではなく、♂としての魅力・♀としての魅力が(文化的な装飾という形をとらずに)ストレートに強調され、金を得るための手段や金で得られるものとして情報が垂れ流されている。 そういう時代を生きるには、その流れに乗るか乗らないかの決心をしなければならない。 |
05/26 | 10:16 | 何でみんな分かってくれないのか!と思っていた。 しかし、 どんな風に声をかけて欲しくて・どんな風に声をかけて欲しくないのか どんな風に気をつかって欲しくて・どんな風に気をつかわれたくないのか と思っているのか、知らないし知りたくもないからだ。 ということが分かった。 |
05/26 | 08:23 | 孤立型は、たとえ社会生活ができ友だちもいて、人と一緒に行動できてもやはり孤独だ。(だから、流行らない。) 一人前の暮らしができても、しょせんはアウトサイダー。それなら、徹底的に外から見てやれ!と思っている。 |
05/26 | 08:20 | 世の中にとって、ADHDやASDはどうでもよく、ADHDやASDによって起きる問題を解決するためにだけADHDやASDを知ろうとしていることが分かってきた。 つまり、他人にとって問題(障害=差し障り・不都合)がなければ障害(取り組むべき課題)ではないということだ。しかし、当事者にとっては大問題であり続ける。そして、そのためにさまざまな精神疾患になりやすいことを心配しているのは、親か精神科医だけ。 |
05/23 | 10:00 | 怒りをはき出すホラアナを作ったり、フィルターにかけて(=お笑いにして)はき出すと、いいかも。 うつ病になったりうつ病を治療したりする期間がなかったら、まっしぐらに成功へと突き進んだ例になれたかもしれないけれど、あいにくそうではない。が、だからこそ分かること・だからこそ言えることもある。 |
05/22 | 20:23 | 例えば、何か理不尽だと思うことがあった時、自分でソーシャルストーリーを書いてなだめたり、正当なやり方(まくらやパンチングボールを叩くなど)で怒りの感情を放出したとする。これで、行動は収まるし、怒りを鬱積して爆発したり鬱になったりする心配もなくなる。 しかし、NTの人たちは日常的に、そういう怒りを誰かに言って共感してもらうとか酒を飲んでぐだぐだ言うとかいうことをやっている。確かに、ASの人が社会状況を納得せず自己コントロールできていない状態で人に言うと、強迫的になったりマナーやルール違反になりやすいのでNGなのは分かる。だが、愚痴をこぼす権利はある。 |
05/22 | 16:55 | NTがNTであることに怒ったって仕方がないことは分かっているが、どこまでがNTと切り離せない部分で、どこからが社会文化的なオカシサなのか、やっと区別がつくようになってきた。 どうやら、この国は、男に生まれたというだけで偉いことになっていて、男と言うだけでちやほやされたり持ち上げられたりされて当たり前と思っているのは、躾と教育がなっていないせいではないらしい。更にそういう輩は、子どもたちがきちんと教育されているのを見ても自分を反省することがないばかりか、逆にひがんだり空威張りしたりすることしか知らないらしい。 しかし、子ども世代の文化と親世代の文化が断絶していて、親自身が使いこなせていないゲームやパソコンや携帯電話のシステムに何の指導もされないまま子どもがはまり込み、感情的に未熟でコントロールされないままに思春期を迎えている現状は、田舎だけの問題ではない。これは、恐ろしいことになる。 |
05/22 | 16:37 | 自分の価値を取り戻し、自分の感情と意志を取り戻した。しかし、人との横並びのかかわりは一度も持ったことがないので、取り戻すのではなくこれから築くしかない。さて、どうするか?−無計画に始めたのでは今までと変わらない。とにかく、勉強中。 |
05/18 | 10:57 | NT社会に感覚過敏を告知するにも、注意する必要があるとは思わなかった。 感覚過敏に配慮しないと大パニックになるというのでもなければ、まず気を遣おうとはしないことは予想できたが、サングラスやウォークマンといった感覚過敏対策グッズそのものに社会的な意味があって、「サングラスをかけている人は○○」「人混みでウォークマンを聴いている人は○○」といった不文律でその人となりが判断されるのは想定の範囲外だった。 その場で大騒ぎになればなったで「○○な人」になってしまうが、その場では抑圧してしまったり乖離してその場を乗り切っていたおかげで鬱などの二次的な弊害を起こすことになっても理解はされない。 そして、社会参加の一つのあり方として感覚過敏への配慮が必要だといくら訴えても、みんなそれぞれにある程度は我慢しているのに個人的な感覚を楯にすること自体がズルイという考え方が壁として立ちはだかることがある。実際、我慢を知らずに育った世代のNTの人が、単に嫌なことから逃げる際に堂々と感覚的なことを理由にすることがあったりもする。 つまり、NT社会が理解できるレベルに合わせなければ、発達障害の知識をそのまま説明しても受け容れられないということ。 |
05/18 | 10:27 | 世の中の側にある“障害”というか“障壁”について考える。 だいぶ前に、ある教育関係者から「わざわざ新しい障害を作って、何でもない普通の子どもを社会から追い出そうとしているのか!?」と言われたことがある。もう10年も前で、当時はなぜその人がこんなことを言うのか、さっぱり訳が分からなかった。今になって、この考え方はこの国の障害観・障害者観そのものだと分かった。つまり、その人は、「この国では、このように障害者を差別しています」と暴露していたに過ぎなかったのだ。そして、その人がやっていた「差別をなくす運動」も、その考えの上に成り立っていたものだった。 ではどうして、その元々の考えが間違っていると考えないのだろうか? 障害を持つことは何も特別なことではなく、誰だって障害を持つ可能性があることや、障害と言うと厳然とした区切りがあるように聞こえるが、(誰だって完全ではないのだから)健常と異常とは連続していているものだということに、なぜ気づこうとしないのか!? なぜ、へんな仲間意識にとらわれているのか!? そっちの方が、よっぽどオカシイと思う。 |
05/17 | 15:28 | 私が言いたかったのは、「すべての人を、その人なりの認知や感覚や注意や関わり方を持っている人として見るようにしよう!」ということだ。そう思ってみたら、「どんな子どもでも今までと違うやり方で伸びていく可能性があるはずでしょう?」と問いかけたかったのだ。しかしどうやら、“特別支援教育というのは、“特別な人の、特別な認知や感覚や注意や関わり方を特別なものとして特別扱いすること”になっているような気配がする。ましてや、「すべての人を、その人なりの認知や感覚や注意や関わり方を持っている人として見る社会」なんて、夢のまた夢かも。 ヒロシが、テレビに出たらもてるようになると思っていたのに全然そうじゃなかったのと同じように、本を出しても現実は何も変わらない。人の認知や感覚や注意や関わり方というのは、写真で言えばネガみたいなもので、そういう視点を持っていさえすればものすごくハッキリ浮かび上がってくるのに、普通の人にはまったく見えないものらしい。たいていの人は、自分が今特に困っていなければ人に対して何をしようとも思わないから、表面上何ともない人の将来や精神状態を心配することはしない。 |
