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2004.8月の日記

08/27 16:58 今年は役員で、肉体労働をしなければならない。今度の日曜日は、台風の影響で雨が降るというのにリサイクル活動があり、しかも当番だ。役員だと、人に会ってマズイことを言ってしまう機会も多い。
だから今は、の世界にいる。人の気配を消すにはちょうど良い。いやなことをわざわざ思い出すなんて、バカげている。しかもケータイ版なので、時間制限がある。時間割があるのと同じで、生活にメリハリができる。
そんなわけで、ホームページはしばらく開店休業。もしかしたら、来月は日記も書かないかも。(小学校の運動会や、役員の行事もあるし。)
08/15 06:16 バリアー
今、携帯版のドラゴンクエスト・モンスターズをやっている。アクションはないし、育成と図鑑集め・アイテム集めのゲームなので、身体的に無理がない。また、パケ代がかからないような仕組みになっていて、育成の旅に出すと2〜4時間、アイテム集めに連れて行くと1時間、そのモンスターに関しては何もできなくなる。配合や配合サーチも一日に一回しかできない。つまり、数時間おきにゲームの世界に行く、というより、ゲームができない時間だけ現実に戻ればいいというわけだ。現実なんて、どうせぴったり合うことなどないので、魂は別の世界で生きているようにした方が、精神衛生上良いに決まっている。
ゲームをしていると、一般的には遊んでいることになるのだろうが、とんでもない! まあ、本物のプレステやオンラインゲームにハマッて現実生活に支障をきたすようになってしまったら問題だが…。行ったり来たりができて、ほどほどに時間をとっている程度なら、精神を安定させるための生きる基盤として機能する。(別に、ゲームでなくても、自分が生きる別世界を持っていれば同じこと。)
08/10 21:14 理屈や言葉を鵜呑みにしていると、まったく社会生活ができないか精神的に破綻するかのどちらかになってしまう。かといって、“感情”が認識できない障害だからと言って、感情、感情と言い過ぎると、興奮しすぎたり怒りが止まらなくなってしまったりする傾向がそのままになって暴走してしまう。
しかし、「自分が抱いている感情を明確に自覚し、それを言葉にして人に言う」つまり「ある程度感情的になりながら、自分の感情を人に伝える意図を持って人に話す」と、話が通じることがわかった。その時、負の感情は多少浄化されることがある。
知っている情報や知識を伝達したり、人に教えてあげるために言葉を話していた時には、ほとんど人と話が通じた感触が得られなかった。ただ利用されていただけで、常に裏切られた感じがしていた。感情にまかせて興奮したり暴走するのではなく感情を言語化して、感情を伝える意図を持って人に話すと、人と話が通じるということらしい。どうやら、そのことを地球語で、「心を開く」とか「打ち解ける」と言っているらしい。そしてそれは、社会的な不利益を被らないように自分で自分を護る手段になっているのだと思った。
08/09 16:45 NTの多くは、心が狭くてケチだと思っておいた方が良い。そんなものに成り下がる必要はない。
しかし、そんなものの犠牲になる必要は、もっとない。そうならないための資料を、とことん集めている。
08/08 06:37 こちらが障害や病気でできなかったことに対して、「障害であるとも病気であるとも理解できずに感情的な報復をされる」という図式は、世界中のあちらこちらで起きている現象。それでも本を書くのは、すべてのニンゲンに絶望したのではないからだ。希望はある。ここにないだけで。
昨夜の、ニンゲンの下等動物ぶりをあらわにしたテレビ番組(『世界がもし100人の村だったら2』を観て、改めて情けなくなったけれど、夢は夢としてとっておくことにする。
08/07 20:44 NTってさぁ、人がせっせとマイナスから積み上げたものをさっと横取りして、さも自分が育てたかのようなふりを平気でするんだ。なんか、すっごくバカバカしくなってきた。
私は、ここにこのメンツといたために鬱になって、そのこと自体がオカシイと言っているだけなのに、なぜわざわざ復讐なんかしてくるのだ。ホントに下等動物だと思う。
08/07 18:34 毎日毎日、意地と嫌がらせにさらされながら、何か生産的な活動をするほどの精神力がない。そういう時に、人に向かって行動できれば、きっと権利を主張できたり圧力団体になったりできるのだろうけれど…。
苦しくなればなるほど自分の行動に制限を加えてしまったり、ニンゲンのイヤらしさの全くないゲームにのめり込んでしまったりしてしまう。つまり、とことん社会的に弱者。
08/07 18:27 性同一性障害の人たちだって、自分たちの権利を公然と主張している。なのに、なぜASは、おとなしく同化することばかりが要求されて、人権を侵害されても訴えることさえもできないのだろか!?