05/17 | 10:07 | 障害として認知するかどうかを問うレベルでは、法的な整備や公的支援が課題になる。 しかしほとんどのケースは、そこまではっきりしたものではない。これが、かえって厄介。当事者にとっても関係者にとっても、いったい何を問題にするかで、まったく見方が異なる。(大半は、「何も問題なし」と見られることが問題。) 学校生活上支障がなければいいのか?/とりあえず、金の稼げる人になればいいのか?/表面上一人前の生活をしているように傍から見えさえすればいいのか?/二次的な精神疾患に罹患しなければいいのか?/まったく普通になった人を見たいのか?/発達障害丸出しの人を見たいのか?/発達障害の特徴を逆に取り柄にして活躍している人を見たいのか?/発達障害らしさがぷんぷんしていてたいへんそうだがなんとかやっている人を見たいのか?…このように、要求や期待は人それぞれの思惑によってまったく違うものになる。 この中には人気が集中しやすいものがあるが、そればかり相手にしていたのではほとんどの問題は解決しない。 |
05/17 | 08:07 | 予想されたことだが、幼児期に重度のASDと診断されながらも適切な療育を受けて現在は自立した社会生活を送っている人の成長記録と手記が、これからどんどん出てくることになる。ただし、ASDという診断はなかったけれど成長と共に軽減するケースは昔からあったし、幼児期の状態・思春期の状態によって介入のしやすさも変わってくるので、必ずしもすべてのASD児が療育によって変わるとは限らないことは、抑えておくべきだ。(きっと、「だれだれが、なになにをしたので、この人はこうなりました」と言いたがる職種の人が喜ぶ企画になるだろう。) 本来ならば、諸手をあげて紹介したいところだが、それができないのがこの国のねじれた事情。 |
05/16 | 15:22 | ある有名な元ボクサーが、蛍光灯が眩しいと言って部屋の中でサングラスをかけていることが伝説として語られていた。「人はそれぞれ、ちょっとずつ異なる認知や感覚や注意や関わり方をしているのだから、それをお互い認め合おうよ」と私はカエルちゃんたちに言ってもらいたいと思っていて、こんなことを伝説にする方がおかしいじゃないか!?と言いたいところだが…。それが通れば世の中から戦争なんてものがなくなっているはずなので、キレイゴトなのは百も承知である。 |
05/15 | 21:10 | もし仮に人が完全な教育を受け完璧な家庭環境で育ったとしても、それは単にベストを尽くしたと言うだけなのだから、100%の状態で育つことはまずありえない。経済面でも、人材面でも、環境面でも、学習面でも、躾の面でも、およそ理想とは掛け離れた中で育ち、それが良い結果を生むこともあれば悪い結果を生むこともある。 教育や子育ての理論はたくさんあるが、ほとんどがその通りに実践されることはないし、ある時期正しいとされた理論が間違いだったり国情に合っていなかったりして批判されることは、ざらにある。たいていは、その時々の社会情勢を大人が生き抜くついでに子どもが育っていく。それぞれが、自分にできる範囲のことしかできないので、不満のない子どもはいない。教育や子育ての理論とは、元々そういうものなのだ。 (それ以前の問題として、悪いことが一切起きず、争いごとのない社会を作り上げようとすること自体が不可能。) |
05/15 | 15:07 | そりゃあ、ASDの人が皆、独特の感性と才能に溢れていて、作家か芸術家か大学教授になれるというのなら、大手を振って理想的なことを言っていればいい。しかし実際は、ASDだけでも危ないのに、LDやADHDも絡んでいたりする。 「就労のために…」と銘打って書いてあるもののほとんどは、現実味がない。就労のためにしなければならないことはもっともっとたくさんあるのにまったく取り上げられてさえいなかったり、世の中がそんなに甘くないことを書いていなかったりするからだ。でも、そういう子どもを就労させなければならない立場の人たちが実際に会って話すことは、その現実の方なのだ。実社会に生きている人は、みんな分かっている。(だが、それを公の場に書こうとすると消される。) |
05/15 | 14:37 | 私が子どもの療育をやっていた頃は、医者も教師も発達障害のことを本当に知らなかった。ごく一部の研究者だけがかかわって本が出版され始めたばかりだった。身近なところでやってくれる人は誰もいなかったし、やってくれるとも書いていなかったので、全部自分でやった。先生にも教えた。 しかし、今では、さも身近なところでみんな知っていて医者も教師も準備万端整っているかのようなことが本に書いてある。実際には、ごくわずかな恵まれた例にすぎないのに…。しかも、それをやっている人自身が、人がいない・金がないことを身に詰まされているというのに…。 それを読んで、「実際とは違う!」と思う人が増えただけだとしたら、過度な期待をさせた分だけ罪が重いかもしれない。 |
05/15 | 12:00 | 最近、この業界の人たちがたくさん本を出すようになった。相変わらず、理想的なことが書いてある。この国に生まれた発達障害児は、適切な支援を受けて発達障害を活かせるような仕事ができると錯覚しそうなことばかり書いてあったりもする。それはそうだ、書いている人の多くは学者・医者・○○士・作家といった業界の人で、実社会に生きているわけではないのだから。 それで、実社会の方は、発達障害のことを全く知らず理解しようともしていないというのならはまだましだ。現実は、知ったとしても、理解できたとしても、受け容れる気がないというのがほとんど。仮に頭では分かっても、気持ちがついていかない、心情的に許せない、つき合おうと努力すると精神的に参ってしまうのだ。 だからこそ、「知って欲しい・こうして欲しい」がために本を書いているのが、今の段階。世の中の現実がこうだと言っているのではない。なのに、私のところに抗議が来る。現実が全然違うことは、自分自身が身につまされていて、最もよく知っている。現実は違うじゃないか!と抗議したいのはこっちの方だ。 理想や理念は本になりやすいし目立つので、非難を浴びやすいのは承知している。でも今私は、もっともっと具体的に役に立つ仕事を地道にコツコツやっているので、こういう分かり切った問題を何度も何度も蒸し返されるのにはつき合いきれない。だから、ネットは引退した。 |
05/12 | 13:24 | 生き方を選択する以前に、職能が満たないし社会性の問題があって、生きる道がない。 大人が、無理せずに自分らしく(ASDらしく)生きればいいよと言っても、一度は必ず普通になろうとする。 こういう事情を抜きにして、行動が落ち着くとか学校生活の困難がなくなるだけで満足するような療育なんて、意味のあるものとはいえない。 |
05/10 | 08:03 | 怖いとか、落ち込んだとか、嫌だとか、ウザイとかいう感情を、普通の人たちは人に言ったりケイタイでメールしたりして、日常的に人に訴えている。しかし私は、人にはそういうことをしない。また、そういう人もいない。と言うより、そういうことができないから、友だちというものが一切いない。だから、ここに書いている。そうすると、思いがけない人に絡まれる。普通に言ったりメールしたりしている人には何のおとがめもないのに、ネットに書くからそうなると言われればそれまで。 たまに、人に訴えてみる。しかし何の反応もない。やっぱり、人にそういうことをするものではないと教えられる。悟る。やめる。その繰り返し。(その度に、部屋のカエルグッズが増えていく。下手なカエルマニアサイトより、たくさんのカエルがいる。写真にとって公開したらとも思う。でもそのためには、埃を払ったり撮影場所を作ったりしなければならない。それだけの精神的エネルギーがない。) |
05/09 | 22:53 | 『理解to理解』の立場そのものが許せないという人がいる。それはそれでいい。ただ、法とマナーだけは守るべきだ。 私は、資料作りの職人であってスターやタレントや先生ではないから表には行かないので、みなさんどうぞご活躍下さい。では。 |
05/08 | 11:21 | それでは、手作りボルスターのことやボールプールやハンモックブランコやサーキットのことをホームページに書いたり、写真を載せたりすれば良いのだろうか? 確かに、毎日家でやったことを私が(B5ノートにびっしり)書き、学校での様子を担任が書いてくれた連絡ノートはあるが、それは第三者に報告するためのものではない。単なる療育の記録だ。元々、そういうものを人に言って自分をアピールする能力などない。しかも、その後はPTAの役員だの自治会の役員だのが毎年あって完全にうつ病になり5年間寝たり起きたりの生活だったのだから、まとめている余裕などあるはずもない。その、回復する過程で自分というゴミの捨て場であるこの家がどんなところなのか知ったのだ。 つまり、子どもの療育だけをやっていた時だけが天国だった。確かに理念的なのは現実を全く無視して良かった理想的な状態だったからだが、綺麗事でもなければ自分の現実をカモフラージュしているのでもないれっきとした事実だ。なぜ、こういうことをやってきた人が死ななければならないのだろうか!?−それが、この国の現実。 |
05/08 | 10:14 | 発達障害がある=100%“能力的な偏りが突出した天才”というのなら、「発達障害のある人はその世界を楽しんでいるのだから、いじらないようにしてあげよう。」と言うだけでいい。 発達障害がある=100%“日常生活と社会生活に重大な支障をきたして困っている人”というのなら、「さまざまな介入を行なって日常生活と社会生活ができるようにしてあげよう。」と言うだけでいい。 確かに、そのどちらかの立場から強力に主張している人たちは羽振りがよい。両方のバランスを取れだの、発達段階に合わせて調整しろと言っていると、派手なことは何も起こらない。逆に、あからさまに嫌われたり無視されたりする。しかも私は、自分のやるべきことをやっていない人には厳しい。だから、誰々の味方というようなヘンな虚像を作らないで欲しい。更に、子どもたちの10歳以前の状態を知らない人・知っていても重大な困難があったことに気づけなかった人の両方から、私が今までやって来たことのすべてを否定されている可能性も大きい。早い話が、いない方がいいってことらしい。 |
05/07 | 11:19 |
では、どうして生まれつき自分自身をしっかり守ってきたNTの方々はワルイヒトにならないのか? いや逆に、我を通したり感情をあからさまにすることは計算済みだったり、そのように求められたりもしているではないか! なぜ誰も、それをオカシイことだと思わないのか? (そんなジョーシキ的な分別ぐらい、占いをしない占いおばさんが取り巻きをはべらしてテレビで派手な演出と共にわざわざ言うようなことでもないだろうに! これはもう、傲慢になったニンゲンが、傲慢なニンゲンのコドモを大量に育ててしまったからとしか、言いようがない。) |
05/07 | 11:15 | ↓の場面で、「まあ、きれい」と答えることぐらい、簡単にできる。いや、それをわざとらしく無理してやり続けたために、うつ病になってしまったのだ。そうやって、NTの言いなりになり“普通”な振りをしていた間は、イイヒトだった。しかし、それをやめて、「自分らしく−ただし−社会的に不利にならない範囲でつき合う」ことにして自分自身を護った途端にワルイコになってしまった。 問題は、これから進路を選ぶことが不可能になってから気づいたことだ。こういうことは、思春期まだに基礎を作り、一度は“普通”をめざしてちょっと疲れて自分の限度を悟ったぐらいの時に成人を迎えるスケジュールで進行するべきだ。 |
05/05 | 10:50 | 世の中が、認知・注意・対人関係の特性に合わせた仕事を用意して待っていてくれるなんてことは、まずあり得ない。今朝も、わざわざ遭わないように避けている人から、「花がきれいに咲いたから、見ろ」と言われた。その花がきれいに咲いたことや、その花が珍しい貴重な花だということぐらいとっくに知っているから、きれいだと思うし今年も咲いて嬉しい気持ちは十二分にある。しかし、そうやって普通のNTの人がするように「まあ、きれい!♪」とでも言えと強要されたって、何も言えるはずがない。特に、遭わないように心がけている相手だから、声を掛けられた時点で、まず警戒態勢に入り固まっている。そうすると、人が人の気持ちに応えないことに耐えられないNTはそれだけで機嫌を損ねるし、私は花が咲いたことにも気づかず花をきれいだとも思わない冷酷非情な人ということにされてしまう。こういうNTのいないところを選んで暮らすことは、まず不可能。 だが、発達障害の子どもに認知・注意・対人関係の特性の発達段階に合わせてた対応をすることはできる。子どもはまだ、子どもなのだから。そうすることで、ADHDのために不注意や注意の転動が激しくて集団生活はおろか日常生活もままならなかった子どもがイベント好きで好奇心旺盛な起業家タイプの人に育つ可能性を生むし、NTと考え方が根本的に違っているASの子どもにはそういうNT社会を切り抜けていく智慧を伝授することもできる。しかし↓の事情も相まって、この国には“丁寧な子育て”や“子どもの言い分と親の気持ちのバランスを取ること”や“ボトムアップとトップダウンの組み合わせをすること”自体がほとんど根付いていない。 英米の当事者本の多くが、「だれだれさん/なになに先生からこういう対応をしてもらった/教わった」という内容なのに、この国ではまず「いかに自分が不適切な扱いを受けてきたか」「いかに誰も助けてくれなかったか」というところから始まっていることの具体的な意味について、もっと真剣に考えるべきだ。(まだ「当事者から意見を聞いている段階だ」なんていう答えが返ってくることは、分かり切っている。しかし、最初から順番が違っていたことは否めない。ということは、今後もこのまま進むしかないということだ。恐ろしや〜{{{{( ▽|||)}}}}ぞぉ〜〜〜〜〜) |
05/05 | 10:20 | ↓のことは、何もこの業界に限ったことではない。子育てに関しては、世の中全体が同じようなものだ。特に私は、自分の子どもを直視せず親としてすべき仕事を放棄したり、ただ体を大きくするだけ・甘やかすだけ・かわいがるだけの教育的配慮のない育て方をしたりすることには、断固とした態度を取る。だから、業界以外から(特に、若い親から)批判されることだって、十分に考えられる。 これだけニンゲンが感情的になったら、自分が世の中全体から浮きまくっていることぐらい、とっくに分かっている。 |