08/07 08:29 {大人になる=社会人になる=男性・女性らしくする=性役割を引き受ける}
ASの子どもの行く先は、こういう図式のないところ・職種・職場を選ぶようにしないといけない。また、早期療育によって、受動的にしたり性差を引き受けさせたりして社会に適応させようという陰謀には、断固反対する! 生き延びることだけが目的なんていうのは、人権の侵害。
08/06 23:13 社会で生活できることと、ニンゲン社会に巻き込まれることとは別のことだ。本来は。
教育的に教えられるソーシャルスキルというのは、社会のルールや一般的な人の心情だが。それは欲得のないご立派なモノの考え方。しかし、実際に私の周りにいる人たちは、こういうご立派なことを考えて生きてはいない。ものすごく狭い小さな集団の中で、自分の取り巻きの間でのみ通用しているモノの考え方や常識から一歩も外に出ることなく、その中で自分が大事にされ、ちやほやされていると実感できることが重要ならしい。つまり、実際よりも世間体。人間性よりも経済力。こんな現実を教えられるのは、「先生」と呼ばれる人たちではない。
08/06 17:39 去年は、一日に二回出かけるなんてありえなかった。出かけるのは一週間に一度が限度で、あとは寝ていなければならないことが多かった。役員の仕事があると、前後は必ず寝ていたものだった。
精神的苦痛を取り除くための環境との戦いの結果、今はだいぶ体力が回復している。今日は、小学校のプール当番だったが、雨が降ったため自転車で行けず片道30分の距離を歩いて往復した。我慢できずに2時間も昼寝をしてしまった。というととてもずぼらに聞こえるが、2時間で回復して、今から商店街の祭りにいけるなんて快挙だ。
しかし、体力と運動能力がないために、こんな地獄にしかいられなくなってしまったというのに、この地獄の住民は体力と運動能力のない人間がこの世にいるなんて信じられない人種ばかり。共通点がなくて補完関係にしかない組み合わせというのは、厄介払いには最適なのかもしれないが、精神的には最悪である。
08/05 17:28 携帯電話に、はまっている。といっても、つい最近になって持つようになったわけではないが…。長男が高校生になって、“ケータイやりたい”同級生と友だちになったため、(本人はあまり好きではないが)操作方法を覚えなくてはいけなくなった。それで、長男が私のケータイ仲間になったというわけだ。とーぜんながら、「スライムのフィギアを買ってこい」とメールするのは、私の方である。
私ら3人でいる限りは、オタッキーな会話で盛り上がる、とっても楽しい家族である。
08/03 13:20 久しぶりに、自分が元いた場所から来た人に会った。自分だって同じ道を歩けたはずなのに、どこがどう違うのだろうかと考えてみた。たぶん、元いた場所にいた普通の人たちがカタツムリだとしたら私は殻のないカタツムリで、元いた場所にいた普通の人たちがカブトムシやタマムシだとしたら私は鎧のない中身だけの虫で、殻も鎧もない代わりに、一生懸命に固く丸まってやっていくしかなかったのではないかと思った。周りに自分の仲間が見つからなくて誰の真似をしたらいいかも全く分からなかったので、行動を決めるには言葉と法則に従った。自分の感情も意思も、あったものではなかった。
しかし今、そんな地球人が自分たちの取り決めで良かれと思っている勝手な押しつけに従うことを拒否して自分にとっての快適環境を自分で作ったし、私が私であることを認めてくれる人がいることを知った。そういう人たちに私は守られていて、(実際には言えなくても)何でもぶっちゃけられると信じられるし、(実際にはしなくても)頼ったり甘えたりして良いのだと思えること。これが、“一人じゃない”ってことなのだと思った。
08/01 23:19 「どうせ言っても無駄だ」と思い込んでいて何も言わないことを、NT的には“心を閉ざす”と言うらしい。しかし、一生懸命にしゃべっているのに一度も通じた実感がなかったら、何も言わなくなって当然。
しゃべるようになったのは、別に心を開いたからではない。一生懸命にしゃべっていた言葉がどうして通じなかったのか、誰にどう言えば通じるか分かったからしゃべったのだ。でも、その前に、「この人なら分かってくれる」「相談に乗ってくれる」と信じられる人に出会って話を聞いてくれて、更に「もっと教えてほしい」と言われたからだ。
08/01 06:42 「価値」を全否定して「無価値」に転落するのは容易だ。しかし、「無価値」が「価値」に変わるのには、相当なエネルギーがいる。
一番大変なのは、せっかく自分の「価値」を認めてくれる人に出会っても、にわかには信じられないということ。それから、すべてが真っ黒だった世界に人としての「価値」が見えてくるようになり、人に対して好嫌の感情を持ったり評価することができるようになると、つまり、“社会的な感情”を持って人とのかかわり方を選択する意思を持つようになると、人に対して評価を下すようになった自分が、悪い人になったような気がすること。