05/04 | 20:35 | この国の業界の問題点は、つい最近まで「ASDの特性を無視しためちゃめちゃな矯正」をするか「絶対受容」かのどちらかだったため、まだそれが尾を引いていること。そんな中で、発達段階に応じた適切な支援(=過保護でも過干渉でもない、理解に基づいた介入)を行なうことを提唱すると、悪者にされる。面倒だから、引きこもる。 |
05/02 | 17:51 | お金がなく帰る家がないという理由でこの地獄にいなければならないのは、人間的には間違いだが、世の中的・ニンゲン的には“間違いではない”ということらしい。ひたすら、待つしかない。果たして、これから確実に来ることが予想されているものの内、一番最初に来るのは何か? それによって、自由になるか完全に身動きができなくなってしまうかが決まる。 |
05/02 | 16:35 | 今、就労に必要な能力が一人前に満たない子どもを何とか就労させようとしている。しかしその一方で、夢を持って入社したのに、良い運転をすることよりもスピードと採算のために暴走と急ブレーキを奨励され、過度の緊張を強いられたかわいそうな運転手が起こした事故のことが報道されている。夢を持って入った会社なのに、会社ぐるみで“正しくないこと”をしているなんて、よくある話しなのだろう。子どもが見ているドラマで、「男社会の汚いところ」なんていうセリフがあった。 サービス業はお客さんに文句や不満を言われ放題で、ちょっとしたことで完全にそっぽを向かれてしまうので、完璧な仕事とサービスが要求されるのは、どんな会社でも同じだと思う。では製造業なら良いかというと、ただ物を作るだけでなく大量の提出書類を作成しなければならなかったり、製造物に対して負う責任がより重くなったり…。しかも、注意すれば不注意はなくなるだの、本人の努力で苦手は克服できるだのといった考え方が、相変わらず蔓延している中に放り出される。 これは、何も就労だけに限ったことではない。大人として社会で一人前にやっていくということは、こういう理不尽な要求に耐えたり応えたりすることに他ならないのだから。だから、発達障害の人が就労・結婚できたちら目標達成だなんて言うのは、ナンセンスだ。それから、IQと年収の高い専門職の人は“ニンゲンはそんなにまともな生き物でない”ことを教えられないので、教科書的なソーシャルスキルしか知らないで育つと、就職試験には受かっても会社でやっていけないことになる。本当に必要なのは、世の中学。ただし、ただの処世術ではない。 |
04/26 | 21:55 | どうも世の中、発達障害のある人たちに不利になる方向に向っているとしか思えない。だからこそ、特別支援教育や発達障害者支援法が必要になってきたのだと痛感する、今日この頃である。 |
04/21 | 21:44 | 炭酸飲料バブルマンのCMで「遊んでくれよ〜」って言っているのはアンガールズの田中だってこと、ワシはとっくに見抜いて(いや、聞きぬいて)いたぞ〜♪ |
04/21 | 09:26 | 不登校・引きこもり・NEETの人がこの国にはたくさんいるという調査結果が出ているが、その原因にどの程度発達障害が絡んでいるかということになると、見当がつかない。 確かに、発達障害そのものが理由だとか発達障害への未対応が理由で就労できない確率は非常に高いと思う。が、この国の場合は、この国特有の対人恐怖・社会恐怖や、古典的な(子どもを育てられない親が原因の)情緒障害や、まるでアラブの石油王でも育てているのだろうかと見紛うほどに子どもを王子様扱いしている問題で不登校・引きこもり・NEETになっている可能性も非常に高い。 このような風潮の中で、発達障害そのものが理由で就労できるかどうか分からない子どもを就労できる人にすることを目標にして育てていると、逆にとても浮いてしまう。何でそんなことに目くじらたてるの?としか思われない。また、そのために選んで専門学校の高等過程に進学させたのだけれど、一般的に見れば高校に行けなかった落ちこぼれということになる。なぜなら、この国では社会人として通用させるためには塾や習い事に通わせて、できれば文部科学省的に学力が高いと言われている学校に行かせることが普通だからだ。 しかし、就労できる人になることなど全く目標にする必要がなく他の問題もなかった子どもは、それなりの挫折をし不満は持ちながらもどこかに就労し一人前の社会人(?)になっていく。そうでない人たちが就労できないことについて世の中全体が慌てはじめたものの、どうも世間で言われていることは発達障害以前の人間としての基本中の基本のことばかりで、きちんとした理由があってそれなりにきちんとした対処をしなければならない発達障害のことにまで手も頭も回っていない。こっちは最低レベルに到達させるために必死にやっているのに、軽々と標準レベルをクリアーしている人たちの方はせっかくのレベルを維持しようとも上げようともせずにサボっているなんて、もったいない! |
04/20 | 07:44 | 自分はもう、終わってしまった人でもなければ、人生をドブに捨てた人でもない。 世の中には、自分を捨てた結果陥ったどん底から立ち直った人はたくさんいる。 |
04/18 | 16:56 |
2だけやって、「特別支援教育と就労支援はバッチリです」なんて言うな! こういうことを平気で言うのが、3の確信犯。‥‥‥こういうことは、毒舌ネタにすれば売れるかもしれない。もっとも、文章にすると、嫌な上司のことや最近の若者のことやココリコミラクルタイプに出てくる♂男や♀子のことだとほとんどの人が思ってしまい、ASとの違いがまったく反映されない。だから、ネタにするとウケル。それだけのことだ。 |
04/18 | 16:33 | 「現状に満足できない人は、どこに行っても満足できないので幸福感を感じられない。」と言うが、そんなことはとっくに知っている。 こういうありふれた物知り顔の人生訓を最初に読んだせいで、どんなニンゲンに対しても生かされていることに感謝しなければいけないと思っていた結果が、自分の受けた教育も自分らしさもまったく認められない奴隷扱いで良いように使われているだけだったことに気づいたのだ。 こういう人生訓は、人と人との間に存在する自分が確立する前に読むものではない。2項関係も3項関係も成立しておらず、他者に対する自己というものがなく、自分が感覚的に快適な世界に一人でいる時だけが幸福で、ひとたびそこに人が現われたらたちまち不安と恐怖しか感じられない生物に、幸福感を説いても無駄であろう。 |
04/17 | 09:08 | こんな風↓に世の中すべてに怒っていたら、疲れるし体にも悪い。これはもう、憐れんでやるしかない。(それが慈悲。つまり、とことんNTのアホさ加減が分って、不動明王のような怒りが転じなければ、慈悲もないってこと。) 本当は、見ザル・聞かザル・言わザルが一番なのだが、向こうが勝手に設定した行事に有無を言わさず巻き込んでくれるので、余分なことが起きる。 |
04/16 | 16:57 | 子どもの頃、学校や家(つまり、どちらも世間の非常識がまかり通っていたところ)で賞賛されていたのは、真面目さ・先進技術や最上級の知識を取り入れる姿勢、まず学び原理原則知識に基づいて最高の対応をすること、男女美醜で差別すること。徒党を組んで人の目を盗んだり、エロい話しをしたりする子どもは怒られたものだった。 しかし大人になったら、完全に逆になった。こちらの方がむしろニンゲンとしてダメということになっている。さらに、それに対する私の怒りが大きくなるにつれてどんどん腐っていくように感じる。(にもかかわらず、学びもせず、原理原則知識に基づいた対応もせず、最悪の状態になりつつある人に頼られたって、ワシは知らん!) きちんと学び原理原則知識に基づいた対応をしようとしている人に対しては、私は進んで奉仕する人だったはずだ。しかしそういう人間はものの見事に周囲にいないので、冷酷無情のドケチみたいになってしまっている。だって、怒っているのはこちらなのだから、仕方がない。 |
04/13 | 10:17 | 今までの“人の間教育”というのは、「食べる物も着る物も、家の建物だって、すべてが人の手で作られた物で、そういう人たちがいるお陰で生きている」というものだった。それでは、金を稼いで買えばいいということになる。その結果、「オレが命の次に大事な金をつぎ込んだんだから、世の中全体を挙げてオレを尊重しろ!」と威張りくさる社長が出現し、若い世代の多くがそれを指示するという有様になった。だが案の定、返ってきた答えは、「確かに、金には群がるが、オマエの命なんかどーでもいいから、オマエの金がどうなろうと知ったこっちゃない!」だ。つまり、「君のためならお金を出してもいいし、夢も託す。君のためならできることは何でもしてあげる♪」という人を増やさなければ、いくら金を積んだり株を買い占めたりしたって、誰も協力しないってこと。 一方、マネーゲームに参加できない“金の稼げない人”の方は、自分は金を稼げないことが明らかになった時点では誰かが金を稼いでくれさえすればいいのだから、まだ世界は崩壊しない。しかしそれは、人を威圧して金を出させ続けるか、自分の世界を消して誰かの奴隷になるかの選択しかないことを意味する。行き着くところが、奴隷が自分のために働かなくなったり年を取って働けなくなったという理由で存在を消してしまうか、どこかの物置小屋や一軒家の一室で骨になって発見されるかのどちらかという社会も、いったい何なのだと思う。 金だけあってもダメだが、金がないともっとダメ。とりあえず、生きていけるだけのお金は稼ぎましょう。ただし、金さえあれば何でも手にはいるしサービスも受けられる世の中なので、「衣食足りて礼節を知る」にはならない時代。「資金足りても礼節を知らず」にならないように、したいものだ。どちらにしても、自分を助けてくれる人の輪(circle of friends)をどうやって築くか? それが分かれば、苦労しない! |
04/13 | 08:50 | 発達障害の存在を認めないこととそれへの未対応に怒っていたら、世の中のほとんどに対して怒っていなければならない。実際、どうしてこの子(人)を放っておくのか!?と思うことがたくさんある。発達障害があれば、教えることが増えるが身に付くことは少ない。しかしできることが増えなくても、基本の基本となる人は人の間でしか存在し得ないということをしっかり叩き込んでおかないと、本人が不幸になるかまわりの人を不幸にするかのどちらかだ。 どうしてそれに気づかないのだろうかと憤っていたら、今の世の中、それ以前の問題で、「世の中を生きるとはどういうことか?/大人になる前に何を身につけておくべきか?」というところからまったく何もされていない人で溢れている現実が、ニュースとなって飛び込んでくる。確かに、私の家にはそういう視点が全くなかったし、それがもっとない家に厄介払いされたというわけだ。誰も見抜けないから、誰も指導しない。 そうして育った人たちが社会問題になったお陰で、こんな本を発見! 『14歳からのライフレッスン 善悪ってなに? 働くってどんなこと?』 時間がないのでまだ読んでいないけれど、私が本当に14歳だった頃から、実はこういう本が世の中に必要だったのではないかと思う。ヘンな人生論や哲学の世界で歴史上の偉人と生きていたら、NEETになって当たり前だろう、そりゃ! というわけで、これから世の中で生きていくために勉強開始♪ (発達障害関連の本を買うより、こっちの方がよっぽど為になる今日この頃である。だって、最終的には“社会に生きていく”ための折り合いの付け方に行き着くから。ただ、これはアスペルガーの場合で、ASDの人たちの中には法的に障害と認められて法的な支援をきちんと受けられる方向で進めていかなければならない人もたくさんいる。それは私の仕事ではないので、あしからず。) |
04/12 | 16:30 | やれることはすべてやり尽くしたけれど、それでもできないというのなら分かる。子どもたちにもそろそろ限界が見えてきた。 しかし、するべきことがまったくなされておらず、ひたすら逃げ回ってただ甘やかされ、社会的・文化的な肥しを何も吸収せずに毎日のエサの心配だけされて大きくなっただけの生き物は人間ではない。いくら発達障害があるからと言っても、それでいいはずがない。私がやって来たことは、発達障害をうんぬんするとか矯正することではなく、そういう大人にしないということ。それだけである。 (世の中には、私が発達障害の子どもをどうにかしたというような誤解をしている人がいるようだが、それは全く違う。また、ASの長男はそんな私の真意を読み取れるはずもないので田舎嫌いだとしか思っていないが、私が嫌っているのは田舎ではない。この地域でもない。この家の人とその人を育てた人である。だから、そういう人にさせないように抵抗しているだけだ。日本中・世界中に発達障害を理解する人がどんなにたくさん増えても、私はこの無理解のまっただ中にいて、毎日が修羅場のようなものだ。実際に見ているのはそういう輩だけ。それが私の現実。理解者は、パソコンの向こうに存在しているだけで実際には見えないし、誰も助けにも来てくれるわけでもない。だから、私は人類が信用するに足るものだとは確信できていない。自立できていないということは、そういう不幸を背負うことに等しい。こういう不純な動機でやっているので、どこに呼ばれても行くことができない。呼ぶなら、円満で幸せな人を呼べばいい。) |
04/12 | 14:00 | 生きてここから脱出するためにすること。
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04/05 | 21:37 | ◎これは、身近にいる特定の家族に対して言っているのであって、ネット上でこのページを見ている人に対して言っているのでないことを、前置きしておく。 親と言うより、アツシー、ミツグ、パシリ、まかない、召使いに近い存在だった者に育てられた輩は、自分たちがどんなに年をとっても、いつまでも親をそのように扱う。更に、親以外の人であっても、家族というのは自分にとってのアツシー、ミツグ、パシリ、まかない、召使いだとしか思っておらず、自分がそのように扱われて当然だとしか思っていない。 これは、ニンゲンとニンゲンの関係ではない! |
04/05 | 20:43 | ◎これは、近所に住む特定の家族に対して言っているのであって、ネット上でこのページを見ている人に対して言っているのでないことを、前置きしておく。 親の世代に何かがあったことを、とやかく言っても仕方ない。親世代がそれに対して未対応なのは、今更どうしようもない。 しかし、長く生きている分少しは世の中のことを知って、自分で分かる範囲で世の中を生きるとはどういうことか子どもに学ばせようと思わないのだろうか? 逆に、自分がちゃんとやれていないのにそれでいいと思い込んでいるか、ちゃんとやれていないことに気づいていて見栄を張っているか、アラブの王様か何かと勘違いしていて自分がちゃんとやれていない分は誰かがやって当然だと思っているかのどれかで、性懲りもなく同じ過ちを繰り返している。私はそういう家の犠牲者なので、そういう親子を見ると許せないのだ。 発達障害の存在を無視すること自体が立派な罪だ、と本当は思っている。しかし、それは無責任だ!と叫ぶぐらいにしておこう。 |
04/05 | 18:13 | ◎これは、近所に住む特定の家族に対して言っているのであって、ネット上でこのページを見ている人に対して言っているのでないことを、前置きしておく。 誰に発達障害があるという話しは抜きにして、子どもに現実検討力がなく夢みたいなことばっかり思い描きネット上の知識だけで一人前の気分になっていることもまた大目に見ても、その現実検討力のなさを子どもに諭せない親には、本当に腹が立つ。具体的なことは何も指摘せず現実を何も突き付けずに、ハイティーンによくありがちな夢に巻き込まれている大人って、いったいなに? 親がするべきことを何一つしていないのに、「どうしたらいい?」と逐一聞いてくる。もう、その相談には絶対に乗らないと言い放った。(テレビやラジオで人生相談なんかやっているタレントのカモだな、こういうのが。) そんなわけで、怒り心頭! 今日はそのせいで、他のことがまったくできなかった。 |
04/05 | 10:47 | 一昔前には、「そういう考え方をするものではない」と諭されたものが、今は抑制されなくなってきている。
何なんだ、いったい!? なので、私はネットからとっくに撤収している。 |
04/03 | 21:25 | “こういう輩”にさせないようにと一生懸命子どもを育てても、“こういう輩”のどこが悪いと思っている輩と“こういう輩”でいていいと育てた知的なカケラの全くない輩が目の前に存在している限りは、やはり子どもは“こういう輩”にしかならない。 いくらお金も住むところも帰るところもないからといって、こんなところで奴隷になっているのは、ニンゲンとしておかしいと思う。それでも、喰わせてもらっているんだから感謝できる受動的なASになれと言う専門家がいたとしたら、それは単なるNTの手先だとしか思えない。 |
03/22 | 21:40 | NTというのは、「なぜそんなことをわざわざ人に話す必要があるのか!?」とこちらが思うことほど人に話したがり、そのためだけに集まれる種類の動物らしい。しかもどうやら、それが生き甲斐らしい。…きっと、あちらも、こちらに対してそう思っているに違いない。(もっともこちらは、話すとなると書いているほどのバリエーションはない。たぶん脳ミソのどこかに貯蔵されていると思うのだが、聞いてくれないと出てこない。) |
03/21 | 16:34 | 昨日、子ども会のバス遠足だったので、まわりの地球人たちとの違いを存分に分析(いや実感)できた。(注:子ども会の遠足に参加するのは当然ながら普通の親子であって、シリコンバレー見学ツアーの参加者でもアキバショッピングツアーでもないので、話が合うことは始めから期待できない。) NT:お人好しでは決してないし特に人に優しいということもないが、人に厳しくない。 AS:お人好しというかそれ以前の問題で、人に厳しい。…つまり、「お人好しでない人がその行為をする場合はこういう意図・こういう感情を持っているに違いない」と思われ、かつ、人に好かれない。そーゆーことです。 |
03/20 | 21:56 | ホストになればもてる・テレビに出ればもてると思っていたヒロシが、現実は全然そうでなかったことにガッカリしているのは、招き猫を買っても福が来ないのと同じ。そしてたぶん、正しい質問の仕方と正しい返事の仕方を学習してスモールトークができるようになり、言葉のレベルで社会に適応しているASも同じようなものだ。 言葉のレベルで社会に適応できるようになっても業務連絡以外の話しが繋がらず、最終的には誰も話しかけてこなくなるのは、関心を持っている対象も違えば考え方も違うから。これは、毒舌ピン芸人が2人でしゃべっても漫才にならないのと一緒。同じテーマについて、穿ったものの見方をして(つまり人と違う視点・人と違う角度から見て)語ったところで、掛け合いにはならない。つまり、ボケとツッコミになっていない。こちらはいつも「こういう聞き方でこういうことを聞いて欲しいと思っている質問をしてこない・こう言って欲しいと思う答えが返ってこない」と思っているが、あちらもきっとそう感じているに違いないのだ。 ものの見方・感じ方・考え方が違っている理由は、“感情が分からない”からだと最近はどの本にも書いてあるが、決して“感情の持ち方が違う”とは書かない。これは明らかに、多数派の一方的な見解だ。“NT様の感情が分からない”のだから、“NT様の感情を教えてやればいい”と言いたいらしい。 しかし、仮に“NT様の感情が分かる=NT様の心が読める”ようになったからといっても、その社会の多くの人がこういう人になりたいと思っているような人に本心から憧れていない限り、必ずボロが出る。つまり、人に対する自分・自分に対する他人というものが脳ミソの基盤にあって、その上にプログラムや記憶装置・演算装置が組まれているのでなければ、完全にはついて行けない。そこで大事なのは、NTの人たちを怖がったり、ASをダメだと思ったりしないことだ。いろいろ教え込まれて芸のできるペットになれば、生きていけるようにはなるかもしれないが、そのギャップを感じた時に処理する方法を知っていなければ決して幸せにはなれない。 |
03/18 | 21:25 | 長井秀和やいつもここからのネタ本に(たぶん、だいたひかるも)、私の考えと同じようなことがたくさん書いてある。 まあ、ネタとしては面白いが、現実を変えようとは誰も思っていない。しょせん他人事だってことだ。気をつけろ!! |
03/14 | 08:36 | 今頃になってやっと、パソコンに繋げて使うミュージックプレイヤーを買った。といっても、HDDタイプのものではなく2万円以下の安物。しかも、ウインドウズ・メディアプレーヤーを使っているので、どうすればMP3というファイル形式にお目にかかれるかまったく知らない。(ちなみに、SP2をインストールして以来、インターネットを通じて配信される曲がダウンロードできなくなっている。たぶん、IEを再インストールしない限り直りそうにない。) 最近は、子どもたちがドラマを見るようになったり、テレビをつければ人と人がわざわざいがみ合う様子を中継したり、何様だと思っているようないばりくさった有力者か資産を自慢する想像もつかないめちゃくちゃな金持ちが出る番組ばかりなので、精神衛生上よくない(=怒ってしまう)。家にいてもこういうニンゲンたちが侵入してきてうるさくなってしまった。自分を護るのに、ミュージックプレイヤーは重宝している。いっそ、経費で落としたいくらいだ。 |
03/12 | 21:25 | 「この社会に生きてしかもNTに翻弄されないように」と説教し続けるのは、虚しい気がする。しかし、だからといって「そんなことはしなくていい」などという無責任なことは言えない。 |
03/12 | 08:37 | 今の時代の優れたソーシャルスキルというのは、ルールやマナーではなく、金・権力・腕力・言葉を使って巧みに人を騙す狡猾さ・性的魅力・美しい肉体・ブランド品を手に入れること・株を買って企業を脅すことのようだ。つまり、単なる世渡り。ソクラテスより、ソフィストというわけだ。 こういうものは、ソーシャルスキルとして療育で教えるものではない。療育で教えるのは、あくまでもルールとマナー。しかし、世の中の大半の人が身につけ指示しているのは、世渡りのためのソーシャルスキル。こんな世の中で生きるために子どもを育てているのかと思うと、とてもバカバカしい。こんなものとはほどほどに関わり、つき合わないようにして、閉じこもっていた方がましだ。 |
03/02 | 08:43 | そういえば、花粉症にKW乳酸菌が効いている。腸が弱いタイプには良いかもしれない。(去年の12月から、タブレットを服用。2月にヨーグルトがあることを発見したので、定期購入を開始。) |
03/02 | 08:40 | もし、恐怖を少しでも少なくしてくれる人がいたら、たぶん人を信じることができるようになるのだと思う。しかし、実際には、恐怖を増やしてくれる人しかいない。だから、人類は敵対し搾取されるだけの存在になってしまう。それは、↓に書いていないたくさんの恐怖をもたらし、さらにその存在自体が恐怖になっている。そして、毎日が、いかにしてその恐怖から逃げて安全を守れるかのゲームをしている。 恐怖から守ってくれて、恐怖を和らげ、恐怖感を最小限度に食い止めながら世の中を生きていく方法を親から学ばなかったら、いったい誰が教えてくれると言うのだ! |
03/01 | 23:39 | 恐怖で型抜きされた世界に生きていると、だんだんに行動範囲が狭くなっていく。みのもんたの見過ぎのバカバカしいことを言われる恐怖、怒られる恐怖、葬式になってスーパー日本人が家の中にどかどかと押し寄せてくる恐怖、自分の思い通りに人が変わらないことを嘆くだけの相談電話がかかってくる恐怖、事件事故自然災害に遭う恐怖、物がなくなる恐怖、大嫌いな人と活動時間が重なってしまう恐怖…、これらすべてが起きていないことを確認してホッとする毎日。100%安心できるのは、音と一体化している時だけかもしれない。 そして、パソコンの前にだけ通路がある。パソコンの向こう側には確かに人がいる。その人たちは友だちなのかもしれないが、ただ仕事で繋がっているだけなのかもしれない。そもそもみんな仕事で忙しいから、連絡がない。メールが来ないと、その人が存在していることさえも忘れてしまう。下らない茶飲み話をする気は毛頭ないが、たまにまだ友だちでいるかどうか確認するために、野暮用のメールを書いてみたりもする。まあ歌の文句のように「友だちと呼べることがシアワセ」と言われればそうかも知れないけれど、友だちでいるためには努力が必要と言われたら、友だちを作ったり友だちで居続けるたるの努力を何もしていないのだから、友だちではないのだろう。 で、相変わらず、本を読んで「この人は分かっている!」と勝手に感激しているが、その人が実際に自分の周りにいないのだから、結局誰も分かってくれない現実は一向に変わらない。 |
03/01 | 22:14 | インフルエンザで昨日まで熱があった。今日になってやっと熱が下がり、薬もなくなったので病院に行った。「そういえば、前にはこんな状態でボーッとして精神科の待合室に座っていたなぁ」と思ったら、突然、その頃聴いていた倉木麻衣が聴きたくなった。 そういえば、家を離れたら帰った時にろくでもないことを言われるのが恐くて外に出られなくなって以来この方、音楽を聴いていなかった。このところ文字と絵のお仕事が続いていて、脳ミソから音が追い出されてしまっていた。でも、ウォークマンで音楽を聴くことを非難されたり電話に出なくて怒られる心配のない時間帯なら、時間は取れるではないか! テレビを見たって、どうせ資本主義社会の成功者しか出てこないし、子どもたちが見ているドラマをシャットアウトするのに、丁度いい。 こんなところにいるからといって、自分が元いた場所の文化を捨てることはないのだ。 |
03/01 | 08:04 | 今やっていること。
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02/27 | 15:38 | 人は、人間らしい扱いをされないでいると本当に腐っていく。一番恐いのは、自分は価値がないからそういう目に遭って当然だと思うようになり、絶望してしまうことだ。 自分の価値を正当に認められていないから、本を書いた。状況はまったく変わらない。発達障害の存在を無視し、変えられるべき困った性格としか思っていない人ばっかりだったということもよく分かった。そういうことを相談してくる親戚の電話は、もうお断りだ。そうしてどんどん孤独になって行っているというのに、「死ね」と書かれた。テレビのスイッチを入れると、女心をつかんで成功した人か、倫理的には明らかにオカシイのに金と力にモノを言わせて威張っているオバサンやオニイサンが大きな顔をして出ている。視聴率さえ取れれば何でもいいってことだ。こんな世の中には何も期待していない。だから、ここにも書く気がしない。義務として日記を書く気もさらさらない。 けれど、自分の希望だけは失わないように、しっかりと足元を固めながら地道に少しずつ前進して行こうと思う。私は裏方であってタレントではないので、外に出ることもしない。(もっとも、外に出ると、帰ってきた時に自転車置き場のところでおぞましいことを言われるのではないかというトラウマのために、今では買い物にも行かないようにしている。学校の用事で出かけるのも恐い。)人非人の家に居候している状態は、やはり人間としてオカシイ。ここから脱出するという希望だけは失わないようにしながら、コツコツやっていく。 |
01/25 | 09:10 | 長男が高校に行き始めて、あとちょっとで1年。やっと自分の生活リズムが整ってきた。 一方、どうしても近所のスーパーでなければ手に入らないもの以外はすべて宅配にするやり方の方も、やっと落ち着いた。(調理の難しいものは書いてある通りに作らないものの)メニューの写真と作り方が一覧になっていて、考えなくて済む。これを利用しなかったら、ほとんど一日中、今日明日一週間の献立を考え、確認し続けなければならないので、他のことが全くできなくなってしまう。しかも、食材をスーパーに買いに行った場合、一つの料理ごとに完璧に材料を揃えてしまうので、残った食材が使い切れずに腐らせてしまう。最近、宅配食材のメニューの選び方がやっとうまくなって、注文しすぎて冷蔵庫を一杯にしてしまったり足りなくて困ることがなくなった。 もちろん、すべて値段が決まっているので、安いもの安いものを探して予算内に収める。それから、好き嫌いの関係で決められたメニューでは食べられなかったり足りなかったりする日の追加分は、スーパーやコンビニで調達しても良いけれど、あらかじめ見通しがついているので、お取り寄せして冷凍保存しておくと同じ値段でより品質が良く美味しいものが食べられる。もちろん、お取り寄せには、送料無料セール・受賞記念セール・福袋などをフル活用。 こういう生活をしている理由は、決して病気やけがのせいではない。自分で自分の生活を構造化した結果だ。 |
01/23 | 09:26 | どうやら、俗受けのする発言ができるということが、現代を生きるために必須の能力らしい。 だったら、何も言わずに、お笑い番組を見て美味しいものを食べている方がシアワセだと思う。「しね」と言われることもないし。経済的には、世の中にかかわらなければ生きてはいけないが、世の中にかかわればかかわっただけ、ニンゲンの嫌な面が見えてくる。味方は一人も増えないが、敵がどんどん増えていく。とてもバカバカしくなった。( 俗受けのする発言ができる人には、味方が増えていくようだが、そんなことまでして世の中に媚びようとは思わない。自立なんてしない方が、きっと自分に正直に生きられる。) |
01/22 | 10:32 | 生まれると同時に、誰もが自分の家系の問題点を背負っている。それは何も発達障害に限らず、飲んべえだとかギャンブル好きだということも含めてだ。それだけでも厄介なのに、やがてよその家系の問題点まで背負わなければならなくなる。しかも、それは親にも子にも現われる。経済力のある自立した人や、帰る家がある人は、とっととおさらばしてしまうのだろうが、それもできずにそこにとどまるしかない人は、その新しい問題点を直してしまおうと躍起になってしまったり、そこに大きな問題点が隠れていることに気づかないままどうしようもなくなってしまったりする。 世の中の人が皆、自分自身を肯定し、前向きな意味でベターハーフを探し求めるのでない限り、こんなものを療育のゴールに設定しようという人は、よほどの世間知らずか身勝手かのどちらかだと思う。 |
01/16 | 17:08 | 最近、防災関係の番組が多い。当然、内容のよいものは長男と一緒に見て、通学・帰宅途中に何か起きたらどうすればいいか学習している。しかし、現実は、感覚・認知・言語・判断・行動・精神状態のすべての領域に渡って爆弾を抱えているので、テレビで見てもほとんど使えないだろうと思う。 世の中を生きていくために必要な、すべてのことを教えるのは不可能。ただ、学校内で起きることだけは、ある程度決まっていて予測可能だから療育をする、ということ。 |
01/14 | 14:35 | ASDの人が世の中に適応する姿は、カメラが回っている間やカメラが向けられている時には張り切って芸をして、素に戻るとおとなしくて一言もしゃべらなくなってしまう芸人に似ているかもしれない。 |
01/14 | 08:58 | 「みんなが楽しくテレビを見ているのに、ASDの子どもは人の心が読めないので何かの弾みに大騒ぎして楽しい雰囲気をぶちこわしてしまう。」と、自称専門家は言いたがる。では、テレビの中からとてつもなく不快な音が聞こえていたり(例えば、今私は、ジョージアのCMで人の声の中に混じっているへんな金属音が非常に不快だ!)り、ドラマの登場人物がものすごくかわいそうな目に遭っていたり悪魔みたいな悪いヤツが出ていたりしていたたまれなくなっているこちらの“心”を、他の人たちが読めないでいることを、障害と言わないのはどういうことか!? 人の顔の表情やふるまいが読み取れない、その大元にある気持ちが分からない、言葉の意味の解釈が違っているという以前に、自分自身が人と違う感覚と認知スタイルを持っていて、快と不快の間をダイナミックに往き来するのをいかにコントロールするかという大問題を抱えていることを無視しているのは、国際水準以下と言うべきだ。 自閉症研究が国際水準に達したと宣言したいのなら、ASDの人たちが自分自身をなだめる方法をNTの目から見下して教えてやるという態度をとるのではなく、ASDの感じ方・考え方に立って一緒に探す作業ができてはじめてするべきだ。 |
01/14 | 08:00 | 今年は、PTAの会報を編集する委員会になったので、適材適所でバッチリだと思っていた。ところが、焼き餅を焼かれたりイヤミを言われたりの連続で、なんじこりゃー!状態。それは何か? みんな私が本にかかわる仕事をしていることを知らないし、今では本の原稿はパソコンを使って編集していることを知らないから起きるのか? 例えば、あの人は高校の先生をしているとか、一流企業で海外赴任を仰せつかるようなエリートだとかいうようなことをみんなが知っていれば起きない問題なのか? こちらは本を出したことでやっと奴隷状態から脱出できて、やっと今、社会性が高校生くらいの発達レベルに達したばかりだと言うのに! 人類は、ちっとも人に優しくない! |
01/13 | 09:18 | 年末年始だの三学期の役員の仕事だの、この時期また人に会う機会が増える。目につくのは、人の社会的♂♀としての言動だったり自分への要求だったりする。そして、お決まりの、ひがみ合い・意地の張り合い・欲の張り合い・個々の性格と感情のぶつかり合い。他人に対して強く出る人にひっかきまわされ、それをなだめるのに時間を費やし、終わった後の愚痴。等々。←社会的に成功しているあるASDの人は、ホームパーティに人を呼んでも苦にならないと書いているが、この国の近隣集団の中にはそんな仲間内の和気あいあいとした雰囲気がまるでない集まりというものが、必ずある。(もちろん、全く安全で和やかな集まりもある。今年は、近所の子ども会がセーフ。) こういうものには、いちいち全部腹が立つ。が、NTというものはこういうものに明け暮れ、こういうものの中を生きていることが分かった以上、こちらに分がないことは明らかだ。しかも、こちらにとって場外のどーでもいいことに時間を奪われ、精神まで汚染されるのは完全な損失。だから、この怒りは抹殺するに越したことはない。先日、ニース23でVTR出演した内山先生が「正直に何でも言ってしまったら社会生活は成り立たない」とのたまっていたので、「おおせの通りでございます」ととうことにしておこう。←と言いながら、納得していないのでここに書いている。 こういうどーでもいいことを抹殺するには、挑戦と達成が得られるもの、育成できるもの、繰り返しできるものを持続して持っていると有利だ。要は、上記のNTがNTであるゆえんとも言うべきNT臭さに汚染されない領域を保ち続けること。社会生活を維持するために、これは絶対に必要だ。ASDだからといって社会から疎外されてしまうことを望んでいるわけではないので、社会生活を維持するための方便を利用しつつ可能な限り人との接触を避けることは、鬱を回避するために必要ということだ。NTに接触することで発生する鬱がなくなることはあり得ないので、最小限度に食い止めないと損。 最近は、ASDの人は人を求めていると報道されることが多いが、これはかつて「自閉症の人たちは一人でいたいのだから、一人で好きなことをさせておけばいい」という考え方が流行っていたことを否定するためだと思われる。ややっこしいので、まとめてみる。
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